2016年12月31日

今年最も印象に残った展覧会五選+α

 2016年は世界政治の激動の年であったが、国内の美術関連で話題になったものと言えば地域芸術祭の盛況(乱立)と「若冲展」の盛況(行列)くらいか。自分はと言えばその前者はひとつも見ておらず(そもそも遠出というものをマッタクしていないし、近場で開催されたものも興味がわかずスルーした)、後者はいちおう行列だけは見た(展示を見に行ったのだが、館外にまで伸びる長蛇の列を目撃した瞬間に断念して引き返した)。
 ネットを使って積極的に展示情報を探すこともなくなり、話題の展示も平気で見逃すようになって、見たい展示を見られる範囲で見ていただけなので、昨年と同様に今年も見た展覧会の総数自体はそれほど多くない。
 では印象に残った展覧会もそれに比例して減ったのかと言えばむしろ逆で、「ホントにこれが全部今年の一年の出来事なのか!?」と驚くくらい多くの印象に残った展示があるのだ。それだけ豊作の年だったということか、それとも自分の執着度が上がったためなのか、いまひとつよくわからない(ちなみに近年はひとつの展覧会に費やす時間がどんどん長時間化する傾向にあり、その結果として一回の外出で見られる展覧会の数が減っているという事情もある)。
 この十指はおろか足の指にさらには猫の手を借りても余る数の「印象に残った展示」からTOP10のリストを作るのは容易ではなく、ただでさえ忙しい年末に余計な労力を使いたくもない。したがって今年は趣向を変えて、自分にとってもっとも重要であると思われる展覧会を五つだけ選んで【今年の五選】としてみた。ここまで絞ると選択の基準は「見たことが自分の人生にまで影響を及ぼしそうなもの」となる。
 とは言え、それだけでは日記(年記)としての機能を著しく欠くしあまり面白くもないので、それ以外の好印象だった展覧会を【印象に残った「絵画」の個展】、【印象に残った「良く出来た展覧会」】、【その他の個人的に印象に残った展覧会】という三つのカテゴリーに分けて列挙し、さらにおまけで【(敢えて挙げる)悪印象の展覧会】と【展覧会以外のジャンルでもっとも印象に残った作品】も挙げてみた。
 結局、今年も一年分の日記を一気にまとめて付けた体である。




今年の五選(見た順、以下も基本的に同)

岩熊力也 苦よもぎの泉 」コバヤシ画廊(1月)URL
ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏」東京ステーションギャラリー(2〜4月)URL
安田靫彦展」東京国立近代美術館(3〜5月)URL
没後110年 カリエール展」損保ジャパン日本興亜美術館(9〜11月)URL
デイヴィッド・ホックニー The Yosemite Suite」西村画廊(10〜11月)URL



以下、個々の展示についての覚え書き。


◎「岩熊力也 苦よもぎの泉 」

 この展示については既にブログで書いたので、詳細についてはとくに付け足すことはない。ともすれば「奇展」に分類されかねない内容で、これまでこの作家の作品を支持していた人のなかでも戸惑いを覚えた者はいたのではないだろうか。
 しかし自分はとにかくこの展示にムチャクチャ感動してしまったのである。こんなにもトチ狂っていて、それでいてこんなにも説得力のある、つまりはこんなにも“真摯な”表現は他にそうはない。なんだかやたらめったら勇気づけられた展示だった。
 どれだけの人がこの展示を目撃したかわからないし、少なくとも自分はその評判をまったくと言っていいほど目にしなかった。しかしほんとうに重要なことはTLなどで関心が集まる話題のスポットなどではなく、人目に付かない世界の片隅でひっそりと行われているのだということも、この展覧会は教えてくれたのである。


◎「ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏」

 ブログにもTwitterにもどこにもなにも書かなかったが、フツーに選べばこのモランディ展が自分の今年のベスト展覧会である。ではなぜどこにもなにも書かなかったかといえば(単にメンドーだったからというのもあるが、それはともかく)なにも書けなかったからである。とにかくその作品について語られた言葉が片っ端から「的を外している」ように聞こえるような特性をモランディの絵は持っているのだ。単純な作品記述ですら「それって単にアナタの主観でそう見えるだけなのでは?」とツッコミを入れたくなるくらい「的を射た言葉」を語るのが難しい。展覧会では会場の壁のあちこちにモランディ自身の言葉がレタリングされていたのだが、その作者自身が自作について語った言葉すら終いにはマトハズレなように思えてくるほどなのである。
 会期中二回見に行ったのだが、一回目と二回目ではマッタク見え方が異なり、一回目の鑑賞で「ワカッタ!」と思って自分のなかでまとめていた考えは、二回目の鑑賞でことごとく否定された。同じ鑑賞時でもいったん絵の前から離れ、再び戻ってくるとまた違った風にみえたりして、とにかく見え方が一定しない。だからどれだけ時間をかけて見ても飽きることがなく、いつまで経っても会場から出ることの出来ない究極の「キリがない絵」なのだった。
 どうせ後から「マトハズレなこと書いてんなー」と思うに決まってるのだが、とりあえず展示を見て「わかった」ことを一点記しておくと、展示を見る前はモランディはずっと「同じもの」を繰り返し描いた画家だとばかり思っていたのだが、実際はこれほど多くの種類の絵を描いた画家は他にいないのではないかと感じたこと。同じモチーフを題材に、毎回毎回違った観点から違った絵を描こうとしているように思えるのだ。今回の展示はモチーフの相似によって展示が構成されていたので、同じ時期に描いた絵の一枚一枚の違いと、時代別による傾向の違いが会場内に混在していて、これはこれで気付かされるものが多い素晴らしい展示だったけれども、同じ作品を制作年順に並べなおした展示があったらそれもまた見てみたかった(もし巡回先で「並べなおし」の展示があったら、遠方でも見に行っていたかもしれない)。
 ちなみに1998年のモランディ展を見逃している自分にとって、本展は有楽町アート・フォーラム(!)で見て以来の実に二十六年ぶりの「モランディ展」なのだった。次回はぜひもっと短いスパンで実現してほしい。


◎「安田靫彦展

 正直言ってこの展覧会を今年のベスト展に選ぶのには忸怩たるものがある。というのも「展覧会としての出来」だけを云々するならば、本展はむしろワースト展のリストのほうに入れたい出来だったからである。
 言ってみればこの展覧会は「失敗したブロックバスター展」のようなものだったのではないだろうか。おそらく近年にもいくつか開催されている過去の安田靫彦展と差別化するためにセールスポイントとして打ち出したのが「全点本画のみ百点以上!」という本展の謳い文句だったのだろう。しかし先行する靫彦展が本画以外の下絵やスケッチも展示していたのは、単なる本画の数が揃えられないための穴埋めのではなく、なによりもそれらを展示することが靫彦の絵の魅力を見る者に伝えるのに役立つからであろう。実際、自分が靫彦の絵に関心を持つようになったのも、2010年にニューオータニ美術館で開催された「安田靫彦展−花を愛でる心」で彼のスケッチ画を見たからだった。本展の「全点本画!」は、セールスポイントどころか、自ら靫彦の絵の魅力を伝える重要な手段をひとつ封印してしまったようなものなのである。
 「全点本画!」のシバリは、展示の歪さにも繋がっていたように思う。それを一番よく表していたのが会期前半に《月の兎》の巻物を展示した展示ケースに、会期後半は《東都名所》の連作を充てたことだろう。全二十二枚の中に靫彦の絵が一枚含まれるに過ぎないこの連作はあきらかに展示全体のなかで浮いており、もともとも悪い展示のバランスをさらに崩していた。好意的に解釈するならば「同時代に活躍した他の日本画家の作品と靫彦の絵を比較するため」という意図が汲み取れなくもないが、しかしそれならば上階の収蔵品展のなかでいくらでも出来るのだし、現にやっているのである(そもそもこの《東都名所》は東近美の所蔵なのだから、収蔵品展内で展示するほうがむしろ自然ではないか)。「靫彦の絵の魅力を伝える」という目的のためであれば、同じ展示ケースにスケッチや画帖を並べたほうがよっぱど効果的だし、見るほうとしても嬉しいのであるが、結局それを阻んでいるのが「全点本画!」の縛りなのだろう。必然性が見当たらず見ていてイライラする絵の並びも展示替えの多さに所以していたのであれば、いったいなんのためのセールスポイントなのかと思えてくる(もちろん「客寄せのため」ということなのだろうけど)。
 最終展示室を潰して特設のグッズ売り場にする仕様も東近美の展覧会としては異例で(そのわりに買いたいと思わせるものが一つもない貧弱な売店だった)、靫彦の絵の「品の良さ」を喧伝するわりには随分と品のない展覧会だったと言わざるをえない。
 とはいえ、それだけならば「まぁー展覧会を開くのはお金がかかるんだろーし、スポンサーからの口出しもあるっていうウワサだし、いろいろと大変なんだろーなー」と美術館側に同情する余地もあるのだが(同情しなければならない義理はないが)、しかし本展の場合そうした「大人の事情」の部分を差し引いても、なお内容に不備の目立つ展覧会だったのである。あきらかに解説は足りていなかったし、企画者が「先例がない」と胸を張る戦争期の作品を独立させた章立てもとくに功を奏しているようには思えず、そのなかには靫彦の性格を考慮に入れていない的外れな偏向した解釈も見受けられた。一言で言えば、靫彦の絵の魅力を伝える努力を甚だ欠いた展覧会だったのである(「展示対象に対する愛情の感じられない展覧会だった」と言ってしまいたいが、それはさすがに言いすぎか。しかしそれに近い出来だったのだ)。
 ではなぜそんな展覧会を「もっとも印象に残った展覧会」のひとつとして選ぶのかと言えば、そのあきらかに展覧会では「足りていなかった情報」を補うため、展示を見た後に自力で靫彦についての過去の文献などを調べたことが、展覧会で作品をまとめて目にしたこととプラスして自分にとって実のある体験になったと考えるからである。その結果として書いた長すぎて誰も読まない(自分も読み返さない)ブログ記事二本(コレコレ)はおそらくいま読み返したら書き直したくなるところだらけの不出来だろうが、それはまぁドーデモイーのだ(どーせ誰も読みやしないのだし)。重要なのはたかだかブログ記事を書くための短期間の調べものとは言え、対象について深く知ろうと自ら行動を起こしたことであり、実際調べてみたらそこにはかなり大きな鉱脈が眠っているようでもあったのだ。もうかなり以前になるが、熊谷守一の画業の秘密を自分なりに考えてみようと資料を調べてみたときに感じた興奮と手応えに似たものを、そこでは得ることができたのである。言ってみればそれは靫彦を血肉化していくような感覚で、これ以降は作品を見るときなどに「靫彦だったらコレをどう評価するか?」と考えることが癖になってしまったくらいなのだ。
 自分にとって「良い展覧会」とは単に見ている最中の「ヨカッタ!」だけで終わるものではなく、展示対象に対する興味をかき立て、展示を見終わった後にさらに自力での行動を促すようなもののことを指す。その意味ではかーなり変則的ではあるが、本展は自分にとっての「今年を代表する展覧会」のひとつであることに間違いないのである。


◎「没後110年 カリエール展

 今年の秋の展覧会ラッシュは例年に増して凄まじかった。コチラの懐具合や休日の日数をまったく考慮に入れていない絢爛豪華なラインアップがズラリと並ぶ。
 そのなかでいま一つ地味な存在だったのがこの「カリエール展」である。同時期に開催される西洋絵画の展覧会としては、誰もが知ってる巨匠二人の夢の競演「ゴッホとゴーギャン」、本邦初開催でマニア垂涎の「クラーナハ」、未だに劣らぬ大衆人気を誇る「ダリ」と、混雑必至のブロックバスターや注目展が並ぶなかでの「カリエール」なのだ。
 確かに十年前の没後100年の際には国立西洋美術館において大々的に「ロダンとカリエール」が開催されている。しかしそれはあくまで大スター「ロダン」あってのもので、両者の比重は「ゴッホとゴーギャン」とはだいぶ異なったものだっただろう(というか内容は別にして、プロモーション的にはカリエールはオマケに等しかったのかもしれない^^;)。
それが今度は「没後110年」といういまひとつ中途半端な区切りでの単独展の開催である。この十年の間にカリエールの作品を見る機会はちょくちょくあり(西美のコレクションに入ってるし、企画展でも同じ損保美で昨年開催された「最後の印象派 1900-20's Paris」展などで見ている)レア感もなくありがたみも薄い。他に注目展が並ぶなかでコレはパスしてもいいかなぁ〜と最初は思っていたのだ。
 ところが! 蓋を開けてみたら「この秋最大の注目展は実はカリエールだった!!」と言い切ってしまえるくらい、これが驚きの展覧会だったのである。
 この展覧会はカリエールのひ孫である美術史家の個人コレクションが出品作の大半を占めるという変則的な展示だったのだが、結果的にそれがステレオタイプな「カリエール」のイメージを崩すのに役立っていたのだろう。十年前の「ロダンとカリエール」の展覧会図録を見直してみたのだが、そのときのカリエールの出品作は肖像画など一部の作品を除けば基本的に劇的で芝居がかった感じの大仰な絵(いかにも「世紀末風」で「象徴主義」な感じ)が多かったように思う。それらの“力の入った”作品はパブリックイメージとしてのカリエールをよく表しえていたのかもしれないが、けれん味のある作風が時代掛かった古めかしい印象も与えていたように記憶される。
 それに対して本展の出品作は家族や身近な人々を描いた絵が中心であった。「ロダンとカリエール」がパブリックでマッチョなカリエールだったとすれば、今回はむしろプライベートで親密なカリエールなのだ。そしてカリエールの本質は、むしろその後者にこそよく表れるということが確認できたのである。時間と労力を注ぎ込んだ大作・力作がそのまま絵の魅力に比例するわけではないことは世の常だが、カリエールの場合はそれが極端なのだ。なにげない小品が真正なる名画のアウラを放っていたりして、「なんでこの絵の前に行列ができていないんだろう?」と不思議に思ってしまうくらいだった。
「ロダンとカリエール」には出品されていなかった風景画や、本画とあまり区別が付かない(そしてときには本画以上に魅力的な)習作など見どころも多かった。
 カタログなどの表記から推察するに、おそらく本展は外部のイベント会社の持ち込み企画だったのだと思うのだが、おそらく地道な研究の成果としてあったであろう十年前の重厚な「ロダンとカリエール」で伝えきれていなかったカリエールの魅力を、展覧会としては圧倒的に“軽い”作りの本展が伝え得たというのも、なにかカリエールの絵の本質と関係しているようで面白い。
 カリエールの絵に関しては、まだその謎を自分のなかでもちゃんと整理できていないのだが、とりあえず二度目に見に行った直後にTwitterに書いておいたメモをもとに再構成すると以下のようになる。

 カリエールの絵の魅力は、画布に像(または「存在」)が出現するその瞬間を捉えようとしていることにこそあるのだと考える。「絵」が出現すること自体への驚きと畏敬は、原始絵画、草創期の写真、あるいは心霊写真などにも通じるものだ。その意味においてカリエールの絵は原始的でもあると言ってもいいのかもしれない。その驚きを「見ること」や「目前の存在を知覚すること」へ関心に繋げ、それを画布上で理知的に再現しようとすればセザンヌ〜キュビスムの現代絵画の流れへと連なるのだろうが、カリエールはあくまで原初的な「畏れ」の段階に留まる。
 その「原始性」は、たとえば「存在の出現」の様子を筆跡それ自体が表すかのようなカリエールの独特な描法が、霊木から仏が顕現する様を表した鉈彫仏の表現にも通じることや、認識の限界に挑むかのような幽きイメージが、それが肖像画の場合は特にキリストの顔が浮かんだ聖骸布を想起させることなどからも確認できる。
 つまり言ってみれば、カリエールの絵は「芸術」や「絵画」が魔術性(マジック)を失して理知的(ロジック)へと傾斜していくその歴史の分岐点で、原初的な「絵画の魔術性」へと留まろうとする最後の抵抗だったのではないだろうか。そしてその畏敬の対象が「描かれる対象(聖的なイメージ)」ではなく「絵が表れること=絵画」自体であるところに、カリエールの「近代性」があるのだと思う。

 …って結局それが「象徴主義」ってことなんじゃないかって自分でツッコミを入れたくもなるのだが、しかし「象徴主義」とレッテル付けてしまった瞬間に見えなくなってしまうものがカリエールの絵には確実にあるようにも感じるのだ(このことは前回書いた日記にも通じる話かもしれない)。とはいえ、とりあえず今書けるのはせいぜいこの程度である。
 そーいえばスッカリ忘れていたが、西美の小展示「世紀末の幻想 近代フランスのリトグラフとエッチング」に出品されていたカリエールの肖像リトグラフを見て「これが河原温の《死仮面》の元ネタか!?」と驚いた旨を、自分は昨年の年末日記に記していたのだった。その意味では今年カリエールの個展が開催されたのは絶妙のタイミングだったはずなのだが、前述したとおり見逃す気まんまんの低反応だったのは(自分の記憶力の衰えをさておけば)それだけ「カリエール」に対するステレオタイプの刷り込みが強烈だったということではないだろうか。
 「ワカッテいる」と思っていた作品や作家について、それを覆される体験ほど展覧会鑑賞において重要なものはない(逆に言えば「ワカッテいる」ことをわざわざ確認しに行くだけの展覧会ほどツマラナイものはない)。その意味でも既存のイメージを覆してカリエールの新たな魅力に気付かせてくれた本展は、今年を代表する忘れ難い展覧会なのである。


◎「デイヴィッド・ホックニー The Yosemite Suite

 町田市立国際版画美術館で開催された「デイヴィッド・ホックニー版画展」(10〜11月 URL)も、東京都現代美術館の所蔵品を中心にしながら「版画の技法」という版美ならではの視点を活かして構成された好展覧会であったが、「驚いた」という意味では断然コッチである。
 たしかに日本初公開とは言え作品自体は数年前のものだし、webなどを通してそのイメージも事前に目にはしていた。しかし「本物(本作はプリントであることも重要だと思う)」を目にした衝撃は予想を遥かに超えていたのだ。
たとえば古の絵画の巨匠が現代に生きていたらどんな絵を描くだろうと考えてみることがある。ベラスケスがもし現代に生きていたら? 北斎なら? おそらく彼らは彼らが生きていた時代に描いた絵と同じようなものは描かないだろう。彼らの天才がいかんなく発揮される「現代の絵」を描くに違いない。もちろんそれを目にすることは叶わないわけだが、しかしホックニーのこのCG画は、そんな空想を実現するような作品でもあったと思うのだ。現代に生きる最高のペインターがiPadで描く絵は、やはり余人の及ばぬケタ違いのものであったのである。
 本作においてもっとも重要なのは、現代を生きる我々にとって油絵具による絵画の筆致以上に見慣れたペイントソフトのブラシによって描かれていることであろう。標準で搭載されたペイントソフトのブラシ跡が無造作に残されたその画面は、言ってみれば手品師が「種も仕掛けもありませんよ」と被っていた帽子の中を見せるようなものだと言える。見たこともないような複雑怪奇で大規模な仕掛けからウサギが飛び出しても誰も驚かないのだ。それが見慣れたなんの変哲もないような帽子であり、「種も仕掛けもない」ことが誰の目にも明らかな物から不思議が生じるからこそ、見るものはそれに驚き、そこに「魔法」を感じるのだろう。
 ホックニーのiPad画も同じである。誰もが描けるようなペイントソフトによる筆線は「種も仕掛けもない」ことを謳っているのだ。実際はその線を引くに至るまでのホックニーの画家としての技量や、プリント技術などの「種や仕掛け」がそこには隠されているのだが、その部分は絵を見るものには「見えない」。だからこそその「誰もが描けるようなペイントソフトによるデジタルイメージ」を通して、目の前に広大な自然公園の風景が広がるのを目にしたとき、我々はその「魔法」に驚嘆するのである。そしてその「魔法」は、絵画がかつて持っていた「魔法」のその原初的な姿なのだ。
 次に引くのは詩について書かれた文章(詩)だが、これは絵画や美術作品についても同じことが言えるのではないだろうか。


表現を洗練させるということは、詩語を用いてそれらしく仕上げることではない。ふつうに普段使っている日常の言葉を用いて、まるで、かつての詩語のように(その詩語が当初もたらせた、いまはもうもたらせることのない)さまざまな連想を誘い、豊かにその語の来歴を自らに語らしめさせること、それこそ表現を洗練させることである。(中略)詩語を用いて詩作品をつくるつもりならば、それは反歴史的に、反引用的に用いなければ、文飾効果はないだろう。すなわち、詩語は、もはやパロディー的に用いるほか、まっとうな詩作品など書けやしないであろうということである。(田中宏輔『詩の日めくり 第二巻』より)
 


 つまりホックニーのiPad画における見慣れたペイントソフトのブラシのデジタルイメージは「ふつうに普段使っている日常の言葉」なのである。だからこそ古典的な画材や画風で現代に描かれた古典風の絵画が決して呼び起こすことのない絵画がかつて持っていた「魔法」を、これほどまでに鮮やかに蘇らすのだ。




印象に残った「絵画」の個展

小林達也展 忘れるし 思い出す」gallery福果(1月)URL
有原友一個展/木秀典個展」ART TRACE GALLERY(1〜2月)URL URL
トランス/リアル−非実体的美術の可能性 vol.1 越野潤」gallery αM(4〜5月)URL
佐藤万絵子展 窓枠を押しつぶせ空」なびす画廊(7〜8月)URL
西原功織 120号展示」A-things(10〜12月)
内海聖史展 室内の木星」ギャラリエアンドウ(10月)URL



 思えば今年の五選に選んだ展覧会は全て「絵画」の展覧会だった。確かに絵画の展覧会には他のジャンルの展示より積極的に足を運ぶようにしていたし、感銘を受けるものも多かった。しかしそれが何故なのかが自分ではよくワカラナイのだ。それというのも自分自身の制作は以前にも増して「絵画」からは遠いところへと去りつつある最中だからである。もともと「部外者」であったのが、今や完全なる「無関係者」であると言ってしまってもあながち間違いではない。それにも関わらずなんでまたこんなにも「絵画」のことばかり考えているんだと自分で呆れるほどに「絵画」について考え、絵画の展覧会に足を運び、そしてそこで感銘を受けることも多かったのだ。
 それが何故かはワカラナイのであるが、とりあえず今年見たもののなかより印象に残った「絵画」の個展を上に列挙してみた。全員比較的自分と年齢の近い作家たちである。

以下は各展示についての覚え書き。


〇「 小林達也展 忘れるし 思い出す

 2009年に偶然立ち寄ったトーキョーワンダーサイト本郷で見た展示が印象的で忘れ難かった画家の、実にそのとき以来七年ぶりに見た個展。TWSで見たときよりもかなり小規模の展示だったが、その絵の魅力がいささかも減じていないことを確認できた。前回見たときはシュビッタースを思わせるコラージュ感覚が印象的だったのだが、今回の展示ではそれが大竹伸郎的にも見えたりし、ある意味ではその根の確かさも感じられた。
 今回ここに列挙した画家たちはそれぞれに異なる多様な作風を持つのだが、それらは皆「絵画」という不可能性に一度ぶつかった末に、それを克服せんとした結果として出来ているように自分には見える。つまり「絵画」に対して一回「捻り」があり、その「捻り」が各人の作風に表れているように感じるのだ。
 そのなかにあってこの小林達也は、唯一その「捻り」を感じさせない画家なのである。ひじょうに真っ直ぐに「絵画」に対して向かっているような感を受ける。そうかと言って時代遅れの様式を愚鈍になぞっているようにも見えないところが、この画家の不思議なところなのだ。時代の流れをまったく無視しているようでありながら、その超然とした立ち位、置の「揺るぎなさ」によって時代とアジャストしているような感覚もあって、その意味では同時代の画家のなかでもかなり異質な作家だと思われる。ひとつだけ確かなのはその絵が決して月並ではないということであって、素直に壁に飾っていつまでも眺めていたくなるような、そんな絵なのだ。
 今年はアーツ前橋で高山陽介との二人展もあったようで見に行きたかったのだが、自分の行動範囲を大きく超えていて断念した。いまもっとも美術館の企画展などでまとめて作品を見てみたい作家のひとりである。


〇「有原友一個展/木秀典個展

 本来は別々の個展なのだが(有原が自分の展示スペースへの展示を高木に依頼して実現したという)、両者の比較も含めて楽しめた。高木の作品の魅力に初めて気付かされたのは同じスペースで開催された前回の個展だった。今回はまたそのときとは違った素材を使った作品であったが、「絵画」の概念の限界をなぞるという意味では前回の展示と共通しており、今回もまた「〈絵画〉とはなにか」について考えさせられるカッティング・エッジな展示だった。
 一方の有原の展示を見るのは今回が二回目だったのだが、初めて彼の絵を見たときは「ぼんやりといい感じ」を受けたに過ぎなかったのである。しかし今回の展示に関してはほんとうに驚かされた。フツーに美術館の常設展示に並んでいてもおかしくないようなその堂々たる作品の佇まいに驚いたということもあるが、それだけではどうも解決できない妙な感覚もある。後日作者自身の話を聞いて判明したところでは、これらの作品は「途中(まだ継続して描き続ける可能性がある)」というのだ。高木の作品に比べればむしろ「オーソドックス」にさえ見えた有原の作品が、高木とはまた別のかたちで「絵画」の概念の限界をなぞっていることを知り、再度驚愕した次第である。
 部外者ながら展示を機に開かれたトークイベントに呼んで頂き、そこで聞いた話などを基に自分なりに彼の絵について考えてみた考察は、長すぎて自分でも読み返さない安田靫彦展のブログ記事に混ぜてある。


〇「トランス/リアル−非実体的美術の可能性 vol.1 越野潤

 詳細については既にブログに記しているので略す。
 透明なアクリルにシルクスクリーンで塗装するという素材の新鮮さもさることながら、やはりもっとも驚かされたのはそれらの作品によって構成される空間の緊張感の高さだった。そこにもっとも「絵画」的なものを見たのである。


〇「佐藤万絵子展 窓枠を押しつぶせ空

 佐藤万絵子に関しては今年、この個展より先にアサヒ・アートスクエアで開催された大規模な展覧会「机の下でラブレター(ポストを焦がれて)」(1月 URL)を見ていたのだが、しかし正直言ってその内容は自分の期待を裏切るものだった。それに対して本展ははるかに規模の縮小された展示ではあったが、しかしこちらはとても良かったのである。
評価の違いが生じた原因ははっきりしていて、AASでの展示が展示脇の通路から作品を置物の写真撮影用のセット(実際、写真うつりだけは良さそうなのである)を眺めるように見る仕様だったのに対し、本展では通路側の壁面にも絵を配するなどして、空間全体を作品化することにまずは成功していると思われたからだ。佐藤の作品の場合、作者だけではなく、それを見る観客も作品のなかに取り込まれるような感覚を受けなければ、この形式で描く意味がなくなってしまうように思うのである。フレームを超えて空間全体に絵が増殖していくような感覚を体感できないのであれば、それこそ写真撮影用のセットを傍から見ているような感慨しか持てないのだ。そのためには展示空間全体を「作品化」する必要が絶対にあり、残念ながらAASの展示はそれが全く出来ていないように思えたのである(そもそも片側に通路用のスペースを空けて観覧させるような構造自体が失敗だったのではないだろうか。渡り廊下でもなんでもいいから、あのなかに観客が入っていけるような工夫が欲しかった)。
 ところでここからは余談になるが、急速に進む老眼に対応するために今年普段使い用のメガネの度を大幅に下げたのだが、その結果として展覧会を見に出かけた際、会場に掲示してある解説の文字がちょっと離れるともう読めなくなるといった事態に直面するようになってしまった(暗い場所ではよりものが見えにくくなるのである)。その解決策として双眼鏡(展覧会用としてネットで高評価だったPENTAX PAPILIOII6.5×21)を鑑賞の補助用として導入したのが、これがなかなかのスグレモノで、今ではどこにも持ち歩いてなんでもかんでも双眼鏡を通して見ている(「オランダのモダン・デザイン リートフェルト/ブルーナ/ADO」展で至近距離からブルーナの原画を双眼鏡で見ていたら、写真撮影をしているのだと間違われて係員に詰め寄られた^^;)。
 そして、当然ながらこの佐藤万絵子展も持参した双眼鏡で鑑賞してみたのだが、これが実に「はまる」のである。近寄ることのできない遠距離にあるもののディティールも確認できるし、なによりも(おそらく作者が意図しているであろう)「絵の中に入り込む」感覚を味わうことができるのだ! ぜひ次回に佐藤万絵子の展示が開催される際は、双眼鏡の会場貸し出しも検討してもらいたい。


〇「西原功織 120号展示

 昨年「四コマダイアリー」の展示に衝撃を受けた西原功織の同じ会場での個展。120号の巨大な絵画がインデックス画像にしか見えない異様は、相変わらずスゴイ。
 先に小林達也の欄で、今回ここに挙げた画家たちは皆「絵画」という不可能性を一回通過した上で、その「捩れ」がそれぞれの作風の特徴に繋がっているということを書いた。1978年生まれの西原はここに列挙した七人の画家の内では一番若いのだが(参考まで各人の生年を記しておくと越野67年、小林73年、木74年、佐藤75年、有原76年、内海77年。「五選」に挙げた岩熊力也は69年。全然関係ないけど自分は70年生まれ)そのことが影響しているかどうかはわからないが、彼の絵はこのなかではやはりちょっと異質に感じる。小林達也は例外だが、それ以外の画家は皆その作風に「絵画」の不可能性との摩擦の跡を残しているように感じられるのに対して、西原の絵からはそれを感じないのである。むしろやすやすとその「不可能性」を通過してしまっているようにさえ思える。
 と言ってもそれは、彼よりさらに下の世代(即ち80年代生まれ以降)の画家が描く絵に多く見られる絵画を描くことに前提が要らなくなった世代特有の「屈託のなさ」ともまた違う。「不可能性」は確かにあるのである。しかしそれは「不可能性」を回避するための「捩れ」やそれとの格闘の結果として生まれる「摩擦」ではなく、むしろ「不可能性」を丸ごと飲み込んだ(肯定した)上で、そのさらに先に進もうとしているような「異様」なのだ。
 この「異様」の先になにがあるのか見てみたいと強く感じさせる画家であることは確かである。


〇「内海聖史展 室内の木星

 内海聖史の絵の面白さは「絵画であること」を鑑賞の中で実感させるその度合いに比例すると考える。その方法は主にキャンバスの巨大化、大量化、変形などによって描かれたイメージと共に「物質としての絵画」をも見る者に感じさせることに拠る。言ってみれば「絵画」のスタンダードを解体することによって、「絵画」の本質を露出させるような感じだろうか。その「正攻法」な攻め方は、頭打ちになった天井を力任せに下からガンガン突き上げていくような快感ももたらすのだが、繰り返し見ていると「頭打ち感」のほうが次第に強く感じられるようにもなってくるのも確かである。作品を巨大化させるにせよ、大量化させるにせよ、物理的限界というものがあるからだ。まるで「現代絵画」が辿ってきたようなその壁をどーするのかなーとそれほど熱意も込めずに傍から眺めていたのであるが、本展の展示にはその頭打ちの天井を見事に突き破って穴をあけたような驚きがあったのである。
 横長のキャンバスに描かれた絵がストライプ状に縦に連なり巨大な画面を形成するという仕様の作品を、歪なかたちの狭い画廊空間に展示するために分解し、まるで梁のように空間内に縦横無尽に張り巡らした展示。完成されたイメージを別に(潜在的に)持つことでかえってそれを強く想起させ、それと同時に絵画の物質的な側面を過去のどの展示と比べても際立って強く見るものに実感(体感、と言ったほうが適切かもしれない)させる。しかもそのアクロバティックな展示は「ケタはずれに巨大な絵画を狭くて歪な形をした小画廊の空間に展示する」という必要に適っており、ちゃんと筋も通っているのだ。
 必然的に近距離からの鑑賞を強いられることになるのだが、そのことによって絵の具の微妙な質感が見えたり、バラバラに分解されランダムに配置された画面によって色彩へのより強い自覚を促されたりもした。これまでともすればパターン認識的に見て済ませてしまっていたこの画家の絵の今まで気付かなかった側面にも目を開かされた展示だった。



 以上七名の比較的自分と年齢の近い絵画作家の印象に残った個展を列挙してきたわけだが、「絵画」に対する自分の関心が変わってきた例として、参考としてもう少し年の離れたベテラン画家も二人ほど追加しておきたい。それは岡崎乾二郎(1955年生まれ)と小林正人(1957年生まれ)である。

 岡崎乾二郎の個展は今年二つ、南天子画廊(6〜7月 URL)とTakuro Someya Contemporary Art(11〜12月)で見た。前回の南天子画廊での個展あたりからこの作家の作品に対する見え方が自分のなかで変化してきたように感じていたのだが、それは今年見た二つの個展でより確信に近付いたような気がした。以前はこの作家の長文のタイトルと絵を組み合わせる仕様や、生のアクリル絵の具の散らし描きや、キャンバスの木枠へのコラージュなどの技法が、その「形式」自体が前景化して見えてしまってどうも好きになれなかったのだが、近年の作はペインティング自体の「詩性」のようなものが上がって、タイトルと絵の融合度が明らかに以前より高まっているように感じられるのである。つまり以前は「形式」にしか見えなかったものが「表現」として受けとめられるようになり、「絵画」である以上に一つの「詩」のかたちとして解釈できるのではないかとさえ思えるようになってきたのだ。とは言え作品の形態や外見が目立って変化したわけではないので(というかぱっと見だけではほとんど変わっていないように見える)、はたしてこの変化が作家の側の変化なのか、それとも受け手である自分の変化なのか、はたまた時代の変化とかなのか、いまのところまだ答えは出ていない。

 小林正人も岡崎同様にずいぶんと長いこと見ている作家で(初めて作品を見たのはたぶん1991年の佐谷画廊での個展)、その絵の魅力に気付くのにもかなり長い時間がかかった画家である。少しずつ少しずつ時間をかけて(それこそ十年以上かけて)その絵の魅力が感じられるようになってきたのだが、それでも現在の画風(通称「ひどい絵」?)を2010年の個展で初めて見たときは「う〜ん、コレはいまいちピンとこないなー」程度の感想しか持てなかったのだ。それがどうしたことか、今年見た個展「Thrice Upon A Time」(シュウゴアーツ 10〜12月 URL)では、なんかもーベタに快感中枢を刺激される感じになっていたのである。これもまた作家の側が変化したのか、見る側の自分の感性が変化したのか、いまひとつその原因がワカラナイ。

 自分の「絵画」への関心についてさらにもう一点情報を付け加えるならば、もともと見る機会自体が少ないということもあるが、同時代の欧米の作家(ホックニーやリヒターといった老大家は別にして、もっと下の世代)の絵画作品をギャラリーなどで見ることがあっても、だいたい理が先走っているように見えてしまって、魅かれることがほとんどないのである。他のメディア(映像、写真、インスタレーション)に比べて、絵画に関しては自分のなかに内外格差があるような気がしてならないのだ。
 つまり自分が魅かれる「絵画」とは「Painting」と完全に重なるものではなく、「絵画」という言葉に対する解釈の問題をも含むナニカであるということなのではないだろうか。その意味では「〈Painting〉と完全に重なるものではない〈絵画〉」の始祖的存在でもある黒田清輝の大回顧展(東京国立博物館 3〜5月 URL)が今年開催され、「絵画」の根を確認するという意味合いにおいて大変興味深く見たこともここに記録しておくべきかもしれない。



印象に残った「良く出来た展覧会」

ボッティチェリ展」東京都美術館(1〜4月)URL
浦沢直樹展」世田谷文学館(1〜3月)URL
ジョン・ウッド&ポール・ハリソン 説明しにくいこともある」ICC(2015年11月〜2月)URL
カラヴァッジョ展」(3〜6月)URL
若林奮 飛葉と振動」うらわ美術館(4〜6月)
ゴッホとゴーギャン展」東京都美術館(10〜12月)URL
円山応挙「写生」を超えて」根津美術館(11〜12月)URL



 毎年くどいくらい繰り返し書いているが、年末の日記で自分が選ぶ「今年見た印象に残った展覧会」リストの選択の基準は「自分がどのくらい感銘を受けたか=自分にとってどれだけ重要な展覧会だったか」なのだ。したがって今年のように客観的な評価をすればワーストのほうのリストに入れたい「安田靫彦展」のような展覧会を選ぶこともある。
 しかしこーして展覧会を見続けていると、「良く出来た展覧会」と「あまりにも酷い出来の展覧会」が世には混在していて、その差が限りなく大きいにも関わらず、それがあまり世間では語られない(評価の対象とされない)ことに気付くのだ。入場者数による評価は話題性や宣伝力が物を言うのだろうし、メディアに載るレビューなども表面的なテーマのみで内容を判断しているようなもの(レビューというよりもプレビュー的なもの?)が多い。
 もちろんだからと言って自分のような人間が「客観的に評価」してみたところでどーにもならないわけだが、今年はとくに「よく出来ている!」と感心させられる展覧会が多かったので、ここに列挙して個人的な記録としてみた次第である。

以下は、各展示がどう「良く出来ていた」かについての詳細。


〇「ボッティチェリ展

 昨年Bunkamuraザ・ミュージアムで見た「ボッティチェリとルネサンス」展は、フィレンツェという都市に焦点を当てたキュレーションは良かったのだが、肝心のボッティチェリの作品が今一つ良いものが来ておらず、かえってこの展覧会を機に自分のボッティチェリに対する評価は下がってしまった。
 その下がった俺的評価を挽回させたのが本展である。Bunkamuraの展示とは規模(予算)も違うのだろうが、しかしこの展覧会はただ名品を一作でも多く集めることだけを誇るようなバブリーな展覧会とは一線を画していたのだ。
 展示を見ていて感じたのは、工房作の大作で雰囲気を作った後に、ボッティチェリ単体名義の小品でその技量の高さを確認させるなど、展示のなかで必要とされる作品が必要とされるだけ揃えられているという感覚である。もちろん有名作だけで会場を全部埋め尽くせば豪華な展示にはなるだろうが、そんな展示はまず実現不可能だし、実現したとしてもその効果が品揃えの豪華さに見合うものになるとは限らない。たとえば音楽において曲の聞きどころがサビであったとしても、一曲全部サビで埋め尽くしてしまったらその効果がなくなってしまうだろう。一曲の完成度を見るとき、重要となるのはサビを聞かせどころとするための構成ではないか。本展はそうした構成に長けていたと思われるのである。集められる作品数に限りがあるボッティチェリを主題としながら、その限りある出品数のなかで不足を感じさせることのなく「必要なものが必要なところにちゃんとある」ことを実感させていた本展は、サビだけが単調に続くような「豪華な展示」よりも、むしろその「贅沢さ」を感じさせる展示だったのである。
 三フロアーある会場の真ん中をボッティチェリに当て、その前後を師のフィリッポ・リッピと弟子のフィリッピーノ・リッピの親子で挟み込む構成も秀逸で、ボッティチェリの作品理解に貢献していた。とくにフィリッポ・リッピの作品はボッティチェリを凌ぐほどの面白さで、本展の隠れた目玉だったと言ってもいいかもしれない。ルネサンス初期〜中期の遠近法が発明されたばかりでまだ技法的に充分にこなれていない頃の絵には、現代の我々が超高解像度画像や3D、VRなどに見るものと同じか、またはそれを遥かに超えるような「新しい視覚」に対する当時の新鮮な驚きが籠められている。例えば「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」(国立新美術館 7〜10月 URL:この展覧会自体は「良く出来ている」とは言い難い出来ではあったが)などでも冒頭部に展示されていた初期の作品が、絵画が当時の人々にとっていかに「新しい視覚」のメディアであったかその息吹を伝えていて、それに続く「巨匠たち」の展示に比べても断然面白かった。そのうちどこかで「初期ルネサンス展」とかやらないかなーと思うけど、でも人が入んなさそうだから望み薄だろう。


〇「浦沢直樹展

 以前、自分が敬愛する漫画家である谷岡ヤスジの展覧会が開催されたとき「あの玉稿が拝めるなんて!」と胸を躍らせて会場を訪れたのだが、展示された原稿を見ていたら面白いのでフツーに漫画を「読んで」しまい、見終わったときは「これならフツーに本の形で読んだほうが、読みやすくてヨカッタかもなー」などという冴えない感想を抱いただけで終わってしまった。
 かくのごとくマンガ展の難しさは、展示された原稿を「見る(鑑賞する)」のではなく「読んでしまう」ことにあると考える。もともとそれは印刷されて「読む」ものであり、鑑賞するものではないのだから仕方がないのだろう。
 しかし本展はそれを逆手に取って、短いものでも一話分全部、長いものになると単行本一巻分全て(!)を展示された生原稿で読ませるという方法を取ることでこの問題をクリアーしていた。生原稿のまま作品を読ませる手法は本展の発明ではないが(例えばあの夢のように素晴らしい出来だった2010年に川崎市民ミュージアムで開催された横山裕一展も作品一冊分の長さの生原稿を読ませるかたちの展示をしていた)、浦沢直樹の売りである画力の高さを生原稿の状態で確認しながら「読める」のは、マンガの新しい楽しみ方を発見したようでなかなか楽しい体験だった。
 作品紹介などのバランスなども非常に良くて、最近作の『BILLY BAT』を展示の冒頭部に配して、その初回の完成原稿をラフと対比して展示するなど、とにかく痒いところに手が届くような作りの展示だった。
 浦沢マンガに関して言えば、自分は『YAWARA!』までは喜んで読んでいたのだが、『Happy!』の連載が始まった頃に読まなくなって、それ以降の作品は一切読んでいないというかなり距離のある人間で、そもそもこの展覧会も昨年末に同じ会場で開催された「詩人・大岡信展」(これも良展覧会だった)を訪れたときにアンケートに答えて招待券を貰ったので覗きに行ってみただけだったのである。しかし「よく出来た展示」のおかげで、思わぬ充実した時間を過ごせた。かくのごとく「よく出来た展示」は展示対象と距離のある観客をも楽しませるのである。


〇「ジョン・ウッド&ポール・ハリソン 説明しにくいこともある

 展示の評判を自発的に調べなくなると、その結果として話題になっている良展示を見逃してしまうこともままある。この展覧会もあやうく見逃しかけたのだが、最終日に駆け込んでなんとか事無きを得た。会期も長く会場もアクセスが容易な場所だっただけに「なんで今まで評判をチェックしなかったんだ…」と展示を見たときは自分を責めたくなったが、同時に見逃さずに済んだことに胸をなでおろすような非常に良く出来た展覧会だったのだ。
 ちなみに会期ギリギリになりながらも見に行ったきっかけは、「美術手帖」に展示のレビューが掲載されたからである。と言ってもレビューの内容に触発されて出かけたわけではなく、会期中にレビューが掲載されたので「レビューの信頼度がどのくらいあるかひとつ確かめてやろう」というひねくれた好奇心から出かけたのだった。
 では実際に見てみてレビューの信頼度はどうだったかというと、正直言ってそれは今一つ判断が付かなかった(汗)。しかしレビュー末尾に置かれた「映像に絞ることで焦点の定まった個展となった一方、実践の全貌を見るには彼らの平面、オブジェ、模型などの作品展示も望まれる。空間の手狭さととも、にその点だけ心残りとなった」という締めの一行は、このレベルの出来の展示に対してさすがにそれはないんじゃないかと思わず義憤に駆られてしまった。実際、ICCの企画展示室の「手狭さ」を知っている自分は、この箇所を読んで行くべきかどうか躊躇ったぐらいだ。
たしかに最終日の午後は会場から人が溢れんばかりの物凄い状態になってはいたが、しかしその状態になってもなおインスタレーションの美点が感じられるほど、機能的かつ美的に組まれた素晴らしい展示だったのである。会場の隅から隅までを無駄なく使った本展インスタレーションの機能的な美しさ自体が、自分にはウッド&ハリソンの作品への批評(レスポンス)になっているようにも感じた。もちろん「平面、オブジェ、模型などの作品展示」の必要性などもマッタク感じなかった(それはオマエがウッド&ハリソンの「全貌」を知らないからだろうと言われればたしかにその通りなのだが、しかしあの展示の完成度を崩してまで「全貌」を見せることが、はたして彼らの作品の魅力を伝えることにどれだけプラスになるのか自分には甚だ疑問なのである)。


〇「カラヴァッジョ展

 本展の美質は「ボッティチェリ展」と似ている。すなわち過去最多点数のカラヴァッジョ作品が出品されているという数字上の「豪華さ」以上に、展示のなかで必要な場所にちゃんと必要な作品が揃えられている感覚をもたらす「豪華さ」こそが重要だったと思うのだ。あとはこれで「斬首」のコーナーに『ホロフェルネスの首を斬るユディト』が展示されていたら最高以上なんだけど…などとも思ったが、いくらなんでもそれは高望みが過ぎるだろう。カラヴァッジョ以外のカラヴァッジェスキの作品も質が高いものが多く、作品を見る目の快楽と当時の画壇にカラヴァッジョが与えた影響の大きさを知る知的な快楽の両方を満たす「よく出来た贅沢な展示」だった。
 ちなみに本展や「ボッティチェリ展」の「必要な作品が必要なだけある“豪華さ”」を説明するために比較として例に挙げたいのが、今年国立新美術館で開催された「ルノワール展」(4〜8月 URL)である。この展覧会、とにかくやたらルノワールの有名作がたくさん来ている「豪華」な展覧会だったのだが、そのわりには以前同じ国立新美術館で見た「ルノワール―伝統と革新」に比べて、どうも全体の印象がパッとしない出来だったのである。それはたとえばルノワール以外の作家の作品でも「パリの街の喧騒」をあらわすためだけにゴッホの油彩画が三枚も展示されているなど「無駄な豪華さ」ばかりが目につき、「ボッティチェリ展」や「カラヴァッジョ展」に見るような「必要な場所に必要な作品が揃えられている」感覚に乏しかったためだろう。


〇「若林奮 飛葉と振動

 昨年、神奈川県立近代美術館葉山で見て感銘を受けた同じ展覧会の巡回展。実はこの浦和会場より先に府中市美術館でも同じ巡回展(1〜2月 URL)を見ていたのだが、こちらは動線の作りにくい空間に無理やり既存の展示を押し込んだ結果、葉山で見たものとは別物の無残な出来になってしまっていた。まったく見どころがなかったわけではないものの、葉山の展示が良かった分、全体としてはひどく失望させられていたのだ。
 それに対してこのうらわ美術館での展示は起死回生。府中はもちろん、葉山の展示をも凌ぐほどの凄まじく良く出来た内容だったのである。
 「本」をテーマにした美術館であるうらわ美術館だけに、本をモチーフとした彫刻《港に対する攻撃ll》から展示はスタートする。初期作品を紹介する最初のセクションでは、全てのものが一寸たりとも動かせないような端正で緊張感を持った展示となっている。府中では会場に合っていない葉山展からの使い回しと思しきくたびれたパネルを無理やり使っていて非常に気になったのだが、本展では会場の大きさに合わせて解説パネル類は新調されていた。それらも本展では展示を構成する重要な要素なのだ。グリッド性を強く意識した展示配置はどこか本のレイアウトをもイメージさせて、良く出来たアートブックのなかを歩いているような楽しさも覚える(グリッド性の強い端正な構成は、若林の初期作品の特徴でもある直線で構成された近未来SF的な閉鎖空間のイメージとも呼応している)。
 それが次の「庭」をテーマにしたセクションに入ったあたりから周囲の景色が変わり始める。直線主体の閉じた空間から、突然見晴らしの良い広い場所に出たような感覚を覚えるのだ。実際に若林が設計した軽井沢・高輪美術館の庭の写真や模型も展示されているのだが、それ以上に《大気中の緑色に属するものll》の鉛板に刻まれた線が遠くに見える山の稜線となり、その前に立つ鉄の彫刻《近い緑ll》が一本の大きな木と化すのである。展示されている作品は葉山や府中のときと同じだし、それが表れる順番も基本的に変わりがないのだが、各展示において作品の見え方がまるで異なるのだ。展示の中での「作品が果たしている役割」が異なっていると言った方がより実情に適っているかもしれない。本展では展示されている作品が、セクションごとの「風景」を展示空間に現出させることに実に効果的に機能しているのである。
 その「庭」のパートの展示室は第一章の展示から進んでくると開けた場所に出たような開放感はあるのだが、しかし広大な大自然を思わせるほどの壮大さはない。遠くに山並みが見えるほどに開けてはいるが、しかし人の手によって一定の広さに区切られた場所、すなわちまさに「庭」を思わせるくらいの体感なのである。
 それがさらに次の展示室へと進むと、今度は自分が森に彷徨いこんでいることに気付くのだ。ここの展開は鳥肌が立つほど素晴らしく、なんだか知らないけど思わず涙ぐんでしまったくらいだった。前の展示室とは仕切り壁で完全に区切られ、斜めに先方向に続く次の展示室がわずかに垣間見えるその空間自体が「森」的なのであるが(気が付いたら辺りが突然に森となっていて、小暗い中でその出口が遠くに見えている感じ)、もちろん通常の展示ではそんなことは微塵も思わないだろう。その場所を「森」にしていたのは言うまでもなく展示されていた若林の作品であり、なかでも特に縦長の大きなキャンバスに鉛筆で樹々が描かれた作品《多くの川を渡り、再び森の中へ》だった。本来は全十八点組になるこの大作(名古屋会場でのみ全点展示)は、葉山の展示でも、府中の展示でも大きなスペースを取っている割にはいまひとつその効果が見えず、全体的に好印象だった葉山の展示でさえ「この作品はサイズのわりにはイマイチだし、別になくてもいいかな〜」と思っていたくらいだった(窮屈な府中の展示ではさらに場所塞ぎな印象が増して見えた)。それが三館のうちでもっとも展示枚数の少ない浦和会場で、初めてこの作品は有効に機能していたのである。本作の会場間での見え方の変化は、それ自体が感動的ですらあった。
 森の中を通った展示は地中の世界(《DASIY》〜《緑の森の一角獣座》)を垣間見て、最後は自然生命のなか(《4個の鉄に囲まれた優雅な樹々》や《飛葉》)へと拡散していく。回廊型になっている展示会場全体がまさに異界巡り的な壮大な構造となっているのである。
そしていったん会場を出た後、一部屋だけ切り離された最終展示室に向かうのだが、そこに展示されているものが現実世界における(つまりオブジェとしての)本の作品なのである。先に書いた通りうらわ美術館は「本」をテーマにコレクションをしている美術館であり、館の独自企画(この巡回展は巡回先の館独自の展示物が必ず追加される仕様になっている)として若林の本の作品を最後にまとめて展示してくるのは予想通りと言えば予想通りではあった。
 予想外だったのは、その「体感」である。異界巡りのようだった本展示を通ってこの最終の展示室に辿り着くと、本のなかに広がる空想の世界を冒険してきた物語の主人公が、そのエピローグで自分が冒険を繰り広げてきた当の本を手にして眺めているような、そんな感覚をすらも覚えたのだ。つまりこの展覧会全体がまるで一冊の本のような作りになっており、展示を一巡することで「本」というオブジェがその内部にはらむ無限の空間をも想起させていたのである。
 会場の建築的特性までも展示のための効果として有効に利用していた本展は、とても物故作家の回顧展、しかも巡回展の最終会場とは思えない驚異的な内容で、「良く出来ていた」などという言葉で表現されるべきものとは別次元の達成を示していたと思う。しかし真に驚くべきは開催館によってこれほどまでの幅広い展示を可能にするこの展覧会の柔軟さと、若林作品の奥深さだろう。先に開催されていた名古屋会場と足利会場の展示が見られなかったことがほんとうに悔やまれてならない。


〇「ゴッホとゴーギャン展

 展覧会の人気(入場者数)とその内容の「出来のよさ」は必ずしも(というかたいていは)関係しない。長年の地道な研究の成果として出来ているような素晴らしい内容の展覧会が閑古鳥が鳴いていて、話題だけで作ったような内容のない展覧会に長蛇の列ができていることも、実にしばしば見かける。そういう体験を繰り返していると、なんとなく「人があまり入っていない展覧会=内容重視の展覧会」:「行列ができる話題の展覧会=内容のない展覧会」といった偏見も生まれてブロックバスター系の大規模展示はついつい避けがちになってしまうのだが(混んでるが嫌だということもあるが)、もちろんブロックバスターにだって「よく出来た展覧会」はある。そして本展は「よく出来たブロックバスター展」の新境地を切り開くような展覧会だったのだ。
 白状すれば自分も見に行く前は「どーせ客寄せ狙いの企画なんだろ?」とナメていた。ゴッホもゴーギャンも単独の回顧展はひっきりなしに開かれているような印象があるし、ここ数年はポスト印象派を主題にした展覧会が続いていることもあって、特にこの二人の作品を見る機会は多い。しかし単独で集客力のある大スターを二枚看板にする方式は美術展では新鮮である。しかもこの二人の関係をめぐるエピソードは美術ファンでなくとも知らない人がいないくらい人口に膾炙している。タイトル付けに悩むこともない。「ゴッホとゴーギャン展」。もうタイトルだけで勝ったも同然だ。内容なんてなんだって構わない。行く前は自分もそう思っていた。
 ところが本展は、稀に見るほどよく出来た内容のブロックバスターだったのだ。展示作は国内の美術館の所蔵品と海外から借りてきたものとが混ざっていたが、そもそも「日本初公開!」とかを謳い文句にするブロックバスターとは全く違った発想の作品選択がなされているのである(そういう意味では同時期に近くの上野の森美術館で開催されていた「デトロイト美術館展」(10〜2017年1月 URL)と本展は好対照だった。デトロイト展は「デトロイト市の財政破綻が云々」というバックストリーを除けば、ホンットに典型的な「一館もの」で、常設展示の一部を縮小して持ってきただけのようなラインアップだった)。
 本展の展示でまず気付くことは基本的に「良い作品」が選ばれていること。ゴッホもゴーギャンも見飽きるくらい既に数は見ているわけだが、それでも「おや?」と目が留まるような質の高い作品が選ばれている。数は少ないが関連作品も見所のある作品が揃えられていて、同じく見飽きるほど数は見ているモネの絵に思わず「おっ?」と足が止まったりする。
 そして「大スター二枚看板顔合わせ」も単なる客寄せ狙いの浮ついた企画ではなく、二人の関係が互いの作品にどのような影響を与えたのか、真面目に検証する作りになっている。その影響の程が今回の展示でどれだけ明らかになったかと言えば、正直言って個人的にはそれほど大きな発見はなかったのだが、しかし専門の研究成果を反映させる作りが展示に信頼性を与えていたのは確かだろう。
 その専門の研究成果を反映させる“真面目な”作りのなかに、本展は大衆向けのエンタテインメント性をまぶしこむのだ。表立っては決して言わないのだが、なんとな〜〜〜くゴッホとゴーギャンの「BL的な関係」を展示のバックグラウンドに匂わせるのである。その最高潮が二人の「破局」が訪れるパートで、ここの展示はあざといくらい上手かった。そのパートで鍵になる作品はゴッホによる《ゴーギャンの椅子》なのだが、その展示の流れで見ると自分には椅子の上の置かれた蝋燭が、ゴーギャンの「男性自身」以外のなにものにも見えなかった(^^;)。
 とは言え二人の関係でもっとも知られたエピソードであるゴッホの「耳切り事件」については展示のなかで一切触れない(展示の途中で差し込まれる関連映像のなかでのみ説明される)など、一定の節度を保って低俗には決して流れないようにしていたことが本展の勝因だろう。その結果としてアカデミックとエンタテインメントが絶妙のバランスでミックスされた稀に見る「よく出来たブロックバスター展」なっていたのだ。
 出品作に関して例えば肝心のゴッホが描いたヒマワリの絵がないなど足りないものを探せばあるのだろうが、しかし本展はゴッホ、ゴーギャンの各人のキーとなる一作(ゴッホは前述の《ゴーギャンの椅子》、ゴーギャンは《肘掛け椅子のひまわり》)をそれぞれのパートのターニングポイントに展示しており、それによって展示の流れがきれいに構成されているので、これにもし例えば損保美の《ひまわり》(1888年)を借りて展示に組み入れたりすると、ゴッホのパートにクライマックスが二つ出来てしまいそのバランスが崩れしまう恐れもある(損保美からは同時期に描かれたゴーギャンの作が貸し出されている)。ゴーギャンの《肘掛け椅子のひまわり》と直接響きあうべき作品が展示前半にないのは一つの完結した展示内で見れば失点であるが、それがさほど気にならないのは二人の知名度による余得だろう(つまりゴッホの「ひまわり」のイメージは展示会場になくとも、ほとんどの観客の脳裏には浮かぶ)。
 展示された作品が与えられた役割を果たし、なおかつその作品に潜在されていた魅力がいかんなく発揮されている展覧会を見るのはほんとうに楽しい。その意味では本展は「よく出来た展覧会」の条件をお手本のように示す展覧会でもあったのである。


〇「円山応挙「写生」を超えて

 東博で開催されるような大規模展に比べれば、本展の規模は中程度。しかしその中程度という規模の利点を如何なく発揮していた良展覧会だったと思う。
 応挙はなかなか良い作品を見る機会が少なくて、生前より喧伝されてきたそのテクニシャンぶりが実感しにくいきらいがあった。たしかに2004年に江戸博で開催された展覧会の図録を見返すと本展の出品作も含む大規模な回顧展でそれなりに感心した覚えはあるのだが、その名声の高さがそこで完全に納得できたという記憶はあまりないのだ。
 それに比べれば本展は規模こそかなり小さくなるが、水増し一切なしで逸品のみを揃え、さらにそれを的確に活かした展示構成にすることで、過去にないほど応挙の力量の高さを実感させる展示となっていたのである。
 三室の展示を三章立てにして、最初の展示室を逸品尽くしにしてまず観客を圧倒し、続く第二章で画歴の展開と画帳類など制作の裏側を見せ、最後の第三章で大作絵巻「七難七福図巻」をじっくり見せるという構成も効果的。その中で本展のテーマである応挙の代名詞でもある「写生」が自然を写し取る近代の「写生」とは異なることも示してゆく。
応挙の「写生」のなかには先行する絵師が描いた画帳をソックリそのまま写して学ぶことなども含まれるのだが、第一章の展示作のなかに認められた描写のもとになったスケッチを続く第二章で見せるなど、限られた展示数のなかで「逸品」と「テーマ」の両方を無駄なく効果的に見せる作りが印象的だった。
 もっと展示数に余裕があれば、応挙が描写のネタ元にしたという他の絵師の作品なども展示したいところなのだろうが、しかしそこは展示の解説でカバーするなどそつはない。当たり前と言えば当たり前のことではあるが、しかし世の中には必要な解説が足りていなかったり、無駄な解説が不必要に付けられていたりする展覧会もまことに多いのである。
 ほとんどの作品が展示替えされるためできれば後期の展示も見に行きたかったが、残念ながらそれは叶わなかった。




その他の個人的に印象に残った展覧会

第19回文化庁メディア芸術祭受賞作品展」国立新美術館(2月)で見たアニメーション文門大賞作品「Rhizome(Boris LABBE作)」URL
横井弘三の世界展」練馬区立美術館(4〜6月)URL
奥村雄樹による高橋尚愛」銀座メゾンエルメス フォーラム(6〜9月)URL
ポコラート全国公募展vol.6」アーツ千代田3331(7〜8月)URL
コレクション 福田尚代展」うらわ美術館(9月)
北島敬三“UNTITLED RECORDS Vol. 9 ”展」photographers'gallery(9〜10月)URL
山下雅己 サウンドオブオイルヒューマン 東京編」ギャラリーハシモト(10〜11月)URL
BODY/PLAY/POLITICS」横浜美術館(10〜12月)URL
時代を映す仮名のかたち」出光美術館(11〜12月)
浦上玉堂と春琴・秋琴」千葉市美術館(11〜12月)URL
東京・TOKYO TOPコレクション+日本の新進作家vol.13」東京都写真美術館(11〜2017年1月)URL URL


以下、個々の展示についての覚え書き。


「第19回文化庁メディア芸術祭受賞作品展で見たアニメーション文門大賞作品「Rhizome(Boris LABBE作)

 メディア芸術祭受賞作品展は毎年なにかしらの発見があるのでできるだけ見に行くようにしているのが、今年はずっと低迷を続けていたアート部門がついに完全に沈下し部門自体の存在意義をも疑わせるような事態に至っていたのに加え、毎年必ずなにか面白いものがあるエンターテインメントも目ぼしいものが見当たらず、アニメーション部門だけが一人気を吐いているといった状態だった(マンガ部門は例年通り特に新しい発見はないが、受賞作の原画などが見られるのが楽しい)。
 そんな好調なアニメーション部門のなかでも、大賞受賞作品のBoris LABBEの「Rhizome」から受けた衝撃は別格であった。技法的にはブリューゲルやボスの絵画をモチーフにした榊原澄人のアニメーションのように、画面のなかでループする運動を繰り返すものが集合して全体を構成していく作品なのだが、榊原作品に比べこちらは抽象の度が高く、最後には宇宙的なスケールにまで発展していき見るものを唖然とさせる。まさに「今までに見たことのないイメージ」であり、単体の作品としては今年もっとも驚かされたもののひとつであると言ってよい。
 ちなみにメディ芸の関係で付け加えれば、秋に開催された「文化庁メディア芸術祭20周年企画展」(アーツ千代田3331 10〜11月 URL)は、「展覧会」というメディアの特性をまったく理解していない駄展示で、「入場無料」に釣られてノコノコ見に出かけた自分自身を責めたくなった。


〇「横井弘三の世界展

 ありえたかもしれないもう一つの「美術」の可能性を見るという意味で興味深く見た。
 横井弘三は早くに二科展で入賞を重ね画壇の中核近くにもいた画家だが、1926年に東京府美術館(都美の前身)の開館記念に開催された「第1回聖徳太子奉賛美術展」の審査基準などをめぐって藤島武二に代表される当時の既成画壇と対立。自ら無鑑査、自由出品のアンデパンダン展を主催するなどして対抗するも、結局は政争に敗れるようなかたちで「美術」の表舞台から退場し、戦争を機に長野市に移住。中央画壇から遠く離れたその場所で一人制作を続けた。
 本展では横井に付けられた呼称「日本のアンリ・ルソー」がことさら強調されるが、しかしその場合の「アンリ・ルソー」はピカソらにも影響を与えた近代美術史のキーパーソンとしての「ルソー」ではなく、もっぱら「人を微笑ませるのびやかな作風」の絵を描いた「素朴」で「素人」な「ルソー」の意味しか籠められていない。しかしルソーの「素朴画」が近代絵画において革新たりえたように、横井にとっての「素朴」や「素人」は選択されたアヴァンギャルドであり、既存の価値観に対抗するための武器でもあったのだ。
 残念ながら展覧会の企画者ですらもそのことを理解できてはおらず、展示解説のなかで横井が独自の画法を多く生み出した理由を「伝統的な技法では正規の美術教育を受けた画家に及ばないのを知っていたからではないか」などと邪推しているほどである。横井の初期の活動に関する資料を展示するなど重要な素材を提供しながらも、展覧会全体としては「中央の画壇で挫折して地方に移り住んだ変わり者の素人画家と彼を支えた支援者」という「いい話」で終わってしまっているのはなんとももったいなかった。
 そうした本展の構成を批判して、アンデパンダン展を主催するなどの活動面から横井を最初期の「アート・アクティヴィスト」として評価する批評家もいるが、それだけでは彼の重要性のほんの一面を見たことにしかならないだろう。アクティヴィスト的な活動はあくまで目的に対する手段でしかないからだ。「ナイーヴ・アートとしての横井」を切り捨て「アート・アクティヴィストとしての横井」のみを取り上げて評価する姿勢は、今ある「美術」の価値基準に照らし合わせてしか横井の作品や活動を評価できないというその限界性において、「ナイーヴ・アートとしての横井」しか評価できなかった本展の構成と実は同じ轍を踏んでいるのだ。
 横井が日本の美術史において重要な意味を持つのは、彼が「美術」の概念の形成期にその中核で「オルタナティヴな価値観」を掲げて戦ったことに他ならない。そのオルタナティヴな価値観こそがすなわち「素朴」であり、「素人」であり、「無審査の展覧会」なのだ。
 それは「美術」という概念をめぐる戦いであり、もし横井がその闘いに勝っていれば、日本の「美術」は我々がいま考えるものとはまったく別物になっていた可能性もありうるのである。すなわち本展に見る横井の作品は「ありえたかもしれないもう一つの〈美術〉」の姿でもあるのだ。
 そしてそこから翻って考えれば、我々が今目にしている「美術」が「横井弘三的なもの」ではなく、「藤島武二的なもの」の末裔としてあることにも気が付くのである。


〇「奥村雄樹による高橋尚愛

 この展示については既にブログ記事にして書いた。展示そのものもさることながら、その感想をブログに書くことによって「芸術」の本質が「奇跡」や「魔法」にこそあるということ(not Logic but Magic)に気付かされたことが自分にとって最大の収穫であった。もちろんその気付きを与えることができるこの展示自体が「魔法」だったのだろう。


〇「ポコラート全国公募展vol.6

 ポコラートももう六回目でそろそろマンネリ化してくる頃かと思いきや、さらにパワーアップしているようで、今年も新鮮な驚きを与えられた。今年は会田誠、鴻池朋子という二人の画家が審査員として加わっていたためか、絵心の豊かな作品が多かったように思う。メモをとってなくて、個々の作品について記録できず残念。


〇「コレクション 福田尚代展

 作品自体は既に見たことのある旧作だし、展示形態も2013年の「秘密の湖」展や「MOTアニュアル2014」のときとそう大きく変わるものではないのだが、緊張感のあるインスタレーションによってまったくの初見であるような感慨すら受けた。個人的には本を折りたたんでいく作品である《翼あるもの》の一冊によって示されていた一行が、たまたまその時の自分に天啓のように響いて、本のなかにある言葉とこんな出会い方もあるのかと驚かされたことが印象に残っている。
 展示ではないが今年上梓された書籍『ひかりの埃のきみ』(平凡社)は、王朝仮名文学とシュルレリスムが合体したようなトンデモナイ作品で、正直自分はまだその衝撃をうまく客体化できないでいる。オートマティスムのさらに先を行くその表現は、「人間(ヒト)の為す表現」の臨界を突破してしまっているようにさえ思われる。人はこんなにも深いところまで潜って行けるのかと、自分など思わず恐怖すら感じてしまう。
 自分はかつて「アーティスト・ファイル2010」で見た福田の展示の感想として「福田尚代=紙魚」という結論をTwitterに書いたのだが、まさか紙魚がコツコツと空けていた孔が、これほどまでに宇宙的なスケールを持つ地図であったとは、当時の自分には微塵も気付けていなかった。この書籍に関しては「今年の」云々ではなく、それこそ千年単位のスケールで捉えるべきなのかもしれない。貫之とブルトンに読ませたい本。


〇「北島敬三“UNTITLED RECORDS Vol. 9 ” 展

 今年見た同シリーズ三回の内ではこの Vol. 9が一番よかった。たまたま同じ日に「トーマス・ルフ展」(東京国立近代美術館 8〜11月 URL)を見ていたのだが、両者を比較することで新たに気が付いたことも多い。
 簡単にまとめればそれは「写真」をテーマにしつつもその着地が常に「絵画」的な領域であるルフの作品に対し、北島の写真は幾何学的な画面構成の妙など絵画的な装いに目が行きがちであるが、その本質は「写真」的なものにこそあるということ。
 とくにイメージのなかに「時間」の存在が感じられるという特色は、ルフとの比較で気が付くことができた。本展の出品作で言えば、砂浜に貼ったロープが作る三角形を通して見える荒れ狂う海のその動性。あるいは寸又峡のトンネルの向こうから今にも誰かが現れそうなあの感じ。
 いまのところ本シリーズは見逃しなく全て見ているので、来年も引き続き見ていきたい。


〇「山下雅己 サウンドオブオイルヒューマン 東京編

 謎の人型彫刻(陶製のものと木に油絵具で彩色したものの二種類がある)と独特なドローイング(マンガのコマ割りのようなフォーマットのものや息苦しいまでに描き込んだ細密画など)と謎のカセットミュージック(電子音系)とサボテン(本人の趣味らしい)が違和感なく一つの空間を形成しているあまり他に類を見ない感じのヘンテコな展示だった。
 カセットミュージックは別の人が作っているという話だったのだが、作品との組み合わせが絶妙で、その相性の良さは「松本力×オルガノラウンジ」をも想起させた。既存の「美術」の枠から食み出してしまう感じも松本さんとちょっと似てる気がするが、松本力がアニメーションという強力な「落としどころ」を持っているのに対し、この作家の場合はそれがあまり見えない。自分的にはそこに親近感を覚え、魅力も感じるのだが、同時にそれはこの「とらえどころのなさ」にも繋がっているのだろう。
 でもチェックしておきたいと強く思わせる作家だったので、ここに記録しておく。


〇「BODY/PLAY/POLITICS

 「分断」がキーワードだった米大統領選に象徴されるように、今年は信条や信仰の異なる層のあいだで「言葉が通じなくなる」現象が世界の至る所で散見された年だった。意思疎通が叶わないもの同士のあいだでは「ただしさ」は意味を持たなくなる。それが理解できぬものは己の「ただしさ」にのみ固執し、その結果として言葉はどんどん内向きになっていく。「知識階級」や「PC(ポリティカル・コレクトネス)」への反発はその一環でもあるのだろう。相手に伝えようとする意思の見えない言葉は、その上滑りした「ただしさ」を見透かされて「分断」の度をより深めていく。
 コンテンポラリー・アートの作品が同時代の社会情勢や政治状況に敏感なフリをしながら、その実態は「内輪」にだけ向けたPCに堕しているような例も頓に散見されるようになっている。本展も一歩間違えればその轍を踏んでいたかもしれない。
 それ救ったのは本展の「構成」であった。本展の出品作家は六名。白人のオペラ歌手が占めるべき位置を黒人女へと置き換えた映像作品などを展示するナイジェリア系イギリス人のインカ・ショニバレMBE。ポンティアナック(マレーシアの伝承的な幽霊)に扮した女性たちがあけすけなガールズトークを繰り広げる映像作品のマレーシア出身のイー・イラン。炎を上げながら回転する扇風機の映像インスタレーションを展示するタイ出身のアピチャッポン・ウィーラセタクン。オートバイの排気口に装着したビニール製のチューブが街の中を縦横無尽に展開する映像およびインスタレーションのベトナム出身のウダム・チャン・グエン。沖縄や東京のストリートやそこで出会った人々のポートレートを撮影する石川竜一。ボディビルディングの歴史を日本の被植民の歴史と絡めて語るインスタレーションの田村友一郎。
 展示はこの六名の出品作家がそれぞれ一室を与えられ(チャン・グエンは展示室を繋ぐロビー部)、観客は上記の順番で展示を見ていく。展示室の構成としては会場の左翼の二室(ショニバレMBE、イー・イラン)と右翼の二室(石川竜一、田村友一郎)を中央のアピチャッポンとチャン・グエンが繋ぐようなかたちになる。
 もしこの中央の二人の作品が存在しないで、左翼の二人と右翼の二人が直接繋がるような構成であったならば、おそらく展示の見え方はかな違ったものになっていたと思われる。その場合は本展の秘められたテーマでもあったであろう「他者との共生」が「強制」にも感じられてしまうようなPC的な息苦しさが生れていた可能性もあると考えるからだ。
それと言うのも昨今の趨勢のひとつである「反多様性」や「反エリート」の立場に立つならば、ショニバレMBEの作品は人種PC的に紋切型に、イー・イランはジェンダーPC的に露悪的に、石川竜一は他者との距離の近さが強迫的に、田村友一郎はスマートな手法が「エリート言語」的に、見えなくもないからである。もちろんそれぞれの作品はそれだけで片付けられるものではないのだろうが、それが一括して「リベラル寄り」で「エリート的」であるとレッテル付けされた瞬間から、異なる思想や主張を持つものにはそのレッテルしか見えなくなってしまう。つまり「言葉が通じなくなる」のだ。もし本展の構成がわずかでも異なっていれば、その全体が単なる「内輪向けのPC」と見なされて終わっていた可能性も高いと考えるのである。
 しかしそれを救っていたのが会場の中央に配されたアピチャッポンの《炎(扇風機)》とチャン・グエンの《ヘビの尻尾》(チャン・グエンのもう一つの出品作はカタルシスに欠け単なる暗喩に留まってるように思えた)の二作品だったのだ。太陽を思わせるかのようなアピチャッポンの映像インスタレーションの異界性と、チャン・グエンの映像作品におけるビニールチューブを伝って都市のなかを駆け巡る人の視点を超えた視覚のカタルシスが、現世的な視点を浄化し、無効化していたのである。つまりこの二作品が会場の中央に配されることによって、思想や信仰に基づく党派的な二項対立の視座が融解され、他の四作家の展示を見る目にも変化を与えていたのだ。
そもそも「肉体」「社会的役割」「政治」といったテーマに対して芸術がなしうる最上のことは、それらの現世的な意味を超える(無効化する)高次の視座を示すことではないだろうか。本展における上記の作品(特にアピチャッポンの燃える扇風機)が果たしている役割はまさにそれであると考えるのだ。
しかしそれは一人アピチャッポン、チャン・グエンのみの手柄ではない。先にも述べた通り、本展でもっとも見るべきはその「構成」の妙だと思うのである。本展の背後に「他者との共生」というテーマが隠されているとすれば、それはともすればPC的な「お題目」にも見えがちな個々の作品における「主張」よりも、多様な背景を持った作家たちの作品が相互に干渉することによって、そこで新たな視座や意味を生み出すダイナミズムにこそもっとも端的に示されているのではないだろうか。
 一例を挙げよう。本展の出品作家は非西洋圏の出身者で占められているが、例えばショニバレMBEの映像作品に登場する西洋邸宅やイー・イランの作品に登場するマレーシア人の女性たちがマレー語交じりで流暢に使う英語などに、文化の支配者としての「西洋」や「白人文化」が影のように現れている。そして「被支配者/支配者」としての「非西洋/西洋」の構図は展示の両端、即ちショニバレMBEと田村友一郎の作品においてもっとも明確に(ステレオタイプに)表される。しかしその硬直した二項対立的な構図が、展示の中央に置かれたアピチャッポンとチャン・グエンの作品で示される高次的な視座によって解きほぐされるような構図になっているのである。その「解きほぐし」は単体の作品の力ではなく、この六つの作品の構成によって初めて生じるものであり、そのことによって始めて本展はPC的な「ただしさ」を超越できるのだ。
 言うまでもないが、それが企画者の「計算」だったかどうかはドーデモイーのである。そのような「読み」が可能な展示であることこそが重要なのだ。作品と同様、展覧会もまた企画者の「意図」や「計算」のみを見ようとするならば、党派的な二項対立の構図から逃れることはできないだろう。
 そしてそのような「読み」をうながすような「現代美術の展覧会」が、最近は本当に希少になっているのである。


〇「時代を映す仮名のかたち

 仮名のかたちの変遷を和歌の歴史と重ねて見せる展覧会。同時期に開催されていた「平安古筆の名品」展(五島美術館 10〜12月)が目の快楽のための展示だったとすれば、こちらは知の快楽をふんだんに与える展示。表現における内容と形式の関係について考える上でも非常に興味深く見た。
 確かに長時間の鑑賞に堪えうる「美」ならば平安時代の古筆が頭抜けている。古筆の展覧会が平安時代中心になりがちだというのも頷けるだろう。しかし言うまでもなく文字は美的な鑑賞のためにのみ書かれるものではない。なによりもまずそれは伝えるべき「内容」をこそ表すものであるはずなのだ。本展では「和歌を表すもの」という仮名の機能に着目し、「表されるもの(和歌)」と「表すもの(仮名の書体)」の変化の相関関係が示される。その結果として古筆を見る目も「美しさ」という一元的な基準から抜け出すのだ。
 たとえば糸のように細い書体を連綿と連ね紙面に縦横に散らし書く平安時代の書体に対し、行を揃えて一字一字が判別しやすい整った書体へと変化する鎌倉時代以降の書体は、そこに「美しさ」だけを求めるのであれば見ていてそれほど面白いものではない。しかしその書体の変化の裏に、和歌が詠まれる場所が私的なコミュニケーションの場から公の晴れの場へと移っていく変化を、あるいはその変化ともに和歌自体が「文芸」化していく様子を見て取るならば、俄然その見え方も変わってくるのである。平安時代末期になると著名な歌人の真筆も見出せるようになり、藤原俊成や定家の個性的な筆跡は、彼らの自身の個性をも表しているようで見ていて楽しい。
 鎌倉時代に入ると自詠自筆の遺品も増えてくるが、そのわりに仮名の形は定型化して個々人の個性が見えにくくなるという解説も、和歌の歴史を反映しているようで面白い。南北朝〜室町時代の「バロック化」した文字も、その押しの強さの裏にある乱世を思うと凄みを感じる。
 内容と形式の関係ということで言えば、南北朝〜室町時代前期に宮廷社会の衰退と武家の歌壇への参入を背景に短冊を用いた手軽な歌会「続歌(つぎうた)」が流行するのであるが、この短冊に歌を書く際の形式がそのうち懐紙に歌を書く場合にも採用されるようになる。つまりそれまで歌の横に書かれていた歌題が歌の頭(上部)に書かれるようになったのであり、一見して「歌題の並び」の前景化が明らかなのである。ここから連歌の式目や題詠中心の作歌に発展していくのではないかと連想を膨らませていくと非常に楽しい。
 しかしこの展覧会、空きスペースには和歌をモチーフにした工芸作品を配するなど徹底して「和歌」に拘った内容にも関わらず、タイトルにもサブタイトル(「国宝手鑑『見努世友』と古筆の名品」)にも「和歌」の二文字が見当たらないのはどーなんだろ? 確かに「和歌クラスタ」が今の世の中にどれだけの人数いるかわからないし、いたとしても展覧会の観客としてはあまり見込めそうもない。ならばとりあえずは集客の見込める「展覧会クラスタ」に直球で訴える「国宝」の二文字の選択となったのかなーなどと勘ぐってみるが、せっかく内容が面白いのに、その面白さがうまく宣伝されていないようなのはちょっと勿体ない。


〇「浦上玉堂と春琴・秋琴

 浦上玉堂とその息子である春琴・秋琴の三人三様の「文人画」を紹介する展覧会。本展の眼目のひとつとして生前は父親以上の人気絵師だったという春琴の再評価があったのだと思うが、残念ながら自分には父親の玉堂とは異なり、敢えて現代に再評価しなければならないほどの画家には思えなかった。しかしこの三者を並べることによって見えてくるものもあり、それこそが本展の見所だったように思う。
 最近の自分の関心から絵と言葉(賛)の関係に注目して見てみたのだが(それにしても賛を翻刻して掲示してくれる展示は本当にありがたい!)、そこから気が付いたことが三つあった。
一つは玉堂の書く字が非常に魅力的であるということ。特に得意にしたという隷書体の字が素晴らしい。他の絵師が描いた絵でも玉堂の隷書体の字による賛が入ると途端に見え方が良くなるような、そんな磁力を持った字なのである。五十歳になったときに武士を捨てて文人の道に入った玉堂は絵師としては遅咲きであり、画歴的には書の完成度に対して絵が後から追い付いていったようにも見える。
 二つめは玉堂が自身の絵に書き入れる賛は「詩」のみであるということ。六十代以降に画風が完成されてからは漢字四字の「画題」のみに集約されるのだが、それ以前は複数行にまたがる漢文が自賛されていることが多かった。そしてその賛の内容が皆漢詩だったのである。会場にて自分が解釈しえた限りでの話なのだが(一応この日記を書くにあたって若干調べてみたのが、ゼンゼンわからなかった。美術全集の類で賛について解説しているものはほとんどないし、国立新美の美術図書室に2006年に岡山県美と千葉市美で開催された玉堂展の図録があるとわかったので行ってみようとしたところ、とっくに年末の休室期間に入っていて断念。来年になったらまた折をみて調べてみよう)それでも大まかな傾向としては間違っていないと思う。ではそれが文人画においてどれくらい珍しいことなのかと言えば、これも自分が調べた範囲ではわからなかった。しかし息子である春琴の本展出品作や、あるいは同じく同時代の文人画家である田能村竹田の昨年出光美術館で見た回顧展(この展覧会は賛についての解説が非常に丁寧だった)で見た絵などとはだいぶ違っていたように思う。二人とも漢詩以外に「これこれこういう理由で描きました」といった内容のエッセイ風(?)な説明文が書き入れられていることが多いのだが、玉堂の絵は(自分が解釈しえた限りでは)ひたすら漢詩一辺倒なのである。
 そのこととも関係するのだが気付きの三つめとして、その書き入れられた詩と玉堂の絵が完全にシンクロしているということ。そして、それが完成するのが六十代以降の作品だと思うのだ。先に述べた通りその時期の玉堂の賛は多行にわたる詩文ではなく漢字四字による「画題」のみが書き入れられることが多いのだが、自分はこの「画題」もただの画題ではなく「詩」なのではないかと思うのである。玉堂が記録を付けて同じ題を入れることを極力避けるようにし、同じ題で描く場合も全く違った解釈の絵を描いたという展示解説は、その考えを裏付けているように思えた。実際、玉堂の字で玉堂の絵に書き入れられたその四文字の漢字は「詩」以外のなにものにも見えないのだ。単なるデザイン的な適合を遥かに超えて、字と絵が呼応してその四字の“奥”に広い世界がひろがっているような、そんな感覚を呼び起こすのである。
 そしてこれら三つの気付きから自分が導き出した仮説は、玉堂にとって絵(文人画)とはすなわち「詩」を描くものだったのではないかということだ。もちろん漢詩をモチーフに絵を描くことは文人画の定番のひとつだっただろう。しかしこと玉堂の絵に関しては、その領域を遥かに超えているような気がするのだ。それは玉堂がほとんど山水画しか描かなかったこととも関りがあるのではないだろうか。つまり中国の故事や、偉人の像といったモチーフでは“描けないもの”を描こうとしていたがゆえに、玉堂の描く絵のモチーフは山水のみにならざるを得なかったのではないのか。そして自分はその玉堂が描こうとしたものこそ「詩」だったのではないかと思うのである。詩の「内容」ではない。詩が伝えうる「詩」としか言い得ないものだ。
 その背景として考えられるのは、玉堂が自らのことを絵師ではなく音楽家であると見做していたことである。キャリア的にも玉堂はまず七弦琴の専門家として、そして二冊の詩集を上梓した詩人としてその芸術家人生をスタートさせているのだ。そのとき彼の音楽家としての資質が、漢詩への理解を単なる教養的なものには留めなかったと想像することは可能だろう。その玉堂が中年期以降に文人として絵をも本格的に始めたとき、そこで描くべきは教養としての中国の風景ではなく、音楽的資質によって看取した漢詩における「詩」の世界(エッセンス、こころ)だったのではないだろうか。つまり文字(書)であらわされた「詩」と同じものを、絵によってもあらわそうとしていたのではないかと思われるのである。そしてその完成期に賛が画題四字のみに縮小されたのは、それまで言葉(文字)によって表されていたものを、絵があらわし得るようになったからなのではないのか。
 玉堂にはフリーハンドで描いた丸や四角の窓を縦長の紙に縦にいくつか並べて、それらをフレームに見立ててその内に絵を描くという他の画家にはない独特の作風の作品もがあるのだが、これなども彼が絵を言葉の構造に見立てて試行した実験絵画だったのではないかなどと想像してしまうのである。そのようなことを考えさせるまでに、玉堂の絵における「詩書画一体」の境地は比類がないのだ。
 そんな父玉堂に対して、息子である春琴が描く絵は正反対なのである。絵と言葉(賛)の関係から見ると、そもそも春琴の絵には詩が書き入れられること自体が少ない。他人が書く賛の場合が多いということもあるが、詩が書き入れられるときも絵と文字(詩)は別物として分離しているように見える。幼いころから画業に長け、人気の職業絵師だった春琴は、父玉堂と違ってまずビジュアルとしての「絵」からスタートし、一貫してそこからはみ出ることはなかったように見える。玉堂親子三人の中ではもっとも「巧みな画家」ではあるが、先行作品を範としたその絵は悪く言えば「図」的でもあり、敢えて現代に再評価するには値しないのではないかと自分が考える理由もそこにある。春琴自身は単なる職業絵師ではなく文人としての意識が高かったというが、彼の描く文人画は「“文人画”という様式で描かれた絵」にしか見えなく、玉堂の文人画とは全く種類を異にするものである。
 春琴が父親から絵の才能を引き継いだとすれば、弟の秋琴は音楽家(楽人)としての才能を引き継ぎ、その道で活躍した。その秋琴が描く絵は、典型的な自分の楽しみのために描く余技の絵という意味における「文人画」である。職業絵師である春琴が描く絵のような「図」的な硬さはないが、父親の絵にあるような書(詩)と絵が一体になったような感覚をそこに見ることはできない。音楽家である秋琴が描く絵の玉堂の絵との違いは、玉堂の絵に見る「音楽性」が、単に彼の音楽家としての才能に由来するものではなく、「絵を描くこと」に対する根本的な姿勢の違いに発しているのではないかという自分の仮説を裏付けてくれるようにも思えた。
 以前自分は熊谷守一を題材にして「人はなぜ絵を描くのか?」というテーマだけは壮大で中身の甚だ足りていない駄文を書いたことがあるが、本展はまさに玉堂親子の三者三様の「文人画」を比較することによって、各人が持つ「絵を描くこと」の意味の違いをもあぶり出す非常に興味深い展示であったと思う。そしてその守一旧蔵の玉堂の絵が展示の最後のパートにあったのも自分にとっては嬉しい発見だった。守一はいったいどのような目で玉堂の絵を見ていたのだろうか。


〇「東京・TOKYO TOPコレクション+日本の新進作家vol.13

 「BODY/PLAY/POLITICS」の欄でアピチャッポン作品が会場中央に置かれたことの重要性について書いたが、本展の最終展示室に田代一倫の展示が置かれた意味はそれ以上に大きいかもしれない。そこでは大きな「反転」が行われるのだが、それが展示の最初や半ばに起こったのではやはり具合が悪いのである。
 その田代の写真についての詳しい考察を、展示を見た翌朝に必死で書いたメモを整理して書こうかと思っていたのだが、さすがにちょっと疲れてきたので略す。(来年からもうこの形式で年末日記付けるのやめよう。タイヘンスギル。。。)




(敢えて挙げる)悪印象の展覧会

 東京圏に住む美術クラスタに「今年見たワースト展覧会はなんですか?」というアンケートを採ったら「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」(東京都現代美術館 3〜5月 URL)はかなり票を集めそうな気がする。というのもこの展覧会はちょっと前例が思い付かないほどまでに「欠陥」が目立つ展示だったからだ。その「欠陥」の原因も火を見るよりも明らかで、「MOTの学芸員とARTISTS'GUILDとの恊働キュレーションによるMOTアニュアル」という誰がどう聞いても頭に十個くらい?マークが浮かびそうな謎の体制に対する説明が一切なされないばかりか、そこから当然生じるであろう矛盾をより拡大して強調する「規制」というテーマを選び、そのままオチもなにも付けず自滅したような内容の展示となっていたからだった。自分が見たのは会期前半のおそらくもっとも会場に「物が少ない」時期だったと思うのだが、やたら空白ばかり目立つその展示は「規制というテーマを示すための意図的な空白」と「マジで規制されて展示されるべきものが展示されていないための空白」と「規制の対象になりそうだけどちゃんと展示できている作品」が混在するといった有様で、ツッコミ所が多すぎるどころかツッコミ所しかないくらいのイキオイだったのだ。
 ではキセイノセイキが俺の今年のワーストかというとそうではなくて、実はこれほどまでに「欠陥」が目立つ展示だったわりには(という条件付きだが)見終わった後の印象はそれほど悪くなかったのである。少なくとも「ダマサレター! カネカエセー!!」とは思わなかった。それは展示の出来の酷さにもかかわらず、やはり「ここでしか見られないもの」が見られたという手ごたえがあったからだろう(念のために付け加えておくと、それは「前代未聞の欠陥展示」といったようなネガティヴな意味ではなく、個々の作品や、あるいはうまくはいっていなかったが意図されていた「こころざし」の部分などのことである)。
 見た後の印象の悪さということで言えば、キセイノセイキのよりも同時期に開催され一部出品作家も重なっていた「六本木クロッシング2016展 僕の身体、あなたの声」(森美術館 3〜7月 URL)のほうが個人的にはずっと悪かった。ただこの展覧会に関しては、見終わったあと急速に展示の印象が薄れてしまったので、正直言って現時点では何がそんなに悪印象だったのかいまひとつ実感を伴って思い出せない。しかしTwitterに書き込んだ当時のメモを参考に無理やり記憶を召喚するならば、それは次のようなことだったのではないか。
 今年聞いたニュースのなかで興味深かったものとしてアメリカのアート関係の仕事で男女の賃金格差が見られることが調査でわかったという話題があった。他の分野に比べgender equalityの主張が目立つアート業界で、なぜ賃金格差が生じるかという疑問に対してこの記事のなかでは「人は言っている主張と無意識にやっている行動が食い違っていることが多い」という一般論を結論としているが、まさにその「上辺だけのただしさ」の信憑性のなさこそが、彼の国の(というか世界全体における)リベラルや知識階層への(そして延いては「アート」への)信頼の失墜にも繋がっているのだろう。
 そして今年の六本木クロッシングに見られた「言っていることとやっていることがまるで食い違っている口だけのただしさ」の露骨さは、米国アート業界の賃金格差どころの話ではなかったのである。たとえば「他者」や「身体」をテーマに掲げながら、観客の身体性をまるで考慮に入れていないような展覧会の構成と美術館の態度や、「“作品様”の為にじっと立たされていたり、知らずに演技させられたりする」といった他者を単なる自作のための素材としてしか見做していない(ようにしか見えない)出品作。あるいは「BODY/PLAY/POLITICS」の欄で出品作が相互に干渉することでプラスの効果を上げていた旨について記したが、本展はその真逆で出品作同士が足の引っ張り合いをしており、「声」をテーマにしながら素人芸や素人朗読の作品が被りすぎていて見ているとどんどんイライラしてくるといった有様。もう「言ってることとやってること」の食い違いがあまりにも激しすぎて、タイトルの「僕の身体、あなたの声」は自虐的なギャグなのかと疑うほどだったのだ。そもそもこの展覧会におけるもっとも身近な「他者」であるはずの展望台や「セーラームーン展」目当てで森美術館に訪れる客たちを端から「相手にしない」ことを前提に作られた展覧会の構成や作品形態に、本展のテーマがただの「現在の業界のトレンド(“ただしい解答”)」の反映でしかないことが表れていたのではないだろうか。そうした「社会(外側)」を向いているようでいながら結局は「内輪」にしか目が向いていないことがあからさまな「上辺だけのただしさ」(言い換えれば、「ステートメントや企画書向けの“ただしさ”」)の閉塞感こそが、この展覧会の「印象の悪さ」の最大の原因だったのだと思う。
 それに比べればキセイノセイキのほうは展覧会としてほとんど成り立っていないような欠陥展示ではあったものの、まだ「外側」に向けて弾を撃とうとしているようには思えたのだ。それが見終わった後の「内容のわりにはそんなに悪くない印象」にも繋がっていたのだと思う(しかし会期後半になって内情の暴露合戦のようなものが始まって「館と出品作家の対立」みたいなものばかりに興味が集中し、せっかく広いものを撃てる可能性を秘めていたものが、結局内輪のなかでも超極小の内輪の話に収縮して終わってしまった感があり、むしろ「展示を見終わった後の後」の印象は、六本木クロッシング以上に悪くなってしまったのだが)。
 では六本木クロッシングが自分の今年のワースト展かと言えば、そんなことはもちろんなく、結局この展覧会は現在のアートシーンにおける動向のひとつの典型だったのだと思う。その意味では汎用性のなさそうな個別的な欠陥の目立ったキセイノセイキと、シーンに通底する汎用性のある問題が目立った六本木クロッシングは好対照の展覧会だったと言えるかもしれない。
 では結局今年のワースト展はなにかと言えば、去年や一昨年のような意味での「悪い印象」の展覧会は見当たらない(「印象=後味」の悪さという意味では「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」を挙げたくなる誘惑にも駆られるが、それを説明するにはイベント開催日に見に行って不完全なかたちでしか展示を見られなかったという個人的な事情にも触れなくてはならず、なんとなく愚痴っぽくなりそうなので控える)。
 しかしそれでは面白くないのでどーしても一本だけ選べと言われれば、「クリスチャン・ボルタンスキー アニミタス−さざめく亡霊たち」(東京都庭園美術館 9〜12月 URL)かな? 事前の期待を裏切る呆気にとられるような不出来な展示ということだけならば他にも挙げることができるのだが、この展覧会の場合はその不出来の裏に、「巨匠」や「アート」の傲慢さが垣間見えてしまったような気がしたのが「悪印象」の原因だった。この人はこの地に住みこの建物に何年も何十年も通っている観客の心に、こんな観光者的な浅い目線で、こんなちゃちな仕掛けと自分の母国語ではないコトバを使って、ホントにこの建物に棲みついた過去の記憶の声を甦らせられると思ったのだろうか? もちろんそれが成功していたなら「さすがはボルタンスキー!」と脱帽して拍手喝采となるところなのだが、巨匠ボルタンスキーに対してあまりにも失礼ではあるが「このヒト、ホントに他者に対しての想像力を持ってるのだろうか?」と疑いたくなるくらいヒドイ出来だったのである。temporaryに滞在・展示する芸術家が「その場所の歴史」をテーマに作品を制作する風潮は世界的に大流行りであるが、「他者」としてその場所に立つ芸術家が「自分には見えないもの」への敬意を欠くとどんなに無残なことになるか、それを示すかのような展示だった。




展覧会以外のジャンルでもっとも印象に残った作品

横山裕一『アイスランド』(888ブックス)Amazon
田中宏輔『詩の日めくり』第一〜三巻(書肆ブン)Amazon Amazon Amazon

 現在自分がもっともリスペクトするfavorite Artists二人の今年の新刊。両者とも新作を出すごとに確実に新しい荒野を切り開いていくのが本当に凄い。どちらも小出版社からの出版であることも共通。



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 さて今年が自分にとってどんな一年であったかと言えば、年頭に立てた「今年中に(四年ぶりに)新作を完成させる」という目標がマッタクの捕らぬ狸に終わった年だったということに尽きる。もとより無理な皮算用でもあったのだが、根本の原因はもちろん自分の努力と実力の不足以外には何もない。来年こそは皮算用の達成のために、展覧会を見に出かける日数をさらに削って精進したいと思っている。
 とは言え、こうして一年分の鑑賞日記をまとめて付けるような馬鹿な試みをしてみると、他人の展示や作品を見ることも自分の作品を制作することと変わらないくらい自分にとっては重要な意味を持っていることにあらためて気付くのである。自分の制作だけで考えられることには自ずから限界があるからだろう。つまり自分にとって展覧会とは物を考えに行く、もしくは物を考えるきっかけを得に行く場所に他ならないのだ(その意味では読書にも似ているが、展覧会回りにはその他に外出=運動という大事な目的もある)。
 なので来年は皮算用の達成に最大限努力しつつも、見られるものはできるだけ見ておこうと思っている(ただし、もうこの形式での総括はやめよう。書くのが大変すぎて年末がまるまる潰れてしまう…)。
posted by 3 at 09:44| 日記

2016年12月25日

名付けられなかったもの

 名前を付けるという行為には呪術性がある。創世記にしろ、古事記にしろ、世界の始まりを書いた古代の書が「名前の由来の話」に溢れているのを見れば、「名前を付ける」という行為自体が我々の文明や世界認識の始点にあろうことは容易に想像がつく。
 名前を付けることと名付けられる対象の関係は「鶏と卵」の関係にも似ている。名付けられる対象があるから我々はそれに名前を付けるのか、それとも名前を付けるから名付けられる対象が生まれる(見出される、認識される)のか。

 美術の世界でもさまざまな「名前を付ける」という行為が行われる。もっとも頻繁に行われるのは制作者が自分の作品に題を付ける行為だろうが、もっとも影響力を持つ(人目を引く)ものは様式やムーブメントへの「名付け」だろう。
 美術史を見回すとたくさんの様式やムーブメントの名前が見出せる。そのなかには「印象派」のように批判者によって揶揄的に付けられた名前もあれば、「未来派」や「シュルレアリスム」のように当事者が戦略的に名乗ったものもある。
 それらの名前がそれぞれの様式やムーブメントに対して果たした役割は様々だ。たとえば「印象派」という名前が与えられなくとも、印象派の画家たちは彼らの革新的な作品を制作していたに違いない。しかし、彼らの絵に「印象派」という名前が与えられなかったら、その後の美術史は違ったものになっていたかもしれないと想像することはできる。名前の呪力はなかなかに侮れないのだ。

 さて、この忙しい年末になぜこんなことを考えているかと言えば、実はある展覧会を見たからなのである。それは埼玉県立近代美術館で開催中の「日本におけるキュビスム―ピカソ・インパクト」だ。


 「1950年代の日本になんか妙に面白い絵がある」と気付いたのはいつ頃だっただろう。通説では当時の二大潮流は抽象絵画とシュルレアリスムだとされているが、その両者を合体させたような「有機的な抽象体」が怪物のように跋扈する作品が、その時期の前衛絵画の中に多く見られるのである。それらの絵には乱舞する抽象形態と共に、60年代以降の現代美術が失っていた具象性と、突き抜けた想像力と、そしてなによりも爆発的な生命力が満ち溢れている。コレハイッタイナンナンダ? なぜこの作風の作品はこの限られた時代にだけあらわれるのか? そしてなぜ断ち切られたかのようにこれ以降の時代からは消えてしまうのか? イッタイこれらの絵はどこからやって来て、どこへ去って行ったのか?
 もともと《浴室》や《物置小屋の出来事》などに代表される河原温の初期作品に興味があり、それらの作品が生み出されたバックグラウンドに対するぼんやりとした興味も持っていたのだが、「1953年ライトアップ展」(目黒区美術館 1996年)あたりから、どうも1950年代前半〜半ば頃に「その作風」に類する作品を描いていた若い画家たちが多く生息していたことに気付き始める。その「〈具体〉とは違う1950年代の別の動向」に対する興味は「戦後美術を読み直す 吉仲太造」(渋谷区松涛美術館 1999-2000年)で見た吉仲の初期作品にハマって決定的なものになった。
 折に触れて自分でも調べてみた結果、「その作風」の絵を描いていた画家たちがグループを組んだり展覧会を共にしたりして活発に交流しあっていたことや、当時の前衛画壇の旗振り役だった岡本太郎の影響なども大きそうなことなどがポツポツと見えてはきた。しかしそれだけでは美術史の流れのなかで孤絶して見える「それ」の充分な説明にはなりそうもない。
 近年では「勅使河原宏展」(埼玉県立近代美術館 2007年)、「芥川紗織展」(横須賀美術館 2008年)、「池田龍雄―アヴァンギャルドの軌跡」(川崎市岡本太郎美術館 2010年)と当時「その作風」の作品を発表していた作家の回顧展も続き、2012年には待望の50年代をテーマにした展覧会「実験場1950s」が東京国立近代美術館で開催された。しかし結局そのいずれでも「解答」を見出すことはできなかったのだ。

 ところが、ここに来てその「解答」を高らかに謳う展覧会が現れたのである。なんと「それ」は「キュビスム」だったというのだ! 確かに以前から1950年代と同様に1920年代あたりにもなんとなく惹かれるものはあったのだが、まさか両者を繋ぐものが「キュビスム」だったとは!! 目からウロコとはまさにこのことである。
 展覧会のポスターを飾るのは他でもない吉仲太造の初期作である。ついに二十年越しの謎が解けるかと、見に出かける前から既に興奮はMAX状態だった。

 ところが、なのである。結論を先に言うならば、「謎」は解けたのか、解けなかったのか、いまひとつ微妙だったのだ。得るものがなかったわけではない。確かに得るものはあったのだ。しかしそれは事前に想像していたのとはだいぶ違ったかたちで与えられたのだった。


 本展の展示は二部構成になっている。第一部で1920年代を中心にした日本におけるキュビスムの受容の様相を紹介し、インターバルにキュビスムの始祖であるピカソとブラックの作品展示を挟み、いよいよ続く第二部で1950年代におけるキュビスムの「リヴァイバル」が展開される。

 そのうち第一部はたいへん面白くて、興味深く見たのである。
 集められた画家たちはキュビスムへの理解の程度もバラバラ。受容の場所もバラバラ。現地で直接習得した者もいれば、印刷物などの情報のみから学んだ画家もいる。その結果として作品の質も、素材も、作風も作家ごとに(作家によっては制作時期ごとに)異なる多種多様な作品が並べられている。
 しかしそれら多様な作品のなかには「キュビスム」という語で串刺される共通するナニカが存在することが確かに見て取れるのだ。それは新しい芸術に対する熱気なのかもしれないし、それこそ「キュビスム」という語のもたらした魔法なのかもしれない(ただし「未来派」と混合している部分はあるが)。単独で見たらさほど気に留めなかったかもしれない作品も「キュビスムの受容」という視点を通すと、各々の個性や隠れていた魅力が面白いように浮き出てくるのである。当時のキュビスムへの理解は確かに浅いものでしかなかったかもしれないが、その熱が残した痕跡はそれから百年近くを経た我々の目にも実にさまざまなことを伝えてくれるのである。

 それと対照的なのが第二部だった。「キュビスム」が巻き起こした旋風の余波が未だ感じられるかのようだった第一部に対し、第二部の展示はなんとも捉えどころないぼんやりとした印象しかもたらさないのだ。率直な感想に変換すると、つまり「面白くない」のである。
 しかし個々の作品や作家の顔ぶれを比較するならば、自分の関心的にも第二部は第一部に圧倒的に勝るのだ。「あの作風」の頂点に位置すると自分が考える河原温、吉仲太造を筆頭に、河原らとも近い関係にあった池田龍雄、芥川沙織、「あの作風」の始祖的存在でもある鶴岡正男、阿部展也、岡本太郎、そしてその他にも福沢一郎、小山田二郎、漆原英子、村上善男、飯田善國、難波田龍起、吉原治良、小野木学、三上誠、山田正亮、堂本尚郎、今井俊満、松本竣介、山口薫、高山辰雄、堀内正和…と、とにかくスゴイ顔ぶれなのである。しかも第一部の作家たちの境遇がバラバラだったのに対して、彼らは基本的に同じ場所で、同じ時代の空気を吸って制作していた作家たちなのだ。しかもその空気はあの1950年代の空気なのである。当然集められた作品からは凄まじい熱気が沸き上がっているかと思いきや…あにはからん、このなんともとらえどころのない「ぼんやりした感じ」はなんなのか?

 本展の第二部は、1951年の「ピカソ展」がきっかけとなって当時の画壇にピカソ・ブームが起こり、ピカソを通してキュビスムの日本における第二次受容が広まったという仮説に基づいて構成されている。
 展覧会の図録に寄せられた論稿の中で本展の企画者の一人でもある尾崎信一郎氏が説くところによれば、大正期においてキュビスムは単なるスタイルとして受容され、手段としての意味しか持ちえなかったのに対して、1950年代の第二次受容ではキュビスムが手段ではなく目的として採用されているというのである。つまり当時の日本の美術家たちは、キュビスムの画面におけるファセット構造が空間を閉塞させ画面を硬化させるという特徴(欠点)を、時代の閉塞感と不安の空気を表すことに使用したのではないかと言うのだ。聞いてるだけで胸がワクワクするような興味深い仮説である。
 しかし基となった仮説の面白さのわりには、それをもとに集められた作品は、先にも書いたようにとらえどころのない「ぼんやりした感じ」しかもたらさないのだった。

 その原因となっているものを二つ指摘できる。
 一つ目の問題は、確かに集められた作品には皆ピカソからの影響やキュビスム的な要素が認められるのだが、「ピカソ・インパクト」と銘打つほどにはそれらの影響が塊として感じられないということである。なんというか作品ごとにその表現の内にある「ピカソ的なもの」や「キュビスム的な要素」をひとつひとつ見つけ出していくような、そんな感じなのだ。
 そもそもこの時代の作品に広範な「ピカソからの影響」や「キュビスム的な要素」が認められるとしても、その源泉を1951年の「ピカソ展」のみに求めること自体があまり説得力をもたないのではないだろうか。尾崎氏自身も「一九五一年のピカソ」からの影響がかならずしも「キュビスム」であるとは限らないという問題に自ら触れ、それを補うためにピカソ作品のうちでも特に参照された《ゲルニカ》を通じて「ゲルニカ風」のキュビスムが一つの流行として取り入れられたのではないかとしている。
 しかしそうであるならなおのこと「ピカソ・インパクト」の始点を1951年の「ピカソ展」に求める意味が理解できなくなる。《ゲルニカ》日本への紹介は1951年を遥かに遡るし、岡本太郎などは「絶え間なく宣伝した」とも言われている。現に発表当時から「あまりにも《ゲルニカ》でありすぎる」と批判されていたという山本敬輔の大作《ヒロシマ》(1948年)が本展には出品されているのだ。「ピカソ風」の作品が40年代末頃から散見されることについても右に同じである。もしかしたら1951年の「ピカソ展」を機にその数や幅が飛躍的に拡大したという事実があるのかもしれないが、少なくともそれは本展の展示からは伝わってこない。

 さらに言えばこれらの作品に見られる「キュビスム的な要素」の直接の源泉を、ピカソや《ゲルニカ》のみに求めるのも無理があるのではないか。確かにキュビスムの根を辿っていけばピカソに辿り着かざるをえないのだが、しかしピカソがキュビスムの始点となる《アビニヨンの娘たち》を描き上げてからこの時点で既に四十年以上の時が経っているのである。《ゲルニカ》の発表でさえ十四年前である。つまり当時の作品に「ピカソ的なもの」や「キュビスム的な要素」が認められるとしても、それがピカソの作品から直接影響されたものとは限らないのだ。
 現に尾崎氏は河原温の《浴室》を「キュビスムの日本的な受容と変容の極点」として位置付けているが、その河原や、あるいは自分が河原と並んで最も高く評価する吉仲太造などは、本展の出品者の中でもとりわけピカソからの影響の痕跡が見えにくい作家なのである。彼らの作品の中に「ピカソ的なもの」や「キュビスム的な要素」を見出したとしても、それは1951年の「ピカソ展」の余波というよりも、たとえば岡本太郎の作品などを通した間接的なものである方が可能性は高いのではないだろうか。少なくともその受容のきっかけを一つの展覧会に求めるよりも、二次的、三次的なものを含め複数の源泉を想定するほうが妥当であるように思えるのである。

 おそらく1950年代の作品に広範に見られる「ピカソ的なもの」や「キュビスム的な要素」は、一つの展覧会を契機として爆発的に広まったようなものではなく、もっと時間をかけて、様々な方法で、静かに根深く伝わっていたものが、たとえば「時代の空気を描く」という目的を見付け地中から一斉に頭をもたげるような、そんなかたちで表れたのではないのだろうか。大正期のキュビスムが単なるスタイルとしての受容されたのに対して1950年代のキュビスムは目的として採用されたという本展の仮説と照らし合わせても、一つの展覧会をきっかけに爆発的に広まるというかたちはむしろそぐわないように思われる。
 どうも自分には、日本における第二次キュビスム受容を「ピカソ・インパクト」と銘打って、その起点を1951年の「ピカソ展」に置こうとする本展企画者の姿勢の裏に、それを1956年の「世界・今日の美術展」を起点に日本の美術界を席巻した「アンフォルメル旋風」と比較し、重ねようとする意図が透けて見えるような気がしてならないのだが、そもそもその両者の伝播の実態はまったくの別物だったとしか思えないのである。

 つぎに本展の第二部を覆う「ぼんやりした感じ」の二番目の理由として挙げられるのは、「キュビスム」を共通要素として作品を集めた結果、あの時代の作品にのみあった特異性や時代の空気感が薄まってしまったことだ。
 たしかにこれまで時代背景や社会運動との関連にのみ特化して語られてきたこの時代の作品を、主題ではなく形式的な側面から分析することは有用であるには違いない。しかし結果的にリアリズム的なものやシュルレアリスム的な要素を削ぎ落してキュビスム的(モダニズム的)な部分のみをピックアップしたことが、この「ぼんやりとした感じ」へと繋がっているように思われるのである。つまり先に見たように本展企画者はキュビスムの様式が画面を閉塞させ硬化させるという特徴を、1950年代の日本の画家たちは時代の閉塞感と不安の空気を表わすことに使用したと仮説しているわけだが、しかしキュビスムだけを共通項に作品を集めるとその肝心の「時代の閉塞感と不安の空気」が消えてしまうのだ。あの時代特有の「熱さ」や「息苦しさ」といった特徴が薄まってしまい、別にどの時代のどの場所にあってもいいものであるようにさえ見えてしまったのである。

 結局当時の作品のうちに認められる「あの作風」とか「それ」と自分が呼んでいるものは、キュビスム的なものに表れるモダニズムによる造形意識と、シュルレアリスム的な想像力の奔放な飛躍と、リアリズムや社会運動との関わりに見られるような時代の空気の熱がごちゃまぜになり、ミックスジュースのような状態になって初めて生まれるものなのかもしれない。「ピカソ」や「キュビスム」はいわばそのミックスジュースの材料のひとつのような存在だったのではないだろうか。それ自体はジュースの味を決定するのに不可欠な材料で、これまで顧みられてこなかったその材料に注目するのは有用なことかもしれないが、しかしそれだけを抽出して取り出せば、元のジュースが持っていた味わいは当然消えてしまうのである。


 思うに、本展においてもっとも見るべきものは第一部と第二部の「落差」にこそあるのではないだろうか。そして、その落差のなかにこそ第二部の展示を覆う「ぼんやりした感じ」の最大の正体も隠されているように思うのだ。
 つまりあまりにもあきらか過ぎる問題の根幹は、第二次受容の当時「それ」を指す名前として「キュビスム」という語が使われていなかったという事実に尽きるのではないだろうか。
 第一部に展示される受容の場所も、理解の程度も、作家の資質や関心もバラバラな多種多様な作品が、「キュビスム」という語によって串刺されて輝いて見えるのは、まさにそれらの作品が皆「キュビスム」という語の呪力によって生まれたからに他ならないだろう。「キュビスムの理論」によって、ではない。「キュビスム」という名前によってなのだ。それは当時の日本においてフォーヴィスムとキュビスムといったまったく違った芸術様式が、なんの矛盾もなく一人の作家に受容されている様を見れば一目瞭然である。彼らの制作を突き動かしたのはそれらのモードの「内容」よりも、それが本場ヨーロッパから輸入された最新の芸術様式であるという事実自体、つまりその「名前」の呪力によってなのだ。だからこそその名前を共通項にそれらの作品を一堂に集めたとき、我々はその名の熾した熱の痕跡を明確に認めることができるのである(村上知義のように「ダダ」や「構成主義」といった他のモードの名前が先に立つ作家が、この展示のなかでは若干「ぼんやりとして」見えるのはその証だろう)。
 翻って第二部に展示される作品における「キュビスム的なもの」は、「キュビスム」という名前の呪力によって広まったものではない。本展で仮説されるように、ピカソ・ブームによって再度受容されたそれが時代の空気を表現するという目的のために採用されたものだったとしても、そこに「キュビスム」というその動向を串刺すための言葉がなかったという事実はあまりに大きいのだ。つまりキュビスムをスタイルとしてのみ受容し、その名前自体が作者たちを創作に向かわせるエネルギー源でもあった大正期と違い、内的必然性によって無言のうちに採用された1950年代の「キュビスム的なもの」は名付けの必然性に乏しいのである。そして六十年以上を経てからの「名指し」は、結果的に当時の「名前の欠如」を浮き上がらせるだけだったのだ。

 論稿のなかで尾崎氏は日本のキュビスム受容における当時の美術批評の「無残な失敗」を言うが、確かに本展でなされているような指摘が当時からされ、そしてなによりも「キュビスム」の語を含む呪術性のある名前がそれらに付けられていたならば、本展第二部に並ぶ作品の見え方はまったく違ったものになっていたに違いない。 
 しかし現実は「ルポルタージュ絵画」や「密室の絵画」といった一部の動向をのみ指す名前や無数のグループ名こそあったものの、動向全体を串刺すような名前は当時存在しなかったのである。「キュビスム的なもの」をも含む「それ」は、「名付けられないもの」としてそこに存在していたのだ。
 そして名付けられることのないままその場に渦巻いていた巨大なエネルギーは、フランスから山師的才能に満ちた評論家ミシェル・タピエが携えてきた「アンフォルメル」という名前(呪文)によって、いっせいに一方向へと向かって流されていくに至る。その激流のなかでモダニズムも、リアリズムも、シュルレアリスムも、すべて過去の遺物として否定され、時代は「非定形」からさらに「非造形」へと一気になだれ落ちていくのである。名付けられなかった「それ」は、歴史の場からも、個々の作家の作風からも消え去り、そして忘れられていったのだ。


 もし当時「それ」に時代の動向を串刺すような呪術的な名称が与えられていたら、歴史は変わっていただろうか? たしかに「それ」が適切に名付けられていれば、その後の日本の美術は違ったものになっていたかもしれない。
 しかしこういう考え方もできるのではないだろうか。すなわち「それ」は、名付けられなかったからこそ可能だったのではないか、と。

 言うまでもなく日本の近代美術は西洋の様式を倣うことによって生まれた。倣ったのは作品の様式だけではない。それにまつわる制度や、「美術」という概念自体も西洋の様式に倣って作り変えられていったのだ。
 重要なのはそこで「モードの名前」で作品を見て判断する方法も同時に学んだことではないだろうか。近代以前の土佐派、巨勢派、狩野派…など「流派の名前」によって絵師や作品を分類するやり方に慣れた目には、「モードの名前」で作品を判別して美術史に位置付けていく方法は新鮮に映ったに違いない。それ自体が「美術」の本質だとして取り違えられたとしてもおかしくないだろう。近代以降の欧米の美術史を見る限り、その理解はあながち間違っていないとも言えるのだが、やみくもに新しいモード(の名前)の輸入に躍起となったこの地において、その傾向がより先鋭化されたとしても不思議ではない。
 たしかに名前の呪力は凄まじく、それ自体が物事を動かすエネルギー源にもなる。内実が伴っていなくとも「新しいモードの名前」の威力だけでシーンが形成されてしまうほどの影響力を持つことは、大正期におけるキュビスムの受容の実態を見ればあきらかだろう。
 しかしその結果として美術史が、いや「美術」それ自体が「モードの名前の連なり」として受け止められ、作品の評価軸が「名付け」と「モードの名前の連なり」への紐付けだけになってしまったのではないだろうか。曰く、「これは物を扱っているから『もの派』だ!」、「いやもの派の本質はむしろ『シュルレアリスム』だ!」、「いやいや物との関係が主だから『リレーショナル・アート』の先駆だ!」…といったような具合である。
 当然ながら「名付けられなかったもの」や「モードの名前の連なり」に紐付けされないものは見えなくなり、歴史から消え、なかったことになってしまう。

 1950年代の日本に見られる「それ」としか名付けられない一連の作風は、大正期のキュビスムのような「モードの名前」の呪力ではなく、様々な要因が化学合成して自然発生的に生まれたものだったに違いない。新しい時代の多様な芸術理論や様式、時代の空気、異ジャンルも含めた盛んな交流、社会運動への目覚め、その他その他がごちゃ混ぜになって場に溜まったエネルギーとなり、恣意的な方向付けをされないまま吹き出すようにして生まれたものだったからこそ、多様な要素を持ちつつも、そのなかに時代の空気を確実に孕んだ共通性も認められるのだろう。
 その意味では「それ」の独自性は、「名付け」や「モードの名前の連なり」への紐づけによってその方向性を一元化されなかったからこそ生まれえたのだとも考えられる。つまり当時もし「それ」に名前が与えられ「モード化」されていたならば、今我々がそれらの作品に見る独自の輝きは失われてしまっていたのではないだろうか。歴史から掻き消されることを代償に、「それ」は「名付けられなかったもの」だけが放ちうる輝きを現代の我々に伝えているのかもしれない。

 おそらく美術の歴史の広大な平野のなかには、名付けられないまま不可視の存在として潜む膨大な数の群れが存在するのだろう。それらを可視化し、正しく評価するためにはどうすればいいのだろうか?
 本展のように現代から遡って新たに名前を与え「モードの名前の連なり」に紐付けて再評価するという方法も、確かに一定の有用性はあるに違いない。しかし本展がはからずしも示していたのは、そのやり方の限界でもあったのではないか。
 むしろ我々がしなければならないのは「モードの名前」のみで物を見る美術史観から脱却して、「名付けられないもの」や「名付けられなかったもの」をも評価しうる新たな視座を手に入れることではないだろうか。
 もちろんそれは容易なことではないだろう。たとえば個々の作家単位、作品単位の評価あっても、やはりそこには基準となる評価軸が必要となるからである。「モードの名前の連なり」ではないまったく別の新たな評価軸こそが構築されるべきなのかもしれない。

 とは言え、その評価軸が確立されたら確立されたで、それに基づいて「名付け」が始まり、結局また別の「名前の連なり」が作られるだけなのかもしれないが。
 かくも「名前」の呪力は侮れないのである。


「日本におけるキュビスム―ピカソ・インパクト」
埼玉県立近代美術館(2016年11月23日〜2017年1月29日)
http://www.pref.spec.ed.jp/momas/?page_id=335
posted by 3 at 17:24| 日記

2016年04月24日

追記:「絵画」と「イラストレーション」と安田靫彦

 結局、東近美の靫彦展は二回行った。展示替えの最前期と最後期に充てたので、ほぼ全作品を見られたはずである。しかしそれにしても酷いキュレーションだ。二回目は展示に煩わされないよう作品を見ることだけに集中しようと思っていたのだが、それでも流れを掴むためにはどうしても全体にも目が行かざるをえなくなる。展示替えが多いことも理由しているのだろうが、ここまでなんのセンスもなく意味もない絵の並べ方をしている展覧会も珍しいのではないか。せめて制作年順の並びに徹してくれているのならばまだしも、作品に内容に関係なく無意味にシャッフルされている部分が多々あり、見ていて非常にストレスが溜まる。絵の解説などもあきらかに足りておらず、作品の魅力を伝えようという努力に著しく欠けた近年見たうちでもかなり劣った部類に入る展覧会である。
 それでも二回見に行けたことはとても良かった。一回目には気付かなかったことも多く発見でき、前回書いたことへの再考を迫られる事項も見付かった。ちゃんとまとめている暇がないので、とりあえず今回気付いた点だけをメモとして記しておく。


○安田靫彦の画歴に見る「絵画」の変遷

 今回の展覧会の出品作品から「絵画」をキーワードにして靫彦の作品の変遷を辿ると、きわめて大まかにだがだいたい以下のようになると思われる。
 まず画家を志した当初、十代半ばの頃の作品は「イラストレーション=物語絵を描くこと」にのみ専心していて絵としては平板である。大画面、絹本着色、軸装など「絵画」としてのフォーマットは備えているものの、絵の種類としてはまだ挿絵の延長線上にあると言える。
 それが最初の師である小堀鞆音のもとから足が遠ざかるようになって眠草の画号で描いた作品《遣唐使》(1900年)あたりから徐々に画面に「絵画」的な深さを求め出してくる。「イラストレーション」として主題を描きだすことだけではなく、画面中に通う空気感の描写などにも関心が向いてくるのだ。おそらくこの時期の作品は、作者である靫彦の意識としては例えてみれば2D画面から3D画面へと進化していくような感覚だったのではないだろうか。画面の持つ空間自体がどんどんダイナミックに深まっていくのである。その深化は靫彦二十二歳の作である《松風》(1906年)あたりを頂点とする。
 その後靫彦の関心は画面空間自体の深化から、より表面的な画風や描法へと移っていく。大型の代表作だけを取り上げても《夢殿》(1912年)、《羅浮仙》(1915‐16頃)、《天台仙境》(1917年)、《御夢》(1918年)、《日食》(1925年)、《居醒泉》(1928年)、《風神雷神図》(1929年)と、すべて異なる画風、技法で描かれている。展示替えされた前期の作品をここに含めれば、その作風の幅はさらに広がる。
 この様々な技法や画風を実験的に転じていく時代はだいたい四十代の半ばあたりまで続いていく。推測であるがこの時代の靫彦は、その制作においてかなり明確に「絵画」ということを意識していたのではないだろうか。古典の造形に学びながらも自身の絵を同時代的な「絵画」たりうるものにしようと果敢にチャレンジし続ける姿勢を、自分はこの作風の変遷のなかから感じる。
 技法の実験の振れ幅は二十代から四十代にかけて徐々に狭まっていき、四十代の終わりから五十代に入る頃あたりで靫彦の画風は確立されたのだと自分は考える。そしてこの時期の作品からは、それまであった「絵画」たらんとする意志が少なくとも表面的には感じられなくなってくるのだ。年齢的に言っても、もはやことさらに「絵画」を指向しなくとも自分の絵は成り立つという自信を靫彦はこの時期に獲得したのではないだろうか。
 ではそのとき靫彦の絵において「絵画」に代わって前景化したものはなにかと言えば、それは「工芸」なのである。言うまでもなく「工芸」は近代の日本において「絵画」の概念が確立される過程において、そこから排除される形で新たに形成された概念であるが、前回書いた記事ではそこまでは考えが及んでいなかった。しかし今回あらためて靫彦の絵をじっくり見た結果、「イラストレーション」と並び、「工芸」は彼の作品について考える際にきわめて重要なキーワードになりうると確信するに到ったのだ。
 前回自分は靫彦の絵の特長である「美しい線」や「澄んだ色彩」について、彼の絵における「イラストレーション」の要素と対立する「絵画」的要素に当たるとして記述したが、これはかなり雑な解釈であった。むしろ靫彦の絵におけるそれらの要素は「工芸」的なものとして「絵画」性と相反するものとして捉えるのが妥当だろう。
 では靫彦の絵における「工芸」的な要素とはどのようなものか? たとえば線。画風が確立して以降の靫彦の絵の線はもはや絵画の線ではない。その鉄線描は工芸におけるそれに近いのではないか。あるいは着彩。1940年代あたりの作品から見られる輪郭内で薄く濃淡を付けて塗りつぶす技法は、どこか陶器の染付を連想させる。具体的な作品名を挙げれば《孫子勅姫兵》(1938年)や《天之八衢》(1939年)など。細かい部分に対する体験を記しておけば《花づと》(1937年)や《小鏡子》(1947年)における女性の髪の毛の部分の描写に「キュンっ」とする感覚が、工芸作品に「キュンっ」とする感覚とよく似ていた(漆っぽく見えるからか?)。あとこの時期の作品は、紙本着色と絹本着色の違い(前者は軸装か額装かの違いも)に敏感に気付かされることも、工芸作品に対する感覚を想起させる。
 靫彦の絵における「工芸」的な要素の由来は疑いなく彼が学んだ古典の造形作品にこそあるのだろう。前回書いた彼の超時代的な「絵画」観こそがそれを実現しているのだと考えられる。しかしそれがこの時期に至って殊に前景化した理由は、彼の意識から「絵画」への意識が後退したためではないだろうか。つまり三十歳前後で書いた画論のなかで見られた彼の超時代的な「絵画」観が、それから約二十年ほどの試行錯誤を経て、ついに実制作においても実現されたのだと考えることも出来るのである。
 しかしこのとき興味深いのは、そうした「絵画」への指向が後退し「工芸」性を高めた靫彦の絵を、たとえば陶器への染付として描かれた「工芸作品」だと想像しながら見てみると、途端にあまり面白くは感じられなくなってしまうのである。もちろんその分類が「絵画」であろうと「工芸」であろうと、そこで実現されている絵の内容や技術の高さは変わりがないのだが、しかし「工芸」の作品としてそれを見てしまうと、その技術に感心こそはすれど、ただ「それだけのもの」で終わってしまうような感覚も同時に抱くのだ。
 つまりそこから得られる結論としては、靫彦の絵は「絵画」として見ないと面白くないということなのである。前回指摘した「イラストレーション」性の高さといい、今回新たに気付いた「工芸」的な要素といい、靫彦の絵ほど「絵画」らしくない絵もそうはないのかもしれない。しかしそれと同時に靫彦の絵ほど「絵画」という概念を必要とする絵もまたないのではないか。
 前回書いた記事で靫彦と有原友一の絵の結び付け方がいささか強引過ぎたのではないかと反省していたのだが、しかしこの二者に関連するものを見出した直感自体は正しかったかもしれない。ただ共通するポイントとして指摘すべきものは、むしろこのことだったのかもしれない。つまり「絵画」っぽさからもっとも遠い場所に位置するように見える靫彦の絵と、それとは逆にものすごくステレオタイプな「絵画」に見えてしまいがちな有原の絵が、どちらも「“絵画”という概念がこの世になかったらこの絵は成り立たなくなってしまうのではないか?」と思わせる点において共通しているのである。靫彦の絵は「絵画」的要素を画面から消しつつもなお「絵画」に留まることによってその魅力を発揮し、有原の絵はステレオタイプな「絵画」のイメージに近付きつつも限りなくそこから逃れ続けることで逆に「絵画」性を獲得する。どちらも「絵画」という概念そのものの境界線上を辛うじて進むことでその命脈を保ち、同時に「絵画」という概念自体の姿も顕わにするのだ。


○「絵画」と「ずれ」

 今回、再度展示を見るにあたって注目すべきポイントとして事前に考えていたもののひとつに、靫彦の絵と文字との関係があった。基本的に靫彦の絵には画賛は入らないのだが、彼の絵の古典指向や「イラストレーション」性の高さを考えればむしろ賛がある方が自然のようにも思われるのだ。それがないのはまさに靫彦の絵が近代以降の「絵画」であることの証左に他ならないのだが、しかし例外的にいくつかの作品には署名以外の文字が書き入れられている。今回の出品作で言えば《観世音菩薩》(1924年)、《豊公裂冊》(1926年)、《良寛和尚》(1947年)の三作がそれに当たる。
 この三作を見て思うのは、字の入れ方がいまひとつ「嵌ってない」ように感じられることなのである。たとえば《観世音菩薩》では般若心経が画面左側に五行に渡って書き入れられているのだが、画面上部の空白部分に横いっぱい使って楷書で書いたほうがむしろ「それっぽい感じ」で安定的な構図になるように思われる。現状の文字の入れ方だとむしろ上部の空白部分が目立ち、「文字を入れなかった場合の画面の緊張感」のほうが想像されてしまうのだ。それは《豊公裂冊》と《良寛和尚》においても同じで、なにか書き入れられた文字が浮いて見えるのである。そしてその反動として文字がない状態での絵の空白部分の虚空性の高さが思いやられてしまう。
 実際、《太子孝養像》(1921年 )のように、本来ならば画賛が入るべき部分を空白にした縦長の軸装の絵もあり、入るべき文字の不在から画面内に虚の空間を現出させることこそが、おそらく靫彦の絵としては本来の在り方なのだろう。例外的に文字が書き入れられた上記の三作品は、敢えて文字を画面に完全に馴染ませずに「ずれ」を作ることにおいて、その虚空性を担保しているようにも感じられる。
 文字との関係における絵の空白部の虚空性ということで言えば、その最たる成功例が《六歌仙》(1933年)だろう。色紙の左側に六歌仙の絵(正方形に近いやや縦長の画面)が、その右側に金地の紙に良寛風の字体で書かれた和歌が貼られている。和歌が書かれた紙は絵よりだいぶ小サイズなのだが、面白いのはそれが色紙の中央ではなくやや右上に貼られていることなのだ。つまり左側の色紙に貼られた歌仙の絵からは離されるようなかたちになっているのである。六歌仙の色紙はすべて繋がっているので、右上方に貼られた和歌は距離的に言えばむしろその隣の歌仙の絵により近接していることになる。この対象となるべき絵と文字の微妙な距離な開け方は、この作品においてきわめて有効に効果しているように思われる。その距離感こそが歌仙の背景の何も描かれていない絵の空白部分の虚空性を際立たせているように感じられるからだ。靫彦自身の手による書の流麗な自体との相性も完璧であるこの絵はきわめて「イラストレーション」性の高い作品であるが、それが単なる「高品質なイラストレーション」で終わっていないのも、この歌仙の背景に広がる「虚空」にこそあると考える。つまりそこにこの作品の「絵画」性があるのだ。
 しかしこの靫彦の絵における「本来ならば賛が書き入れられるべき部分の空白」が「絵画」的な深さ(虚空性)に繋がるという構図は、画風を確立させた五十代以降の作品では次第に見られなくなり、代わって《豊太閤》(1944年)、《欄》(1963年)、《女楽の人々》(1965年)のように背景を金地で塗りつぶす処置が目立つようになる。その極端な例が《紅白梅》(1968年)であるが、あきらかにこれは「工芸」的なものへの近似だろう。つまり「ずれ」の対象となるステレオタイプが賛が書き入れられるべき「書画」から「工芸」へと移ったということではないだろうか。しかしそのどちらにしても範となる既存のイメージからの「ずれ」が「絵画」性の獲得に繋がるという構図においては共通している。

 話が靫彦からは逸れるが、「絵画」性が範となるイメージ(ステレオタイプ)からの「ずれ」にこそ拠っているというこの自分の主張は、実は最近見た別の展覧会によって裏付けられることになった。それは他でもない東京国立博物館で開催中の「生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」展(2016年3月23日〜5月15日)なのである。黒田の画業の全貌を展観するこの凄まじい展覧会で思い知ったのは、黒田の絵とは(というか黒田自身が)まさに「ずれ」のみによって成り立っていたという事実なのであった。
 そもそもラファエル・コラン に師事してしまう時点でどこかズレているのだが、とにかくこの黒田という男は、ことごとく目指すものと結果がズレれまくっている画家なのだ。そもそもの目指す目的自体がズレている場合も多々あるのだが、実力の不足で結果的にズレてしまっているものもさらに多い。あきらかに間違った時代の間違った場所に居合わせてしまった画家であり、もう少し後の時代に生れていれば、モダニズムのなかでもっと普通に幸せな画家人生が送れたのではないかと思ってしまったくらいだ。
 しかし結果的にこの「ずれ」こそが黒田の絵の最大の魅力であり、そして日本における「絵画」観の形成に重大な影響を与えたものだと思うのである。つまり黒田以上に巧みな画家ならば同時代にいくらでも他にいたわけだが、結局時代が求めていたのは西洋の絵画を小器用にそのまま再現するものではなかったということなのだろう。黒田の絵画は目指すもの自体が間違っていたり技術が足りなかったりして常にズレているのだが、その「ずれ」自体が当時は「新しさ」として映ったのではないだろうか。つまり黒田は単なる「西洋から最新モードを持ち帰った紹介者」には留まらない存在だったのである。彼自身の絵が孕む「ずれ」こそが、同時代の表現者たちに新たな時代における新たな表現の「可能性」を感じさせたからこそ、彼の絵はその影響力を獲得できたのではないだろうか。黒田とはまただいぶタイプが異なるが、日本画の側から近代における「絵画」を先導した横山大観も決してアカデミックな意味での巧みな画家ではなかった。つまり単なる技巧的な巧みさで最新の西洋美術のコピーや伝統美術の現代版を拵えてみても、それだけでは多くの人々を引きつけるものにはなりえなかったということなのである。そこには新たな可能性を見出す余地を孕んだ範からの「ずれ」こそがなによりも必要となるのであり、黒田の場合は意図せずに天然でその時代が求めていた「ずれ」を体現してしまったということなのだろう。そしてそこにこそ自分は「絵画」の概念と範的なイメージからの「ずれ」の関係の始源を見た気がしたのである。

 ちなみにその意味で言うと、靫彦は職人的な高い技術力を持つ画家であり、彼の絵における「ずれ」は、黒田の絵の「ずれ」のようなワカリヤスイものではない。世代的に言っても黒田や大観のように靫彦の絵が日本における「絵画」観に広く影響を与えたといった事実もないだろう。
 とはいえ自分は靫彦の絵を「日本独自の美」や「品格」といった言葉だけで片付けて安直にワカッタ気になってしまうのはあまりにも惜しいと思われるのである。近代日本における「絵画」の概念の形成とも並走してきた靫彦の絵には、我々がいま持つ「絵画」観にも接続する要素がふんだんに隠されてると自分は考える。なによりもこんなに素晴らしく高度にヘンテコで面白い絵もそうはないのだ。はからずしも今回(展覧会の出来が悪かったこともあり)靫彦についていろいろと資料を調べ、短い期間ではあるがその絵について集中して考えることで、想像していた以上にいろいろと見えてくるものがあった。とはいえまだまだ謎な部分がほとんどで、この「絵」や「絵画」自体の謎とシンクロするように解けない謎であり続けることこそが靫彦の絵の最大の魅力ではないかと考えるのである。


○その他、今回見た靫彦作品についてのメモ

 前回の記事で靫彦の《風神雷神図》(1929年)における「ずれ」を、宗達の《風神雷神図》とのズレとしたが、これは片手落ちな見方だった。この絵は外部に対象を求めずとも、その内部に充分「ずれ」の要素を孕んだ傑作であることを今回展示を再見して確認できたからである。たとえば《居醒泉》(1928年)のように靫彦の絵はその「イラストレーション」性の高さにより、ときとして動きの瞬間を切り取ったような高い動的要素をその画面より感じさせるのだが、この《風神雷神図》における左隻の雷神がまさにその「動性」において突出しているのだ。画面の前に立ったときのこちら側に迫ってくるような迫力はかなりのものだ。
 しかしそれと同時にこの作品は靫彦の絵の「工芸」性が前景化してくる最初期の時期にあたり、既にその描線や着彩は「絵画」よりも「工芸」により近づいている。この動性と静性の一画面内での激しいギャップこそがこの作品の要なのであると考える。正直言って前回見たときはこの作品の魅力にいまひとつ気付けないでいたのだが、今回あらためて見て靫彦の傑作の一つに数えられることにも大いに納得がいった次第である。今回あらためて見て、この作品は靫彦の絵のなかでも特に好きなものの一つになった。

 それと対照的に《黄瀬川陣》(1940年)はやはり今回もその魅力にいまひとつ気付けなかった。この作品は靫彦の絵の「工芸」性が極まり始めた時期の作品なのだが、やはり「絵画」を感じさせるための「ずれ」の要素が見出しにくいのだ。「ずれ」の要素を孕む靫彦の絵は画面のなかにもっと呼吸が通う感じがして動きの感覚があるのだが、《黄瀬川陣》はどうも硬く固まってしまっているように感じられるのである。

 同じく靫彦の代表作とされる《飛鳥の春の額田王》(1964年)も自分はそれほど惹かれなかった。思うにこの作品の「ずれ」のポイントは、そこに描かれている女性像が「額田王」という一点にこそあるのだと思う。しかしこの作品のイメージが流布していることと、他に額田王の図像イメージが存在しないことにより、この作品自体が「額田王」のステレオタイプになってしまっていて「ずれ」が生じにくくなっているのではないだろうか。

 今回の展示作品の中から自分がもっとも好きな作品を挙げるならば、前期に出品されていた《王昭君》(1947年)か《六歌仙》あたりか。「イラストレーション」ではなく「工芸」性のみを「ずれ」として内在させた作品としては《菖蒲》(1931年)や《朝顔》(1931年)なども非常にレベルの高い素晴らしい作品であるし、《花づと》のヘンテコ度も捨てがたい。
posted by 3 at 16:24| 日記

2016年04月12日

「絵画」と「イラストレーション」と安田靫彦

●「絵画」の定義

 かれこれ二カ月ほど前の話になるが、去る二月に両国のART TRACE GALLERYにて開催されたトークイベント「有原友一と高木秀典の作品を巡って」に部外者ながらお声をかけて頂き、そこで主に「絵画」をめぐっていろいろ興味深い話が聞けてそれはそれでヨカッタのだけれど(遅まきながら、関係者の皆様に感謝申し上げます)、しかし同時にそのとき気が付いたのは、自分がいかに「絵画」という言葉をイーカゲンに使っているかということなのだった。
 たしかに「絵画」は自分の作品について考える際も、あるいは他人の作品について考察するときも自分にとって重要なキーワードなのであるが、文脈に応じてあまり深く考えないまま同じ言葉を複数の意味合いにおいて使用している気がする。今回もまた性懲りもなく「絵画」についての話を書こうと思っているのだが、反省して本題に入る前にちょっと整理しておいたほうがいいのかもしれない。

 というわけで考えてみたのだが、とりあえず一般に使われる(というか自分が使っている)「絵画」の語の意味はおおよそ以下のような階層に分けられるのではないだろうか。

【1】「絵」と同意味
【2】「painting」と同意味。すなわちキャンバスやパネルなどの支持体に油絵具やテンペラ絵具などで描かれた絵の総称
【3】「painting」と概ね同意味だが、ローカライズされて「drawing」にカテゴライズされる水墨画なども含む
【4】ある種の美的価値観、またはその価値観に適う平面作品(平面ではない形態をとるものも例外的に含む)

 『境界の美術史ー「美術」形成史ノート』のなかで北澤憲昭は、日本における「絵画」の制度的成り立ちが明治二十三年(1890年)開催の第三回内国勧業博覧会に端的なかたちで見出せると指摘している。美術部門の細目で、前回までの「書画」の部門が「絵画」と「書」に分割され、「美術」の概念内における制度的な「絵画」の権威付けと純化が計られたのだ。それ以前の回の「書画」の部門には絵画や書ばかりでなく、花瓶や箪笥など絵が描かれているものならばなんでも出品されていたというのだから、上に挙げた【1】の意味に近かったわけである。自分の基本的な認識では「絵画」は「絵」の下位に位置するサブカテゴリーなのだが、現在でも辞書を引けば「絵画」の解説が「絵」と同義であるものも多い。そもそも「絵画」の語は「絵=五彩の糸をあつめて刺繍する→彩色を施して描いたもの」と「画=仕切りを図形上に描く→線を引いて描く」の成語なのだから、painting=「絵」という認識は語源的には正しいのかもしれない。
 しかし「美術」における「絵画」は、上の内国勧業博のエピソードでわかるように【2】をプロトタイプとし、日本の環境に合わせてローカライズされた近代における新しい概念なのである。【2】と【3】は完全に重なるものではなく、その解釈は現在に至っても振れ幅が大きい。たしかに考えてみると、自分のなかでも意外とグレーゾーンはあるかもしれない。水墨の障壁画を「絵画」と呼んでも違和感は覚えないが、では文人画はどうか?とか。あるいは絵馬は「絵画」に含めるべき?などなど。書や花瓶の染付を「絵画」と呼ぶことはさすがにないが、明治が過ぎ去ってから既に百年以上を経た現在でも、未だ「絵画」の概念は形成の途中なのかもしれない。
 そしてこの【2】と【3】の差異、あるいは【3】の解釈の揺らぎ(あるいは【2】自体が孕む揺らぎ?)のなかには、我々が「絵画」的なものとして考えるそのエッセンスが隠されているのである。なぜならば我々が書や染付を「絵画」とは考えず、水墨画を「絵画」と見做すならば、その判断の差のなかにこそ我々が抱く「絵画」のイメージはあるはずだからだ。すなわちそれが【4】なのである。
 このとき「絵画」の語の定義に意味の隙間があること自体が意味を持ち始める。【4】の意味の「絵画」の語は、素材や技法による定義に代わって、その判断の基準が個人の感覚に委ねられる。するとその感覚に長けたもののあいだで「絵画」の語の意味が先鋭化されていくのだ。つまり【4】の意味で「絵画」の語を使用するとき、【2】や【3】のような様式の面で「絵画」の条件を満たしている絵に対して「“絵画”ではない(”絵画”に値しない)」といった言い方も可能になるのである。つまり「絵画」という言葉が、絵画作品の価値(質)を表す言葉として使用されるようになるのだ。そしてさらに踏み込んで言えば、「絵画」という言葉(あるいはその言葉から想起される曖昧で感覚的なイメージ)自体が、絵画の制作の現場においてイデアとして機能しているということも考えられるのではないだろうか。

 ところで、なぜ自分が「絵画」の定義にかくもこだわるかについても一言しておかなければならないだろう。もともと自分は「絵画」が描けないヘッポコ絵描きで、それこそ絵を描き始めたかなり初期の段階で「自分は絵画が描けない!」と自覚して、早々に絵画を描くことはあきらめた人間なのである。その意味では「絵画の制作の現場」には属さない、マッタクの部外者なのだ。
 しかし「自分は絵画が描けない」→「自分が描くものは絵画ではない」→「ではイッタイナンナンダ?」という迂回した経路をたどって、いつしか「絵画」の定義にも興味を抱くようになったのである。つまり「絵画」の外側にいる部外者ではあるのだが、言ってみれば外側から自らの境界線を定めるような意味において「“絵画”とはなにか?」などといった柄にもないことも考えるようになったのだ。
 とは言え、あくまでそれは自分の外側に位置する問題であって、基本的には他人事である。たとえば日常や制作の場において「絵画とはイッタイなんだろう…?」などといった問いが頭を過ぎることはまずない。そこまで「絵画」に憑りつかれているわけではないのだ。
 しかし、そんな他人事の問題に、不可避的に直面させられることが偶にある。それは「なぜ自分はこの作品に“絵画”を感じるのか?」がわからないのに強烈に「絵画」を感じさせる作品に出会ったときだ。
 おそらくそうした作品は、自分のなかにある「絵画」の定義の境界に接触しているのだろう。つまりその作品になぜ自分が「絵画」を感じるかを考えることは、とりもなおさず自分自身の境界を見定めることにも繋がるのである。そのとき、他人事だった問題は「自分の問題」へと変わるのだ。


 前置きが長くなった。そのような意味において今回「“絵画”とはなにか?」という問題を考えるために自分が取り上げたい「境界の画家」は、先日東京国立近代美術館で回顧展を見たばかりの日本画の巨匠、安田靫彦なのである。

(追補:当初はこの記事の中で「絵画」という言葉を使う際、上で定義した【1】〜【4】の数字をいちいち「絵画」の語の後に付けようかとも思っていたのだが、その計画は早々に挫折した。結局「絵画」という言葉の意味の隙間でしか語れないことが多すぎたからである。しかし最低限、分類可能なもので混乱しそうな場所では適宜注記した。)



●「絵画」と「イラストレーション」

 では「絵画」をめぐる問題において、安田靫彦の絵はどのような境界に接しているのか?
 それは「絵画」と「イラストレーション」との境界である。今回の展覧会を見てあらためて気付かされたのは、安田靫彦の絵の「イラストレーション」 度の頭抜けた高さだったのだ。

 しかし、そのことを検証する前に、まずは「イラストレーション」 の語の定義を行わなければならないだろう。
 とはいえこれもなかなかの難題なのだ。なぜかといえば「イラストレーション」 も「絵画」に劣らず多義的な語だからである。そこには「絵画」と同様に、様式と本質の二つの階層が混在しているのだ。そしてその定義付けには「絵画」との比較も深く関係していると思われるである。
 様式の面から言えば、たとえばその絵が置かれるべき媒体(場所)によって我々はある絵を「イラストレーション」 と呼び、ある絵を「絵画」と定義するといった呼び分けをしている。もとより厳密な区分けではないが、印刷媒体などに掲載される絵を「イラストレーション」と呼び、展覧会で鑑賞したり額装して壁に飾ったりする絵を「絵画」と呼ぶ、といった具合である。
 あるいは我々は絵柄によって「イラストレーション」 と「絵画」を呼び分ける。たとえばライトな画風の「イラストレーション」に対して、重厚で深みのある「絵画」、といった具合だ。
 補足するまでもなく、展覧会での発表されるイラストレーションもあれば、ライトな画風の絵画だっていくらでも存在する。あくまでナントナクなイメージなのである。しかしそれが「絵画」との比較で成り立っていることの意味は(少なくとも「絵画」について考える際には)大きい。(ただし現在では「絵画」のように「イラストレーション」 という語自体が自律した価値を持っているとも考えられる。しかしここでは「絵画」を中心に考察を進め、ジャンルとしての「イラストレーション」 の内部の問題には立ち入らない。)

 正直言って、様式による「イラストレーション」の定義には自分はあまり関心がない。それはホントのホントに「他人事」だからだ。
 もちろん様式と本質が根もとで深く結びついているということはありうる。見た目のナントナクなイメージによる判断が、えてして本質を捉えていたりもするのだろう。しかし当面の課題として、「絵画」と「イラストレーション」の両方の語とも定義を曖昧にしたまま考察を進めても、とりあえず生産的なものにはならないと思うのだ。

 したがってここでは様式ではなく、あえて本質としての「イラストレーション」の意味に絞ってこの語を使用したい。すなわちそれはなにかと言えば、「イラストレーション」=「ナニカを絵で説明したもの」という定義である。
 この場合のナニカとは、たとえば機械の構造を図解したような具体的なものから、商品や作品の雰囲気を象徴するような抽象的なものにまで多岐に渡る。重要なのは絵の外部にある対象を「絵で説明する」という機能を有していることである。つまり絵によってillustrateするという意味なので、語源的にもそれほど外れたものではないだろう。

 しかしこのときすぐに気付くのは、いわゆるジャンルとしてのイラストレーションだけではなく、美術の領域における絵の多くにもこの定義はあてはまるということだ。時代を遡れば「イラストレーション」の要素を持たない絵のほうがむしろ稀なくらいなのである。
 そこで本題に入る前にもう少し回り道をして、「イラストレーション」と「絵画」の関係について、超おおまかなイメージではあるが人類の作画史を辿って考えてみることにする。あらかじめ断っておけば、ここで使う「絵画」の語は、概ね先に挙げたリストのうちの【2】の意味に当たるだろう(ただし一部混乱する可能性はある)。


 「人はなぜ絵を描くのか?」という問いは自分をとらえて離さない永遠の謎なのだが、少なくとも人類の作画の歴史を俯瞰すれば、そこで目にすることの出来るものの大半は、描かれるべき実用的な理由を持った絵である。「なぜ描くのか?」という問いが浮かぶ以前に、既に「描かれるべき理由」が前提として明確に存在するのだ。
 そして「イラストレーション(絵で説明する=図示、図解)」は、絵の果たすべき重要な役割のひとつだったのである。そのほかの機能としては絵によって飾る(装飾)、絵によって記憶を後世に伝える(記録)などが考えられる。このうち記録の機能は「イラストレーション」の範疇にも含められる。そうすると「イラストレーション」と「装飾」こそが、絵の担ってきた二大機能だったということになる。

 「イラストレーション」と「装飾」という二つの機能を一枚の絵が担うことも珍しくない。たとえば教会に飾られる宗教画は、教義を絵でわかりやすく示すという意味において「イラストレーション」の機能を担い、教会の荘厳さを演出する内装として「装飾」の機能を果たしている。日本においてもやまと絵の発祥は屏風絵からだが、それらは絵と和歌が組み合わされるのが常態だった。つまりそこでも「イラストレーション(和歌との補完関係)」と「装飾(内装としての屏風絵)」という二つ機能の併存が認められるのである。
 それに比べると装飾写本や絵巻物などにおいては、絵は「イラストレーション」の役割により専心していると言えるだろう。写本や巻物は、大勢の人に見られる場に置かれる祭壇画や屏風絵に比べると、絵とそれを見るものの関係がより緊密なメディアである。
 そのほかに何の理由もなくただ楽しみとして絵を描くという習慣も存在したかもしれない。しかしそれは極めて私的な場に限られたものだろう。つまり落書きなどのことである。
 以上のように考えてみると、祭壇画や屏風絵→写本や絵巻物→落書きと、公共性が減じるに随って、絵が「描かれるべき理由」の必要性も低下していくことがわかる。
 「描かれるべき理由」の公共性の高さや権威は、当然描かれる絵自体の権威付けにも繋がっただろう。我々が考える美術史や絵画史は「美術」や「絵画」の概念が成立する以前の造形芸術に現代における「美術」や「絵画」の概念を当て嵌めて出来たものであるが、ここで気付くのは「描かれるべき理由」の公共性の高さや権威が、それらに含まれる作品の選定に影響しているのではないかということである。つまり祭壇画や屏風絵、あるいは貴族や為政者の肖像画といったものがまず「美術」や「絵画」の本流であると認定され、その次に写本や絵巻物といった分野にも目が届くようになり、さらにだいぶ下ってから落書きやいわゆるアウトサイダーアートのようなものにも「これも“美術”や“絵画”のうちに入れていいのでは?」といった話が出始めるのである。

 このことは「絵画」の概念の形成を考えるにあたって重要なことであるように思われる。というも「絵画」という概念が形成されたのは、まずは「描かれるべき理由」の権威に裏打ちされた絵がその権威を失うことに端を発していたのではないかと考えるからだ。
 つまりこういうことである。我々の持つ美術史における「美術」の概念が成立する以前に描かれた絵の多くは「描かれるべき理由」を持つ絵だった。しかし時が経つにつれて、だんだんと「絵を見る楽しみ」それ自体が肥大していったであろうことは想像に難くない。すると次第に「描かれるべき理由」は建前化していく。「絵を見ることそれ自体の楽しみ」が「描かれるべき理由」を凌駕し始めるのだ。
 そのとき問題となるのは、それまでは「描かれるべき理由」こそが描かれる絵の価値を担保していたということなのである。「描かれるべき理由」を持たない絵は、公的にはなんの価値も持たないものとされてきたのだ。つまり「描かれるべき理由」が形骸化してきたとき、既存の権威を保ったまま絵が描かれるためには、それまでの「描かれるべき理由(用途)」に代わる新たな「描かれるべき理由(value)」が必要とされるのである。そしてその価値こそがArt(美術)及びその概念のなかにおける「絵画」だったと思うのだ。
 用途としての「描かれるべき理由」をもって絵が描かれていた時代には、優れた芸術を生み出すものは、優れた技術であった。しかし「描かれるべき理由」が形骸化したとき、その技術自体が価値を持つものとして意味付けされたのである。「技術」の意味を持つギリシア語のTechneを語源に持つarsが、純粋芸術の意味を持つ今日のArtへと意味を変化させていった過程は、まさにそのことを端的に示しているだろう。

 そして「美術」や「絵画」が自律した価値として認められるとき、「装飾」や「イラストレーション」といった過去の「描かれるべき理由」は、むしろ積極的に排除されるべきものになるのだ。なぜならば既存の「描かれるべき理由」が無意味化することによって価値を獲得した「絵画」にとって、それら用途に基づいた役割はむしろ自身の価値を濁らすものとして機能するからである。俗に「こんなのはただイラストだ!」とか「装飾的すぎる!」といった言い回しが絵画の質の批判として使われるのはその名残りであろう。
 しかしそのいっぽうで「装飾」や「イラストレーション」としての絵の需要がこの世から消えたわけではない。折りしもその需要層は教会や寺院などの宗教組織、権力者、貴族階層などから、複製技術の発達により大衆へと移っていった。そのようななかで純粋芸術の「絵画」と区分するかたちで生まれたのが、様式やジャンルとしての「イラストレーション」や「デザイン」の概念なのだろう。つまりかつては「絵」のなかで混在していた機能の分業化が進んだのだ。
 そのことは純粋芸術としての「絵画」が、自身のアイデンティティを明確にするためにより純化する必要をも意味する。用途としての有用性や公共への従属を否定し、芸術としての「絵画」は作者個人の内面を表すものだとされる。あるいは自律性を極め、絵画は「絵画」について描くものだとされるまでに到る。その個人性、純粋性、抽象性によって「描かれるべき理由=用途がある絵」との差別化を図っていくことになるのだ。
 つまり「イラストレーション」は、絵画が「絵画」として自立するために切り捨てられた機能なのである。したがって一枚の絵における「イラストレーション」性と「絵画」性は、基本的には対立関係にあるはずなのだ。


 以上が(きわめて大雑把な)人類の作画史から見た「イラストレーション」と「絵画」の関係のおおまかな見取り図であるが、本題である安田靫彦の絵の説明に入る前に、いま少し日本における「絵画」の歴史(つまり先のリストでいうところの【3】)の面から「イラストレーション」と「絵画」の相対関係について考えてみよう。

 上に見たように「イラストレーション」の度合いが高まれば、「絵画」の自立は脅かされる関係にある。そして美術史が「絵画」の純化へと向かうベクトルに沿う限り、「イラストレーション」はそこから消えてゆく運命を持つ。
 日本における「絵画」の歴史において、そのことを逆説的に証明するのが先の大戦における戦争記録画である。美術史の流れにおいても、あるいはそれを描いた各作家の画歴においても、それらの絵が際立って異様に見えるのは、戦争の翼賛に協力したという道義的な問題だけに原因するものではないだろう。戦争翼賛を目的とした絵画ならば、たとえば当時の日本画家たちが比喩のかたちで盛んに描いた絵なども当てはまるからだ。しかしそれらの広義の「戦争画」が直接的に戦争を描いた戦争記録画ほどには美術史的にも個々の作家の画歴の中でも目立って特殊には見えないのは、偏にそこで採られた比喩という方法が「イラストレーション」としては間接だからなのである。つまりそれはまだ十分「絵画」の領域内にある機能なのだ。
 それに対して戦争記録画は近代的な「絵画」の様式と権威に依拠しながら「イラストレーション」の機能を「描かれるべき理由」として前面に掲げた絵なのである。それは「美術」の形成史のなかで見れば完全な先祖がえりであり、「美術」や「絵画」であることをも否定しかねない自己矛盾をその内部に抱えているのだ。そのことが単なる主題上の問題を越え、美術史の流れのなかでも、各画家の画歴においてもそれらの絵を「異様」として際立たせているのである。

 戦争画は広義の「歴史画」に含まれるが、歴史画はまさに「イラストレーション」と「絵画」のその狭間に跨って存在するジャンルなのだ。
 日本における歴史画の誕生は「絵画」の概念の形成の最初期に重なる。ナショナリズムの高まりという外的な要請と、主題の必要性という「絵画」の形成における内的な必要を要因として歴史画は誕生し、明治二十年代から三十年代にかけてのごく短期間、その一時の繁栄を極めた。外的要因の側から見れば、それはまさに日清戦争から日露戦争にかけての時期であり、先の戦争記録画の問題とともに「美術」における「イラストレーション」性の前景化とナショナリズムの高まりの関係には考察に値するものがあるかもしれない。
 しかしここではこれまで同様、内的要因にのみ焦点を絞って草創期の歴史画における「絵画」と「イラストレーション」の関係を見てみよう。

 歴史画の定義は難しいが、「イラストレーション」性の強さによってその内実を区分けすると以下のようなグラデーションが認められる。

〔1〕主題(歴史、物語、戦争)自体を描くための絵
〔2〕主題を何かの比喩のために描く絵
〔3〕主題を表現のための建前とする絵

 この場合、後になるほど「イラストレーション」度は低く、「絵画」の自律性が高まることになる。たとえば戦争記録画は総じて〔1〕に当たるが、その悲惨な描写から発表前は〔2〕の効果すら疑われたという藤田嗣治 の《アッツ島玉砕》の実際は〔3〕であり、故にその「絵画」性の高さによって後になっても評価されたのではないだろうか…などといったふうに区分けして考えることができる。
 では草創期の歴史画は〔1〕〜〔3〕のどれだったかと言えば、どうも混沌とした状況だったようなのである。それも無理もない話で、先に見たように第三回内国勧業博覧会で「書画」の部門が「絵画」と「書」に分けられたのが明治二十三年である。つまり「絵画」の概念自体がまだできたてのホヤホヤで腰が定まっていなかった時期であり、その形成の過程で浮かび上がった「絵画は何を描くべきか?」という疑問への解答として、そもそも歴史画は描かれるようになったという経緯もあるのだ。しかもその時点で手本となるべき本家の西欧では、既に歴史画は絵画のヒエラルキーの最上位から転落し、斜陽の道の途上にあったのである。ゆるやかに絵画の概念が形成された本家と違い、近代化とともにそれを一気に輸入した日本では、その過程が時系列を無視して同時に現れたのだろう。その混乱のなかで歴史画の価値をどこに定めるかをめぐって「歴史画論争」なども起ったが、結局全体の動向を決定づけるような指針にはなりえなかったという。

 つまり歴史画が流行したと言っても、そこでは上に挙げた〔1〕〜〔3〕の絵が指針もないまま同時期に混在していたのである。各作家のなかでもグラデーションはあるだろうが、それでも作家別に大まかに分けるならば、安田靫彦が最初に師事した小堀鞆音は〔1〕を代表する画家だったと言えるだろうし、靫彦の日本美術院での先輩にあたる横山大観、下村観山、菱田春草らが描く歴史画は同時代のうちでももっとも〔3〕に近かったと言える。
 そして靫彦がその八十年にも及ぶ画業をスタートさせたのが、まさにこの混沌とした歴史画の流行の真っただ中だったのである。


 さて、ようやく本題である安田靫彦に辿り着いた。では肝心の靫彦の絵は、上の〔1〕〜〔3〕のどこに位置したか?
 これがなかなか難しい。〔2〕の要素はほとんど感じないが、〔1〕と〔3〕が同時に存在しているような印象を受ける。つまり「絵画」性と「イラストレーション」性を一つの画面でどちらも同じ強さで感じるのである。
 「絵画」性のほうはさしあたり措くとして、靫彦の絵における「イラストレーション」性が実際にどのようなものなのかをまずは説明しよう。都合がよいことに、今回の靫彦展に合わせて東近美の収蔵品展では靫彦と関連のある同時代の日本画家の作品が多く展示されている。靫彦の絵と比較して見てみることにする。

 たとえば靫彦の盟友でもある今村紫紅の《時宗》(1908年)という絵が展示されている。解説には、鎌倉幕府第八代執権北条時宗が円覚寺開祖祖元に教えを乞う場面、とある。しかしそこに描かれているのが時宗と祖元であることを知らずとも鑑賞にとくに支障はないし、また知ったところでとくに大きく見え方が変わる絵でもない。
 それに対してその同年に描かれた靫彦の《守屋大連》はどうだろう。靫彦が自己の画風を確立させる以前の作品ではあるが、そこに描かれている人物が物部守屋であると知ったとき、なにか絵の見え方が変化しないだろうか。発表時から「此画の価値は専ら守屋の顔面の表情にあり」と評判になった絵であるが、単に表情に人間味や深みがあるということを超えて、自分が抱く故事の中の「物部守屋」のイメージにシンクロし、なにか絵のなかで物語が“ふくらむ”ような感覚を覚えるのである。紫紅の《時宗》が歴史上の有名な逸話の一シーンを描いたということに留まっているのに対し、靫彦の《守屋大連》は特定のエピソードを描いた絵ではないにも関わらず、タイトルに付された歴史上の人物の名とともに見るものの想像力の飛翔を促すのだ。これは靫彦の最初期の作品であるが、その後に靫彦が描く歴史上の人物すべてが、その名前から連想されるキャラクターや物語との緊密な結び付きを感じさせるのである。
 あるいは制作年代に差はあるものの同じ主題を描いているということで菱田春草の《王昭君》(1902年)を取り上げてみよう。この作品で目を引くのはなによりも没線描法の描写やパステル調の色彩である。しかしそうした造型的な要素と比較すると、主題である「王昭君」はこの大作の絵画を成立させるための建前として機能するに留まっていると言ってしまっていいのではないだろうか。春草が描きたかったのは、なによりも中国服を着た女たちによる群像図であり、同じような構図が実現できる主題が別にあるならば、他のものでも代替可能であるように思えてしまうのだ。
 それに対して靫彦の《王昭君》(1947年)はどうか。春草が匈奴のもとへと送られる王昭君の送別の場面を描いたのに対して、靫彦の絵は腰かけた王昭君を描いたポートレートである。解説には「ひとり迎えを待つ姿」とあるが、それが迎えを待っている場面であることを示すものは画面上には見当たらない。むしろ典型的な肖像画の構図によって描くことで、故事のなかの「絵師に賄賂を贈らなかったことによって醜く描かれた肖像画」をも想起させる。その場合の靫彦の絵は、本来描かれるべきであった真の姿の王昭君の肖像画ということになるだろう。つまり典型的な物語の一場面を描いた春草の《王昭君》よりも、はるかに物語を想起させる、すなわち典拠となる故実に対して「イラストレーション」 としての役割を強く果たしている絵なのである。もしこの作品のタイトルが「王昭君」ではなく別のもの(たとえば「楊貴妃」とか)だったら、絵の見え方は驚くほど変貌してしまうだろう。

 つまり言ってしまえば、靫彦の絵は「イラストレーション」としてムチャクチャ優秀なのである。歴史画だけではない。たとえば肖像画も、靫彦が描く絵は「肖像画」と呼ぶのが躊躇われるほど、描かれた対象のキャラクターを感じさせるものなのである。その意味では「絵画」の概念下にある「肖像画」よりも、「似絵」や「似顔絵」にむしろ近いのかもしれない。
 では靫彦の絵は「絵画」ではないのかというと、そんなことは全然なく、自分は「絵画」の要素も大いに彼の絵のなかに感じるのである。この相反するべき二つの要素が、互いの強さを減じることなく一つの画面に共存している不思議こそが、靫彦の絵の最大の特徴(特殊性)なのだ。

 ではそうした靫彦の絵の特徴は、なにに由来しているのだろうか? 次項では安田靫彦がどのような「絵画」観を持っていたかを軸にして、そのことを検証してみたい。



●安田靫彦の「絵画」観

 「およそ絵画の研究は黙識すべくして、言説するは難事である」という、まるで今の俺の心境を代弁するかのような出だしで始まる「古画の研究に就て」という長文のエッセイを、靫彦は大正四年(1915年)ころ日本美術学院の『通信美術講座』という雑誌(?)に書いている。画家を志す初学者に向けて古典美術から学ぶ際の心構えと実践の方法を説く内容だが、靫彦の芸術観をよく示していてたいへん興味深い。
 靫彦の古典作品から学ぶ姿勢は次の一文に端的に表れている。


古画を観察するには、先ず全く純粋な自分の感情を以て対する事である。伝来や因襲に囚われずに偽らざる心を以て観る事である。
 

 知識や先入観にとらわれずに自分の感覚、感情を重視して深く見ること。靫彦の学習(鑑賞)態度はそこから一歩もぶれない。そしてこの姿勢は自国の古典美術だけでなく、西洋美術や、自然の観察(写生)にも適用されるのである。
 靫彦と言えば「日本の美」の遵奉者というイメージが強い。古典美術の研究に重きを置いた日本画の巨匠にして歴史画の大家。描く題材は日本武尊、卑弥呼、聖徳太子、万葉集、富士山。さぞかしゴリゴリに保守的な国粋主義者なのだろうとイメージするが、しかしこと絵に関しては靫彦の態度はすこぶるリベラルなのである。「絵画に東西の別はない」が彼の基本姿勢であり、画面内の構図が三角形の節奏で成り立っているという分析において雪舟とセザンヌに共通点を見出したりもしている。

 このリベラルな芸術観には世代的なものも関係しているのかもしれない。明治十七年(1884年)生まれの靫彦は、五浦の日本美術院に学び天心の薫陶を受けたとはいえ、先輩である大観(1868年生)、観山(1973年生)、春草(1874年生)らと比べれば一つ下の世代である。彼ら第一世代の近代日本画の先駆者たちに比べて、西洋美術ないし国内の西洋画への対抗、あるいは日本の伝統美術対する正統の証明といったプレッシャーは靫彦には希薄だったのではないだろうか。
 博物館で古代の仏教美術を見て感動し、展覧会で観山や春草の絵を見て画家になることを決意した靫彦はバリバリの近代人であり、「美術」の制度が整い始めたその恩恵をものごころつく頃から受けることのできた最初の世代である。洋行体験のある大観らに比べ、体の弱い靫彦の唯一の留学先は国内の奈良だったが、しかし結果的にそのことも彼のリベラルな芸術観の形成に繋がったのではないだろうか。文字通りタイムスリップにも思われたであろう古都への旅は、東京生まれで東京育ちの靫彦にとって洋行に等しい体験だったと推察されるからである。つまり靫彦の目には、自国の古典美術も、西洋の美術も、もちろん中国の美術も、学ぶべき対象として同一の地平に同じ距離感で存在する差別なきものとして映っていたのではないか。彼の「絵」全般に対する際立って公平な態度からはそう感じられてならないのだ。

 その靫彦の「絵画」観の一端を示す以下のような一節がある。


絵画は構図―線ー色彩ー形の四つの要素から成立って居る。そして各要素の中に各節奏と調和とがある。即ち線の節奏、色の調和と云う如きものである。そして其の各要素が又節奏と調和によって結びつけられて居る。それが微妙に織り成されたものが即ち名画である。
 

 素っ気ないほど客観的かつ分析的な説明である。ここに入り込む余地のないものはイデオロギーや信仰による偏見だろう。この科学的とも形容したくなるほどの客観性をもって、このエッセイでは古今東西の膨大な美術作品を構図、線、色彩、形のそれぞれの面から分析し、批評しているのである。
 とはいえ靫彦の「絵画」観は客観性のみで成り立っているわけではない。彼にとってなによりも重要なことは作品に「自分の感情を以て対する事」だからだ。「絵画」を「図案」と比較して説明する箇所を引用する。


図案の法則には、均衡、分量、節奏、調和等の要素があって、絵画にも亦共通である。けれども絵画には其の外に生きた意味が含まれていて、其の法則以上に超越するものを要するのである。
 

 つまり「節奏と調和」だけでは図案も同じであって、それだけでは「絵画」たりえないということなのだろう。この場合の「生きた意味」は意味の広く取れる言葉だが、なかなか興味深い、気になる表現だ。というのも「均衡、分量、節奏、調和等の要素」だけならば、靫彦の作品を見ればその画面より容易に見出すことができるからである。しかしそれを超えて彼の絵に「絵画」を感じるとすれば、それはここで靫彦が言う「生きた意味」に関係しているのではないかとも考えられる。

 そしてさらに読み進めていくと、今度はそれまでのリベラルで進歩的な態度とは相容れないような記述に行き当たる。


芸術は人格の表現である。幾多の伝記よりも一個の遺作が能く其の全人格を表白する。
 


品位は絵画の各要素の調和の完美にあるとも云えるが、背後に存在する作家の人格と感情の高さによって霊妙な力を現わし得るのである。
 

 科学をも思わせる客観的な態度で作品を評してきたこれまでの靫彦の姿勢に比べると、この保守的な精神論をも思わせる時代がかった「作家の人格」の強調は意外なものに感じられ、戸惑いを禁じ得ない。
 この言をそのまま靫彦自身の絵に投げ返し、彼の人格や品位の高さをもってその作品の魅力の説明とする向きも靫彦作品の批評にはまま見受けられるが、それはただ言葉の表面的な意味のみをとって解った気になるだけの安直であろう。それでは何も言っていないに等しいのである。

 むしろここで気付くべきは、この時代錯誤とも思える「作家の人格」の強調こそが、靫彦の造形芸術を見る目の超時代性を表しているということではないだろうか。
 つまりこういう事である。先に見た偏見なく古今東西の「絵」全般に平等に接し、構成要素ごとに客観的に論じていく靫彦のリベラルな姿勢は、たしかに大観ら一世代前の日本画家と比べると格段に進歩的な態度に見える。しかし「絵画」の概念の成立の歴史を考えたとき、それは絵画が「絵画」として自立する以前の時代における、工人の「技術」に対する態度とも重なるのだ。仮名書の流麗にやまと絵の描線と同種のニュアンスを見て取り、書と絵を同列に語る靫彦のリベラルな姿勢は、近代的な「絵画」の形成を逆行しているとも言えるのである。
 それとは逆に、芸術作品に「作家の人格」を見て取り、そこにこそ芸術作品の価値を見出す態度は、一見すると非科学的な前時代のものであるように思える。しかしそれはあきらかに絵が単なる工人の技術の産物でしかなかった時代にはなかった「絵の見方」なのだ。
 もちろん古代にも書に人格や感情を見て取る視線はあったかもしれない。しかし造形芸術全般にその視線は適用されただろうか? 『源氏物語』の絵合の巻には、数々の壮麗な絵が提出されたあと、最後に光源氏が配流中に描いた須磨の絵日記が出され「かゝるいみじきものの上手の、心のかぎり思ひすましてしづかに書き給へるは、たとふべきかたなし」と一同感動して涙するという場面がある。一見これなどは王朝人たちが絵に作者の人格や感情を見ている証拠であるようにも思えるが、しかしやはりこれは光源氏の地位の高さと境遇、そしてなによりも描かれた題材に拠るものだろう。絵合の巻でいえば前半部にある宮廷女房たちによる物語絵合せにおいて、絵に対する批評はそっちのけでもっぱら描かれた主題の優劣の議論にのみに終始している態度こそが、当時の「絵の見方」の標準だったのではないだろうか。

 つまり古典の造形に「作家の人格」や「感情の高さ」を見て取る靫彦の視線には、あきらかにそれらが作られた当時には存在しなかった近代の「絵画」観や「美術」観を経た痕跡が認められるのである。それと同時に彼の視線は近代的な「絵画」の境界を超越し、「絵」全般を平等にまなざす超時代性も有している。それは時代を超えて、「絵画」が成立する以前の技工たちの視線にもシンクロするのだ。
 そして、この「絵画」をめぐる近代と前近代の混交は、靫彦自身の制作に強くも反映していると思われるのである。なぜならば、古典美術と近代以降の「美術」が、汎的な「絵」と「絵画」が混ざり合って節奏と調和を演じているものこそが靫彦の絵だからだ。


 ところで、ここまで見てきたのは絵の構成要素(構図、線、色彩、形)や絵を鑑賞・制作する際の姿勢についてだった。つまりは絵を「どう描くか」の問題である。
 では靫彦は「なにを描くか」、すなわち画題についてはこのエッセイのなかでどのように語っているのだろうか。以下に引用する。


凡そ芸術の高さは扱う人、扱い方にあって画題の如何には係らない。宗教画も信仰衰え内容が空疎になった時のものは全く採るに足らぬ工人の技と少しも択ぶ所がない。古来から釈迦、孔子、達磨、阿修羅の如き画題を描いた作品は数限りもない程であるが、其の過半はそれ等の高い人物を現すどころではなく、異相を描かんとして乞食、狂人の如き怪悪な姿態を描いて居るが、俗衆は多数のかかる画に久しく馴致されて敢えて怪しまずに居たのである。そうしてかかる画を床の間に掲げ、浮世絵の如きは鄙俗なりと擯けて居たがここぞ知らん春信等の美人画の如きは気格高く到底彼の道釈画や、足利以後衰残の土佐画などと伍する能わざるものである。ミレーの描いた百姓や貧しい労働者には幽渺たる気韻があふれて居て、普通に見る多くの聖像や天使よりも遥かに高い調子を持って居る。ミレーは「犢の死」や「豚殺し」を描いても矢張り品位を失っては居ぬ。
 

 つまり一言で言ってしまえば「画題なんて(芸術の価値には)カンケーネー!」ということである。ここにも時代を超えた靫彦の「絵画」観が発現されている。
 もしこれが意外に聞こえるとすれば、それは偏に靫彦が歴史画の主題を生涯を通して描き続けたからに他ならないだろう。しかし上の発言からはっきりと気付かなければならないことは、靫彦にとっての歴史画という主題は、西欧絵画のヒエラルキーによる権威はもちろん、愛国的なナショナリズムなどを理由に選ばれたものではないということなのである。今回の展覧会では靫彦の書簡にあったという「昭和聖代を表象するに足るべき芸術を培ふ事を忘れてはならない」という言葉を先の大戦中に制作された作品を並べたセクションの章題としているが、しかし上の理屈から言えば「昭和聖代を表象するに足るべき芸術」を生み出すには、描かれる主題は源頼朝であろうと、山本五十六であろうと、豚殺しであろうと変わりはないのだ。
 ちなみに展覧会では上の言葉を引いて「靫彦は、画家が自身の創意を尽くすことが真の報国だと考えていた」などと解説されているが、これはマッタクの誤読だろう。戦時中に書かれた体制翼賛色の強いエッセイ「古画雑感ー日本画とは何かー」(昭和十四年)などを読んでもわかるが、靫彦の「国家」観は「芸術」や「いい作品」に常に後続するものなのである。彼は古典美術の研究から得た「優れた芸術は、芸術が正しく愛された時代にこそ生まれる」という考えに基いて、国家がその環境を用意するからこそ「国家の力が充実し国民の精神感情が高い時代」を評価し、切望するのだ。つまり靫彦の発想では「いい作品」が生まれることこそが第一義であって、「報国」どころか、むしろ「国家」はいい作品を生み出す環境を提供するためにこそ存在するものなのである。靫彦は一貫してイデオロギーを作品に先行させるタイプの画家ではなく、このことは靫彦の作品について考える際の重要なポイントとなるだろう。

 では、なぜ靫彦は「歴史画」の主題に拘ったのか?
 その理由は意外と単純なものかもしれない。後のものだが「私の読書」(昭和二十七年)というエッセイのなかで靫彦は次のような言葉を残している。


それから私は歴史が好きで、歴史画を多く描きましたので、画題を探す意味でその方の関係のものに親しみ、有職故実や、風俗史、文化史に没頭したこともあります。しかしこれは、とかく、道楽に陥りやすく、知識欲の追及は際限がなく、やがて、肝心の画の修業がおそろそかになるのに気づいたので、骨を折って集めた本を売り払って写生に精進したことがありました。
 

 つまりは「歴史が好きだったから」なのではないだろうか。それほど難しい話ではあるまい。
 先に触れたように靫彦が画家としてスタートしたときは、歴史画の流行の絶頂期であった。その時点では歴史画を画題に選ぶことは普通のことだっただろう。ましてや自己の芸術の範となった古典の巻物絵なども、遡って定義すれば「歴史画」の範疇なのである。さらに古典美術のほとんどが歴史画を描く際にそのモチーフとなりうるのものなのだ。画題に重きを置かないならばなおさら歴史画を“描かない”という選択のほうが、むしろ靫彦にとっては必然性が薄いものだったのではないだろうか。

 それと同じ理由で、靫彦にとって「イラストレーション」の機能を絵から捨て去ることも、その理由の見出せないものだったに違いない。造形表現を鑑賞する際にイデオロギーによる価値判断をしない靫彦は、色彩が本義で線は従だとか、古来から続く画法だから正統だとか、そうしたヒエラルキー的な見方は一切しない。ただ「全く純粋な自分の感情」をもって絵を見て判断したときに、優れたものと、つまらないものがあるだけなのである。故に新しい時代の「絵画」を指向したとしても、古い時代の表現にそれを超える魅力的な要素があるならば、それを放棄する理由自体がなかったのだろう。かのごとくして靫彦の例外的に「イラストレーション」性と「絵画」性が同じ力で同居する「特殊な絵」は生まれるに到ったのではないだろうか。

 とはいえ実際のところ、なぜ靫彦が歴史画の主題に拘ったかとか、なぜ彼が「イラストレーション」性を棄てなかったかなどは、それほど重要ではないのである。なぜならばそれは靫彦の問題であって、それを見る「俺の問題」ではないからだ。
 では「俺の問題」はなにかと言えば、そのようにして生まれた「イラストレーション」と「絵画」が同居している画面内でなにが起こっているかであり、それが自分にどのような感銘を与えているかということなのである。
 次項では再び「絵画」の定義を核としながら、そのことについて考えてみたい。



●「絵画」と「動的な状態」

 冒頭で触れた二月のトークイベントでは有原友一氏の制作方法がたいへん話題になった。というのも彼は作品を「延々と描き続ける」のだと言うのだ。イベントが開催された個展会場に展示されていた絵も本人いわく「まだ描き続けると思う」と言うのである。
 このことは居合わせた画家たちを驚かせ、そして呆れさせた。というのも一般の認識では絵画とは安田靫彦が言うところ画面内の各要素の「節奏と調和」のこそが命であり、まして有原氏の描くような筆致だけで構成された純抽象絵画に至っては「画面に寸分の隙なく一寸を割いても全画面に影響を来たす程に洗練充実」して初めて「絵」として成立するというのが常識だからである。つまりそれは完成してこそ初めて「見えてくる」ものであって、描きかけの絵を世に出すくらいなら死んだ方がましだくらいに思っている画家だって決して珍しいものではないだろう。
 もちろん世の中には八割がたの完成が八割の価値を意味するような絵もなくはない。しかしたいがいは八割と十割の出来の差がそのまま絵の価値の8:10になることは稀で、もうこれ以上筆を入れる余地のないという完成の地点に到って初めて作品としての価値を持ちうるというのが「絵画」としての本来の在り方なのである。ましてや有原氏のような作風の絵ならば、九割九分九厘までは届いていても、十割の地点に達していならば「絵画」としての価値はゼロに等しいといったことさえまま起こりうるのだ。本人はしきりに「(延々と続く制作期間のなかで、完成作として持っていかれてもいいポイントに到達するような)波はある」ということを強調されていたのだが「(まだ続きを描くかもしれないのに)持ってかれちゃってもいいの!?」という他の画家たちの驚きは、絵描きの心理としてはまことにもって当然すぎるほど当然なものなのであった。
 しかし話が進むうちに、まさにそのことこそが彼の作品の魅力に繋がっているのではないかということが次第に見えてきたのである。つまり「画面に寸分の隙なく一寸を割いても全画面に影響を来たす程に洗練充実されている状態」というのは絵として完成された状態ですなわち「十割」な状態のことであるが、同時にそれは「止まってしまっている状態」でもあるのだ。通常はそのもう一寸も動かせないという緊張感は、その緊張感自体がまさに「絵画」の価値として機能するのであるが、有原氏の絵の場合は、その作風からして完成した瞬間にそれが類型の絵の「完成」の型に嵌っただけのように見えてしまう危険性もあるのではないかということがだんだん見えてきたのである。
 つまり「十割」の状態に達しても、単なる「それっぽくイイ感じにまとまった絵」に見えるだけで終わってしまうのではないかということなのだ。言ってみれば九割九分の段階でもまだゼロ割の価値しか持たない絵が、十割の「完成」に達しても、その価値は六〜七割しか届かない、といったところだろうか。そしてその場合に十割の価値を目指すには「止まってしまっている状態」に近づきつつも、そこに嵌ってしまわずに動き続けること、すなわち限りなく十割に近いがそこに到っていない九割九分九厘九毛九九九九九九九九九…というミクロの地点を目指すか、さもなければ十割とゼロ割がひとつの画面に同時に存在しているような矛盾の状態を目指すか、そのどちらかしかないのである。
 そしてたしかにそうして話を聞いてみると、ついさっきまで「一寸を割いても全画面に影響を来たす程に洗練充実されている状態」に見えていた画面が、次の瞬間にはまったくのゼロ割、つまり「絵」にすら見えなくなるということが有原氏の作品を見ているときには起こっていることに気が付いたのである。そしてその一定の地点で停止してしまわない「動的な状態」を保っていることこそが、自分が有原氏の作品に魅かれるポイントであり、彼の絵の最大の魅力なのではないかと結論付けたのだった。

 しかしここで一つ疑問が発生する。なぜ我々は完成度十割の地点に達成した「それっぽくイイ感じにまとまった絵」よりも、十割とゼロ割がひとつの画面に同時に存在しているような不安定な状態にある有原氏の絵の状態をより「魅力的」として捉えるのだろうか。言葉の混乱のを承知でさらに言えば、なぜ自分はその後者により強く「絵画」を感じるのか?


 ここで再び安田靫彦に話を戻すのは、自分が彼の絵にもこれと似た「絵画」の境界を見るからなのである。

 靫彦の絵を評する言葉としての定番は「美しい」、「品のある」、「澄んだ」、「華やか」などであろうか。なるほど、彼が古典研究や自然観察から得た成果であろう「美しい線や形」、「品のある画面」、「澄んで華やかな色彩」などは誰の目にもあきらかな靫彦作品のトレードマークである。
 しかし愛好者は別として、靫彦の絵に対する一般の観客が抱く感想は、もしかしたら「ヘンテコ」が一番なのではないだろうか。初めて靫彦の絵を目にしたものならば、美しい線や澄んだ色彩に目が留まる以前に「なんかマンガみたいでヘンテコな絵だな〜」と思うのが典型的な第一印象であるようにも思えるのだ。かくいう自分自身が、美術館の日本画のセクションで靫彦の絵にいきなり出くわすと、思わず笑ってしまうことも度々なのである。確かに各要素はすこぶる上等だし、上品でもある。でも上等で品もあるのにヘンテコなところがヘンテコなのだ。

 このヘンテコ感が生じる原因としてまず考えられるのは、彼の絵の最大の特長である「絵画」と「イラストレーション」の要素の同居だろう。その本来ならば「あり得ない状態」にあることが、既存の見慣れた絵画の「型」からズレた違和感を感じさせ、それが「ヘンテコ」と感じる要因になっていると考えられるからである。
 いくつか指摘するが、ここで使う「絵画」の語はいくつかの階層にまたがっているので、混乱しないようにあらかじめことわっておく。
 まずは様式(フォーマット)としての「絵画」と「イラストレーション」がバッティングしている場合である。ここで言う様式は絵の内部(画風、画質)ではなく、物理的な大きさや額装といった外側の様式と捉えてもらいたい。靫彦の歴史画における「イラストレーション」性に類似するものは、古典の絵巻絵にならば見出せる。しかし絵巻のサイズが「イラストレーション」の目的に適しているのに対し、靫彦の歴史画は絵巻絵と同じように物語を感じさせる「イラストレーション」度の高い絵を、会場芸術のための大型の画面の額装絵で描いてしまうのである。するとそこに既存のイメージとのズレ(違和感)が生まれるのだ。
 外的な様式と絵柄のズレによるヘンテコ感の最大は、靫彦の仏画ではないだろうか。軸装や構図自体は伝統的な仏画と変わりがないのだが、靫彦はそのフォーマットで既存の図案的な仏画のイメージからは大きく逸脱するやまと絵的な柔らかい描写をもって表情豊かな仏像を描いてしまうのだ。そのため、なにかまるでマンガの一コマを抜いてきたような、滑稽なまでに動きを感じさせる仏画になってしまっているのである。 
 あるいは絵の内部の様式としてのズレもある。靫彦の絵の売りであり古典研究の成果でもある洗練された美しい線、セザンヌからも影響を受けたという計算され切った緊張感のある構図、近代日本画家の中でも抜き出ている澄んで深みのある色彩などの絵を構成する諸要素が、「イラストレーション」の目的のためには無意味に高品質すぎるのである。つまりそこにズレが生じるのだ。

 そうした意味では今回の展覧会の看板作品であり、靫彦の代表作ともされる《黄瀬川陣》(1940年)は、自分のなかではややズレが見えにくい作品なのである。つまりヘンテコ度が低いのだ。
 その原因として考えられるのは、六曲一双の屏風絵というフォーマットが絵の内容とイメージのズレを呼んでいないこと、そして靫彦のなかの作品では「イラストレーション」度が低いように感じることなどが考えられる。
 『義経記』に取材して黄瀬川に陣を張る頼朝と、そのもとに駆け付けた義経を描いたこの作品は、二人の心理がよく描き分けられた近代歴史画の傑作とされている。確かに義経の表情には若干それが感じられないでもないのだが、しかし他の靫彦作品から比べると物語性を喚起させる度合いが低くないだろうか。それ以上にこの作品で目立つのは、なんと言っても画面の張りつめた構成と細部の描き込みの精緻さであり、ややもするとそれは窮屈にも感じるほどなのだ。つまり「イラストレーション」性が「絵画」性に押されて見えるのである。発表当時この絵は、時節がら「国難に馳せ参じる国民の比喩」と捉えられ称賛されたそうだが、裏を返せばそういった比喩的な読みを許してしまうほどに靫彦の絵としては「イラストレーション」としての機能が減じているということではないだろうか。つまり質の高さはともかくとして、言ってしまえば「普通の日本画」にも見えてしまうのである。
 とは言えこの作品が凡作かと言えばそんなことはなく、よくよく観察すれば靫彦ならではヘンテコ感も感じられなくもない。とりもなおさず自分にとっての靫彦の絵の評価が「ヘンテコ感」にこそかかっていることが確認できる絵である。

 同じ屏風絵というフォーマットでも《風神雷神図》(1929年)の笑撃度は靫彦の絵のなかでも際立っている。ちょっとヘンテコが過ぎるくらいだ。《黄瀬川陣》をヘンテコな絵と形容する人は少ないかもしれないが、この絵の飛び抜けたヘンテコ感は誰もが共有するのではないだろうか。
 この作品のヘンテコの一番の原因は、「絵画」と「イラストレーション」のズレよりも、オリジナルの宗達(もしくは光琳)の《風神雷神図》とのズレだろう。しかしそれが単なる受け狙いのパロディ的なズレではないことこそが重要なのである。宗達を誰よりも尊敬して目標とし、そこから学び新しい表現を生み出すべく研究と研鑽を重ねて出来た「真面目な帰結」としてこれがあって、全体のヘンテコ感に比して線描など各要素は不必要なまでに上等なところなどが、むしろヘンテコの要なのである。単にヘンテコなだけでいいだけならば近代日本画(もちろん洋画も)など、ヘンテコな絵の巣窟なのだ。靫彦は物の表面だけを忠実に写し取る意味での写実を「卑近な写実」と呼び、彼が重んじた物の本質を捉えることこそを目的とした「高度な写実」と呼び分けをおこなっているのだが、それに倣って言えば、「卑近なヘンテコ」ではなく「高度なヘンテコ」であることこそがなによりも重要なのである。


 ところで、靫彦自身は自分の絵のヘンテコ感をどう思っていたのだろうか? もちろん「ヘンテコ」とは思っていなかったに違いない。しかし靫彦ほどの客観性に富み本質を見抜く鑑賞眼を持つ画家ならば、自作を見る際もその眼が曇らされることはなかっただろう。範とした古典作品には見当たらず、自らの作品のみに存在するこの感覚に気付かないはずがないのだ。問題はそれを何だと思っていたかである。

 思うに、靫彦は自分の作品の「ヘンテコ」感を、「古きに学び、新しきを生む」の「新しき」に当たると考えていたのではないだろうか。つまり新機軸である。そしてその意味において、この「ヘンテコ」感こそが靫彦の絵における近代性を最もよく示している部分だとも言えるのだ。
 靫彦の芸術論のなかでもっともわかりやく「近代」を感じさせるなものはフェノロサ、天心、大観らにも直結する進歩主義的な価値観である。「古画の研究に就て」より引く。


曾て我が祖先は唐宋の文明芸術を日本化して大なる芸術を造った、我々は新しい且つ深い眼を以て古今東西を観照し、古人以上の仕事を為さなければならない立場に居るのである。
 


故に古人の仕事を研究し、最高の芸術を理解するだけの力を養わなければ、自然に接しても其の真に触れる事が出来ず、前人の踏まなかった道を拓いて行くことも出来ぬ。
 


芸術上の新しい運動は古い芸術の研究から出立するのである。
 

 ただしこの芸術は先人に学びつつも常に新しくなければならないという近代的な芸術観は、フェノロサ、天心の思想に起源するだけのものではなかったかもしれない。というのも靫彦の評価に基づき美術史の地図を描けば「自然や古典より本質を掴み、新しい表現を生み出すこと」と「型や模倣に終始しすること」の二者により、その盛衰の構図を綺麗に分けることが明白だからだ。いくら古き良き芸術に学んでも、単なる模倣で終わったり、型にはまって発展を止めたりすれば、堕落、没落していった多くの流派や模倣者と同じ運命を辿る。そのことを靫彦は、古人たちの作品の研究を通じて学んだのではないだろうか。

 そもそも靫彦ほどの実力があるならば、「やたら上等なイラストレーション」や「とても日本画らしい日本画」や「ひじょうに忠実な古画の再現」などを描くことは造作もないことであるはずなのだ。しかしそれは型であり、模倣なのである。つまり停滞と堕落の入り口なのだ。そこから逃れるためには、常に芸術は新しい表現の創出に励まなければならない。古典の中から、あるいはまた自然の中から、新しい美を発見してこれを高く示さなければならない。そのためには前人の踏まなかった道を拓いて行く必要がある。靫彦の絵の「ヘンテコ」感は、その「新しい芸術」を生み出そうとしたその努力の成果としてあるのではないか。つまりそれこそが範とした古典にはない、彼の同時代的な「絵画」だったのではないか。

 靫彦は芸術の特性を以下のように語っている。


古来のいい作品は、完成しきっていてそれで発展性に富んでいる。常識的に考えられるこの矛盾が、少しも矛盾でないところに芸術の偉大な特殊性がある。(「速水御舟君の足跡」昭和十年)
 

 「完成しきっていてそれで発展性に富んでいる」というその「矛盾」。この言葉は、先に見た有原氏の絵において十割とゼロ割がひとつの画面に同時に存在している状態の不思議と重ならないだろうか? そしてそれは「絵画」と「イラストレーション」が互いに力を削ぐことなく同じ強さで併存することで生まれる靫彦の絵の「高度なヘンテコ感」の説明にもなっているのである。
 この二つの状態に共通するのは、どちらも「絵画」のイメージに向かいつつ、そこから限りなくズレ続ける「動的な状態」にあることだ。そして考えてみれば、「絵画」は常に既存の「絵画」のイメージからズレ続けることで「絵画」たりえてきたのではないだろうか。
 たとえば現代絵画の不必要に巨大なサイズ。あれは既存の「絵画」のイメージからズレ続けるため、常に「不必要な大きさ」であり続けたことの結果としてあの馬鹿みたいなサイズまでに到ったのではないか。あるいはそうした既存の「絵画」のイメージからズレ続けることの帰結として(たとえば高木秀典氏の作品のような)既に「絵」のカテゴリーにすら入らない作品までが強烈に「絵画」を感じさせるといった事態をも引き起こしているのではないか。

 ここで冒頭の「絵画」の語の定義、いやその定義の混乱に話が戻る。つまり二月のトークイベントより自分が抱き続けてきた疑問は、その「絵画」というイデアに向かって既存の「絵画」のイメージからズレ続ける「動的な状態」自体を、「絵画」と呼ぶことは可能か?ということなのだった。
 さすがに言葉の混乱が過ぎるかもしれない。しかし有原友一と安田靫彦という時代も作風も立ち位置も遠く隔たった二人の画家の絵から受けるこのよく似た二つの感覚を言い当てる言葉は、やはり自分には「絵画」しか思い当たらないのだ。
 つまりそこにこそ(少なくとも自分にとっての)「絵画」の境界は存在するのである。

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 最後に開催中の展覧会のことについても少し触れておく。そもそも自分が安田靫彦に興味を持つようになったのは2010年にニューオータニ美術館で開催された展覧会がきっかけで、そこで見た写生画の巧みさとそれに向かう画家の態度には、自分が同じ絵描きを名乗ることが恥ずかしくなり身の縮こまる思いがしたほどであった。今回もそれらの写生画が見ることができるかと楽しみにしていたのだが、「本制作ばかり一〇八点」を売り物にしてるためか出品されてはいない。
 というかこの展覧会、イマドキこんなんでいーのか?と疑問に思うまでに、芸もなくただ年代順に作品を並べただけの凡庸な内容なのである。靫彦の絵画の魅力を伝えようとする工夫(または愛)や、その新たな側面を見出そうとする気概も感じられない。「じっくりふんだんに作品を見てもらう」といったコンセプトなのかもしれないが、なにか「本制作ばかり一〇八点」の豪華さや「東京国立近代美術館」の看板、そして既存の靫彦評価に胡坐をかいているかのような印象すら受けてしまった。
 今回、靫彦自身の言葉を多数引用したのも、展覧会ではあまりに表面的で通り一遍なイメージでしか描かれておらず疑問を解消する手立てとして役に立たなかったので、仕方がなく自分で直接資料に当たってみたことの結果なのである。事前には会期中に何度か通って展示替えの作品も含め全作品を網羅しようかと計画していたほど楽しみにしていた展覧会だっただけに、この点に関してはなんとも残念だった。



「安田靫彦展」
東京国立近代美術館(2016年3月23日〜5月15日)
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/yasudayukihiko/


参考文献:
安田靫彦『画想』(中央公論美術出版)
北澤憲昭『境界の美術史ー「美術」形成史ノート』(ブリュッケ)
山梨俊夫『描かれた歴史ー日本近代と「歴史画」の磁場』(ブリュッケ)
青木茂編『明治日本画史料』(中央公論美術出版)
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2016年01月20日

《ハヤサスラヒメ》と《苦よもぎの泉》

昨年、四十代の男が反原発の主張を訴えるため「電気を使いすぎる」という理由でJRの関連施設を連続放火し威力業務妨害で逮捕されるという“痛い”ニュースがあった。マスコミが悪意をも感じさせるほど執拗に容疑者を「“自称”ミュージシャン」と呼び続けたりとか、容疑者の父親が高名な美術家であったりとか、反反原発のひとびとが反原発のひとびとを揶揄するための格好の肴になったりとか、いろいろ話題にもなる部分もあったらしいのだが、基本的にはどうでもいい。
自分がこの事件に関心を抱いたのは、容疑者が逮捕されたとき父親が言ったとされるコメントである。それは次のようなものだった。

「もし一連の事件が息子の表現の1つだったとしたら、なぜそんなことをしたか、聞きたい。音楽家なら、詞を書いて音楽で表現するべきだった。」

ネットで見つけた二次情報のコピペだが、もとよりオリジナルのソースとて正確な言葉ではないだろう(自分が聞いたNHKのラジオニュースでは「音楽家ならば言葉で表現して欲しかった」といった感じの極度に圧縮されたものだった)。しかし実際に容疑者の父親がなにを言ったかとか、あるいはこの父親と息子の関係がどうであったかとか、容疑者がどんな音楽をやっていたのかとか、この事件の意味するものはなにかとか、そういったことはすべてどうでもいいし、興味もわかない。
自分が唯一関心があるのは、この容疑者の父親が言ったとされる言葉が「表現」というものに関わる問題、あるいはもっと具体的に言えば先の震災や原発事故と芸術表現に関わる問題を照射するナニカを孕んでいるように感じられることなのである。つまり「音楽家なら音楽で表現するべきだ」といったしごく真っ当な言葉が通用しなくなるものがそこにはあったのではないか、ということなのだ。


なにか大きな出来事が起こったとき、それに対する感情や主張を「自分が本来手にしている表現手段」によって表現することは、表現者としては真っ当な態度であると言える。
しかしそこには大きく分けて二つのベクトル(動機)が潜んでいると考えられる。ひとつはその出来事によって生じた現実的な必要性に対して、表現者が自分が本来手にしている表現手段を「自分にできること」のひとつとして使うという方向である。たとえば震災発生当初、様々な分野の表現者たちが各人の「自分が本来手にしている表現手段」を当面の事態に対する「自分にできること」として生かそうと被災地住宅に絵を描いたり、被災者を励ますチャリティコンサートを開催したりしたことは記憶に新しい。その一方、そこから得た思想や感情を表現として昇華することこそを目的とする方向もある。前者が表現の「手段」としての側面を重視(活用)したベクトルであるとすれば、後者は表現行為そのものやその成果こそを重視したベクトルであると言えよう。
もとより一言に「表現」と言ってもその内実は多様かつ複雑怪奇で、単純にその動機を割り出せるものではない。上に挙げた二つのベクトルとて本来は一つの表現のなかに混然一体となって溶け込んでいるものだろう。しかし先の震災や原発事故のような巨大な事態が発生したとき、溶け合っていたそれらのベクトルは分離し、可視化する。その結果として、表現者たちは「本来自分が手にしている表現手段」の妥当性を問われることになるのだ。

災害などの巨大な事態が発生した当初は、即効性こそがなによりも重視される。「表現として昇華する」などといった悠長な話は当然後回しになる。つまりは表現の「手段」的な側面こそがクローズアップされるわけだが、そのときメディアや作家間における各表現の「手段」としての有用性のばらつきが顕わになる。たとえば写真や映像といった表現メディアは、その速報性が事態の必要にもっともマッチしていると言える。実際に先の震災に際してこれらの分野においては、震災発生以前からの自らの表現スタイルを大きく変えることなく事態に対応し、なおかつ作品としての高い成果を挙げた作家も多かった。
しかし同じ写真や映像を表現手段としている者でも、自分の本来の表現スタイルが事態の必要性と必ずしもマッチしない作家も多くいたことだろう。ましてやメディア自体の特性として事態の必要に対して有用性を見付け難いジャンルの表現者はさらに多くいたはずだ。では巨大な事態に直面して「自分が本来手にしている表現手段」の非有用性に向き合わざるをえなくなったそれらの作家たちは、表現者として事態に対してどのようなレスポンスができるだろうか。
ここで表現のもうひとつのベクトルの存在が浮上する。つまり事態の必要性に対する「手段」としては無力でも、その出来事やそこから得た経験や思想を自分の作品として昇華させることならばできるはずなのだ。ことに先の震災のような個人にとっても集団にとっても重大な意味を持つ巨大な出来事が発生したとき、それを自分の作品で表現したいと考えるのは表現者の性としては当然なことだろう。
しかし実はここでも「手段」としての有用性の差異が影響するのだ。というのも、ひとたび「自分が本来手にしている表現手段」が事態の必要に対して有用性を持たないことを思い知らされた作家は、事態が発生する以前と“同じやり方で”他でもないその事態を表現しようとすることが困難になるのである。なぜならばそれは自分の表現の妥当性に対する問いに目を瞑っていることをも意味してしまうからだ。つまりその事態を表現すること自体が、事態の深刻さに「気付いていない」ことを意味してしまうような図式がそこにできてしまうのである

最初に挙げた例に戻ろう。個別の事象に関わると話がややこしくなるので、シチュエーションだけ借りた架空の話ということにする。つまり、ここに先の原発事故に衝撃を受けて反原発の主張を訴えることの必要性に目覚めた一人の無名な中年ミュージシャンがいるとする。彼が事態を深刻に受け止め、自分の主張を広く世に訴えて世の中を自分の主張している方向へと動かすことこそが当面の最重要の課題であると考えたとしよう。その場合、彼がその主張を歌詞にして自分のバンドの僅かな観客に向かって訴えかけるという「手段」は、「目的」から遡って考えたとき、その効果はきわめて限定的なものであると言わざるをえない。それならばテロまがいの犯罪行為で耳目を集めたほうが効果としてはよっぽど大きいのではないか。思いつめすぎてとち狂った彼はそう考えるかもしれない。そのときこの中年ミュージシャンにとって第三者から掛けられる「音楽家ならば歌詞にして表現すればいいじゃないか」といった言葉は、まったくピントを外した意味を持たないものとなる。なぜならばそのとき彼にとって重要なのは自分の主張を世に広く喧伝して社会を動かすことであり、その目的から換算して「歌詞にして音楽で聴衆に問う」という手段を棄て、より高い効果が得られると見込んだ「テロまがいの犯罪行為で耳目を集める」という方法を選択しているからだ。
ではそのミュージシャンが少しは理性が働く人間で、事態に対する即応性はとりあえず諦めて、まずはその主張を自らの表現として昇華しようとしたらどうなるか。つまり「音楽家ならば音楽で表現すべき」という助言に従ったのである。しかし一度は犯罪行為にまで走ってまで自分の主張を世に広めようと急いた彼である。そこで素晴らしい詞や音楽ができたとしても、それで満足することができるだろうか。いやそもそも本当に素晴らしい詞や音楽が作れるのか。なぜならば彼は「自分が本来手にしている表現手段」である歌詞や音楽といった表現メディアの「手段」としての非有用性に既に一度直面しているのである。この状況で“いままでと同じやり方で”自分の主張を歌にしたとしても、人のこころを動かすような説得力のある表現にはなりえないのではないだろうか。その「生ぬるさ」に歌っている自分自身こそが真っ先に堪えられなくなるのではないか。だったらやっぱり犯罪行為で訴えたほうが…と、またぞろ誤った考えが焦燥感に駆られた彼の脳裏を過ぎらないとも限らない。

まぁ架空の話はともかくとして、こんな特殊な喩え話まで使ってなにが言いたかったのかといえば、ようするに事態に対する「手段」としての非有用性に直面してしまった表現によって、その事態を描くことがいかに困難であるかということなのだ。表現の「手段」としての無力さを露呈させる原因となった当の事態を、その非有用性が顕わになった同じ手段によって表現するということは、とりもなおさずそこに「手段」としての有用性に変わるべき「表現することの意味」への問いが発生すること意味する。その問いを無視してまうと、事態の深刻さに対してそれを表現すること自体がむしろ「呑気」に見えてしまう危険を孕むのである。
その結果として犯罪行為にまで走ってしまう喩え話の男は例外中の例外で、多くの表現者はその困難を表現の問題として克服しようとするだろう。そして、そのとき取るべき道として考えられるものは二つある。
ひとつはその事態を直接的に描くことを避けるという道だ。事態を直接題材として描くことが、そのまま「事態の深刻さに気付いていない」ことを意味してしまうような構図の中では、その「深刻さ」を表現するためには可能な限り迂遠な道を行くしかない。しかし考えるまでもなく迂遠それ自体によってなにかを表現することは表現として最高に難度の高いものであり、「描かない」ことが「描かない」という事実だけでむなしく終わってしまう可能性も大いにありうる。
もうひとつの道は自分が本来手にしている表現手段の無力さにとことん向き合い、それを破壊するに到るまで自己反省と自己懐疑を深めるという方法である。つまりそれまで手にしていた表現手段を破壊・放棄し、表現方法を一新することで、その変化自体に事態の深刻さやそこから受けた衝撃を表象させ、その結果として事態を直接的に描くための道を開くのだ。しかしそれは口で言うほど容易いことではあるまい。そもそも「自分が本来手にしている表現手段」は、なんらかの表現上の理由があってこそそれまでその表現者の表現の主手段たりえていたのだろうし、それを簡単に捨てて次はこれといった風にはなかなか行かないだろう。もしできたとして逆にそれが軽く見えてしまう危険がある。そんなに簡単に別の手法に乗り換えられるのならば、もともとそんなに重要なものではなかったのだろうと思われかねないからだ。当然そこでは以前の表現手段との継続性といったものが重要になるのだろうが、継続性の部分が目立ってしまうと今度は「破壊、一新」の効果が薄れ、それが「事態の深刻さに気付いていない」ことを意味してしまう危険を持つ。つまりこれも非常に難度の高い困難な道なのである。

つまりはどちらの道を選択しても成功の可能性に乏しい茨の道なのだが、しかし実は解決の道はもうひとつある。それは自分の表現に「手段」としての有用性があると「信じ込む」という手だ。先の喩え話に登場させた中年ミュージシャンだって「たとえ即効性がなくとも、たとえ数少ない観客相手でも、自分が説得力のある歌詞を書いて人の心を動かすような音楽を演奏すれば、そこで蒔かれた小さな種がいつかはきっと花開き、世の中を動かすことに繋がるんだ!」と自分自身を説得することができたなら、そこで本当に人々を動かすような音楽が生まれる可能性だってあるのだし、ましてや犯罪行為に走るなどといった愚行に及ぶ必要もなくなるのである。
しかし当然そこで問題となるのは、本当にそれを「信じ込む」ことができるかどうかなのだ。生半可なものでは意味がないのである。心の底から揺らぎなく「信じ込む」ところまで行かなくてはならない。
もちろんこの自己暗示的な「信じ込み」の作業は、「手段」としての有用性があきらかな分野においては必要とされない。逆に言えば、有用性が見えにくいジャンルほど「信じ込む」ためには多くの努力が必要となるのである。自分が「信じ込む」ためには、他人をも信じ込ませるよう努めなくてはならないだろう。美術の分野において、震災後に以前にも増して社会との関わりや繋がりを強調する傾向が顕著になったのも、おそらくそうした背景に基づくものなのではないだろうか。「アーティストは炭鉱のカナリア」などといったことが盛んに口にされるようにもなったのも、先の震災を契機にしていたのだ。言うまでもなくその場合の「炭鉱のカナリア」とは、事態に対する「手段」としての有用性のことなのである。

しかしなかにはこの「信じ込み」がとことん難しい表現メディアもある。思うに絵画はその最たるもののひとつではないだろうか。もちろん絵画という表現メディアでしかなしえないことはたくさんあるのだが、なまじ近い過去までは報道や記録といった現実の事態に即した「手段」としての有用性を誇っていただけに、その役割を写真や映像メディアに明け渡したという歴史的事実によって、こと有用性という点に関しては斜陽のイメージが付き纏うのかもしれない。たとえば震災のような事態が起こったときに、それを報道や記録を目的に絵画で表現しようとすれば「もっと簡単かつ正確にできる写真やビデオといった手法があるのに、なぜわざわざ絵画でやるの?」といった疑問がすぐさま湧き上がるだろう。「手段」としての有用性を明け渡したという過去が、かえって事態に対するメディアとしての「役に立たなさ」を強調してしまうのである。
とくに先の震災は千年に一度未曾有の大差異が出会ったと同時に、映像や通信技術が大発展を遂げた環境下における最大の「スペクタクルな災害」でもあった。言葉を失うような映像があらゆる方法で大量に送り届けられるなか、絵画で震災を表現することはさらに「やりにくい」ものになったに違いない。実際に震災や原発事故を直接的なテーマとして取り上げた絵画作品もいくつか目にしてきたが、やはりそのいずれもがテーマの深刻さに対して「呑気」に見えてしまうという陥穽からは逃れていないように思われた。つまり絵画を表現手段とする作家にとって、先の震災や原発事故は鬼門にも等しいテーマなのである。


しかしそんななか「画家が震災や原発事故を直接的なモチーフとして表現した作品」として自分が唯一と言っていいほど感銘を受け、共感した作品がある。それは2014年の初めにコバヤシ画廊での個展で見た岩熊力也の映像作品《ハヤサスラヒメ》だ。
そもそもそれ以前には岩熊力也という画家の作品に自分はほとんど興味を持っておらず、水で洗い流した絵の具の薄まった感じやキャンバスの枠組みが透けて見える地の薄さなどが生理的に駄目で、むしろ嫌いな作家だった。岩熊がVOCA展で大原美術鑑賞を受賞したときも「なんでこんな作家が評価されてるんだろーなー。世間の好みはヨクワカランナー」と思ったくらいなのである。
そのときの個展もたまたま前を通りかかったのでついでにと思って見てみただけだったのだ。展示された作品すべてに感心したわけではなかったのだが、しかしこの絵画アニメーションによる映像作品から受けた衝撃は飛び抜けていた。
作品のなかでは大洪水が都市を蹂躙する様子や、それを映し出すテレビのモニターからも水が流れ出し人々を押し流す様子などが描かれ、直ちに先の震災や津波被害、あるいはそれをテレビの画面で見ていた当時の自分の状況などが連想される。ストーリーは抽象的にではあるが、世界に流出した巨大な「災い」と一人の男の過去の記憶とがシンクロされるように描かれる。
自分がこの作品に驚いたのは、手法の斬新さや表現の洗練度に対してではない。ウィリアム・ケントリッジ以降絵画アニメーション自体はとくに目新しい技法ではないし、映像作品としても編集の冗長さが目に付き必ずしも洗練された出来とは言い難かった。作品内で語られる物語にしても過度にセンチメンタルに傾きすぎて陳腐に堕しかねないような表現もあり、全体としてはむしろ不器用さや野暮ったさの印象のほうが強い。
しかしそんな瑣末的なことをすべて吹き飛ばしてしまうまでに衝撃的だったのは、なによりもあの震災時に「自分が感じたこと」が、こんなにも的確に「絵描きによって」表現されているということなのだった。震災から約三年ほど経ったこの時点でそれは初めての経験だったし、それ以降もこれに匹敵するものを目にしていない。
作品のなかで表現されていたあの震災時に「自分が感じたこと」とは、簡単に言ってしまえばあの未曾有の大災害がなにか自分のせいで起こったかのようにも感じてしまった「罪の意識」と、それに基づいてその後にこの国で起こった犯人捜し的な糾弾合戦に対する違和感である。そのもやもやとしてうまく言葉にはできない曖昧かつ不可解な感情を、この画家は絵画アニメーションというかたちで的確に表現し、提示していたのだ。
さらに本作において特筆すべきは、そのテーマが単に作品内で描かれるに留まらず、作品自体の有り様もまたそれを体現しているということなのである。この作品のテーマとして背後にあるのは、原発事故(だけではなくおそらく大地震や大津波などの天災も含まれる)という取り返しの付かない事態を引き起こしてしまった人間の、日本人の、そして作者個人の罪への意識と、それに対する贖罪だろう。作者は巨大な災いを引き起こした張本人である「人類」や「日本人」を糾弾するのだが、同時にその一員としてその罪を贖わねばならない立場にも立っている。そのような図式のなかで、この作品を制作すること自体が作者にとっての贖罪行為になっているようにも見えるのだ。つまり過去の自分の作品のイメージをも壊すような新たな手法の採択や、自分自身の内面を曝け出すような危うい内容、そして画家にとっての鬼門である先の震災や原発事故を真正面から描こうとする蛮勇などがそれに当たる。一歩も間違えれば目も当てられないことになりそうなこの作品が孕む「危うさ」こそが、表現者としての作者にとっての「贖罪」をも表し、それがこのテーマを描くことを可能にしてもいるのである。
そしてこの作者の「本来手にしている表現手段」であった描いた絵を水で洗い流すという技法も、罪とその贖いというテーマにまさに適ったものだったと言える。つまりこの作品には過去の表現の否定と継続が無理なく並存しているのだ。本来の自分の作品のイメージをも壊しかねない捨て身の表現をとることでそれまで自身が手にしていた表現手段に対する懐疑と反省を示し、同時にそのことが作品のテーマとも深く関係し、なおかつそれが一人の作家の表現歴において説得力を持つ継続性も有するという離れ業をこの作品は示していたのだった。逆に言えば、そこまで条件が揃わなければ「描けないもの」を、本作は描きえていたのである。


この展示の次に自分が岩熊の作品を見たのは同じ年にgallery αMで開催された個展である。そこで発表されたのは先のコバヤシ画廊の個展でも展示されていた歴史上の人物を描き洗い流した布を服状に仕立てた作品によるインスタレーションだった。《ハヤサスラヒメ》に衝撃を受けた結果かなりの期待を込めて見たこの展示は、しかしながら自分としては期待外れなものだったのだ。どうもこの作家はペダンチックな方向に振れるほど説得力がなくなるというか、集合知的なものに自分の表現の根拠を求めようとすればするほど逆にその説明が「個人的な思い込み」にしか見えなくなるという傾向を持っているように思える。それがプラスの方向に働くこともあるのだろうが、このときの展示においては単に鼻に付くだけであった。
しかしそれ以上になによりも大きかったのは、この展示では《ハヤサスラヒメ》にはあった作者自身の身を抓むような感覚が見られなかったことなのだ。その感覚が消えてしまうと描いた絵柄を水で洗い流す技法も単なるイメージ作成のための一技法の域を出なくなり、それが意味するものも作者の「言葉による説明」同様、机上の空論のように説得力を失ってしまう。自分が失望した原因はなによりもそこにあった。

その後も岩熊は積極的に発表を続けていたようなのだが、残念ながら情弱な自分はすべて見逃している。しかし今年に入ってたまたま銀座に出る予定があって周辺の展示情報を検索していた際に、今回のコバヤシ画廊での最新個展「苦よもぎの泉」の開催情報を見つけたのである。そして画廊のウェブサイトに掲載されていた画像を見た瞬間から、コレはゼッタイ見逃せない内容に違いないという予感があったのだ。
果たしてその予感は的中していた。αMでの展示で自分が感じた失望感を完全に吹き飛ばす、展示全体が《ハヤサスラヒメ》で示されていた方向を追及し、さらに徹底させたような凄まじい内容の展覧会だったのである。

今回の展示でも中核となるのは映像作品である。そこでは《ハヤサスラヒメ》のときとはまったく違う新たな手法によって紙芝居的なアニメーションが試みられている。
今回岩熊が新たに素材として用いているのは「絵皿」である。皿の裏面にストーリーが手書きの文字で絵付けされ、表面にはそれに対応する絵が独特のマンガチックな絵柄で描かれている。映像の中では作者と思しき顔の映らぬ人物が皿を両手に持ってまず裏面の文字によるストーリー部分を画面に映し出す。そのあと皿をひっくり返して表面に描かれた絵を見せ、おもむろに手を放す。皿は二階ほどの高さから下にある石畳へとめがけて落下し、音を立てて割れる。それを見届けたあと画面には次の皿が映し出される。だいたいそれが二十枚くらい繰り返されるだろうか。会場では映像が流されるモニターの近くに、割られた絵皿の実物が小山になって盛られている。
そこで語られるストーリーは、かなり荒唐無稽なものである。舞台は西暦2045年、AIが人類を棄てて宇宙に去ったのちの荒廃した地球だ。登場するのは前世が田中角栄だったり、毛沢東だったり、ヨシフ・スターリンだったり、フランクリン・ルーズベルトだったりする競走馬や、サーベルタイガーや、コンドルや、人間たちである。ここらへんの展開はαMで展示されていた歴史上の人物の肖像を描いたシリーズともリンクする。
荒野となった中国大陸に渡った彼らはそこで謎の五色の泉(その描写はパレット上の絵の具を連想させる)を見付け、その水を飲み、それぞれに前世の咎により自己憎悪と反省を求められる。面白いのはそこで糾弾される前世の罪が「田中角栄」や「毛沢東」、「スターリン」といった歴史的な政治家個人としての罪ではないということなのである。田中角栄の前世を持つ馬は「前世が日本人であったことの罪」を、毛沢東であった馬は「中国人であったことの罪」を、元スターリンは「ソ連人であったことの罪」をそれぞれ問われる。つまり地球が滅亡するに至った罪は特定の誰かではなく、人類全員にあるということなのだろう。そこで求められるのは「人類総懺悔」なのだが、それを贖うのはしかしひとりひとりの個人なのである。「全体の罪」を一人の人間が「個人の罪」として担うという《ハヤサスラヒメ》で見られた構図はここでも採用されている。
そこで行われる自己憎悪と反省のエネルギーは電気となって送電塔に送られるのだが、その展開はいかにも「原発事故のあとちょっとおかしくなってしまった人(イデオロギーの入った差別用語でもあるのであまり使いたくはないのだが、俗に言う”放射脳“なひと)」が考えそうな話で笑える。なんとなく初めに挙げた反原発の主張のために放火に走った四十代男をも連想してしまう。
しかし岩熊が連続放火の容疑者と根本的に異なるのは、その非難の矛先を他者ではなく自分自身にも向けていることなのだ。つまりこの作品のテーマとしてあるのは原発事故などの成れの果てとしての地球の荒廃であり、その罪に対する「人類総懺悔」なのだが、その糾弾の矛先は人類の一員としての作者自身にこそまず向けられるのである。だからこそ絵皿は割られなければならないのだ(それは作者の本来の技法である「描いた絵を水で洗い流す」ともシンクロする)。この自己処罰の構図は《ハヤサスラヒメ》においても重要な要素であったが、本展ではそれがさらに明確なものになっている。
面白かったのは、販売用として何枚か割られていない絵皿が画廊のバックスペースに展示されていたのだが、それらの販売用の作品が映像内で次々に割られる絵皿に比べて、手ごろな値段にも関わらずまったく食指が動かないほど魅力に欠けるものだったのである。つまり出来のよい魅力ある絵皿はすべて割られているということであり、まさに作品のテーマが示す意味において、まったくもってそれは「正しい」のだった。

映像作品以外の展示は黒焦げになったリンゴや、蕎麦殻にうずもれた仏像、曲げられたスプーン、マムシ酒などを使ったインスタレーションで、それぞれが意味するものを記した解説用紙も貰ったが、その説明が「作者の個人的な思い込み」以上のものに見えないことは相変わらずである。インスタレーションを構成する立体作品もそれ自体としてはとくに目を引くところはなく、作者による解説を読んでしまうと図式的な構成が顕わになってさらに凡庸に見えてしまうような出来なのだが、しかしこの展示においてそれはもはや問題にはならないだろう。
注目すべきは、これらの作者本来の手法とはかけ離れたインスタレーション作品に押し出されるようにして、本展において唯一展示されていた作者の本領である絵画作品(先にリンクした画像のもの)が、こともあろうに画廊の外の階段になっている狭い通路に展示されているということなのだ。そこに描かれている過去の作品イメージを破壊するかのような絵柄の強烈に下劣なパワーもさることながら、「絵画作品」の扱いとしてはあまりに苛酷なその展示状態こそが、なによりも作者の「自分の本来の表現手段」に対する懐疑や反省、そしてそれに対する贖罪をも示しているのである。言うまでもなくこの作者が他の何にも増してまずは「画家」であり、「絵画」こそが彼の表現の核心であるからこそのこの措置なのだろう。表面的には作者の本領からは遠い凡庸なインスタレーション作品に絵画が取って代わられているだけのように見えるかもしれないが、この展示全体が「絵画」という表現を突き詰め、「画家」としてこのテーマを描こうとしているからこその結果として成っているのである。つまり描くべきテーマが核心を突くほど、絵皿は割られなければならなくなり、絵画は劣悪な展示環境へと追いやられなければならないのだ。言葉による説明は相変わらずまったく説得力を持たないが、しかし言語外に示された態度はこの画家の一貫した姿勢をすべて論理的に示しているのである。

さて架空の喩え話に戻る。ここにある中年の画家がいるとして、彼が先の震災や原発事故に衝撃を受け、自分の主張を世に訴えるためにテロまがいの犯罪行為にまで及んだとする。その男に向かって「画家だったら絵画で表現して欲しかった」という言葉が投げかけられる。しごく真っ当な言葉だ。
しかし「それ」がどれだけ過酷で困難なことであるかは、この岩熊力也の展示を見ればなによりも明らかなのである。



「岩熊力也 苦よもぎの泉 」
コバヤシ画廊(2016年1月5日〜16日)
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2015年12月30日

今年印象に残った展覧会十選2015

今年は日本語で。

例年ならば見逃さないようにしている大型展や話題の展示も、今年は自分の気が向かないものには極力足を運ばないように努め時間の節約に励んだ。結果として見た展示の数は去年までと比べて大幅に減っている(半分くらい?)はずなのだが、こうして年末恒例行事として印象に残ったものを数えあげてみると十指はおろか足の指を使っても足りず、十展を選ぶには例年同様必要以上に懊悩呻吟してしまった。
いつもならばここからTOP10のリストを作るのだが、今年は順位付けするのが難しかったため十選ということまでにとどめた。「日記」としての精度を上げるため、十選には入れられなかったその他の印象深かった展示と、昨年に引き続き敢えて選ぶ「悪い印象」の展示もオマケで付け加えた。



10 of most impressive exhibition (見た順)

「イエラ・マリ展 字のない絵本の世界」板橋区立美術館(2014年11月-1月) URL
「西原功織 4コマダイアリーとその他」A-things(2014年12月-3月)
「微笑みに込められた祈り 円空・木喰展」そごう美術館(2月-3月)URL
「マグリット展」国立新美術館(3-6月) URL
「北島敬三 “UNTITLED RECORDS Vol. 5” 展」photographers' gallery + kula photo gallery(5月)URL
「没後10年 長新太の脳内地図展」ちひろ美術館・東京(5-8月)URL
「スサノヲの到来」渋谷区立松涛美術館(6-7月)URL
「田代一倫 椿の街 Vol.3」photographers' gallery + kula photo gallery(7-8月) URL
「横浜美術館コレクション展 2015年度第2期 戦後70年記念特別展示 戦争と美術」横浜美術館(7-10月)URL
「若林奮 飛葉と振動」神奈川県立近代美術館葉山館(8-12月)URL


The other impressive exhibitions (見た順)

「グエルチーノ展」国立西洋美術館(3-5月)URL
「パランプセスト―重ね書きされた記憶/記憶の重ね書き vol.7 青野文昭」gallery αM(2-3月)URL
「ポコラート全国公募展vol.5」アーツ千代田3331(6-7月)URL
「モダニズムへの道程 写真雑誌『白陽』に見る構成派の表現」表参道画廊(6月)URL
「鉄道遺構・再発見 」LIXILギャラリー(8-11月)URL
「ループホール10周年記念展」府中市立府中グリーンプラザ分館ギャラリー(9月)URL
「生誕200年記念 伊豆の長八」武蔵野市立吉祥寺美術館(9-10月)URL
「諏訪未知 ドローイング / interior」」A-things(9-11月)
「アルフレッド・シスレー展」練馬区立美術館(9-11月)URL
「小林耕平展 蓋が開かない、屋根の上の足音」山本現代(10月)URL
「鴻池朋子展 根源的暴力」神奈川県民ホールギャラリー(10-11月)URL


Bad impression (敢えて選択)

「速水御舟とその周辺 大正期日本画の俊英たち」世田谷美術館 (5-7月)URL
「すごいぞ、これは!」埼玉県立近代美術館(9-11月)URL



以下、覚え書き。


◎「イエラ・マリ展 字のない絵本の世界」

見た時点での感想は既に書いているが、シンプルながら洗練された会場デザインが印象的で、ほぼ一年近く経った現在でも展示室の中ほどに立って作品を見回したときの感覚などが鮮烈に残っている。そしてなんと言ってもあの「世界の字のない絵本」特集コーナー! まったくもって俺パラダイス状態で目からヨダレが垂れまくりだった。もし「字のない本」だけを集めた図書館があったらこんな感じかも…と思わず夢想してしまう。


◎「西原功織 4コマダイアリーとその他」

現代において絵画表現を追究しようとするものにとって「何を描くか?」という問題は、「何を描いてもいい=特定の画題を選択する必然性がない=何も描くものがない」という巨大な暗黒へと陥る躓きの石となる。その不可能性を回避するため、画家たちは様々な個人的、社会的、歴史的な「必然性」を捻出し、兎にも角にも「描くこと」を可能にしようとする。「描かれるべき理由」の欠落した絵は、コンテンポラリーたりえないだけでなく、そもそもこの世に存在する理由のないものとされてしまうからだ。
しかし今年初めに二つの個展を連続して見る機会があった西原功織という画家は、それらの展示から判断する限りその「何を描いてもいい」という苛刻な虚無へと敢えて身を晒しているかのように思われたのだ。これはちょっと気が遠くなるくらい恐ろしいことなのである。そしてそれが「恐ろしいこと」であることを十分に自覚したうえで、敢えてその苛烈へと立ち向かう修験者のような態度を、自分はこの画家の作品から感じたのだった。
まず最初に見たのは「パランプセスト―重ね書きされた記憶/記憶の重ね書き vol.6 西原功織」(gallery αM 1-2月)である。西原の名前は以前から耳にはしていたものの、作品をまとめて見るのはこの個展が初めてだった。その作品は想像していた以上に面白かったし、展示の印象もさることながら奥の部屋に置いてあったポートフォリオ(膨大な作品のアーカイブ)に大いに興味を引かれた。そこで余勢を駆って同じ時期に開催されていた本展にも足を伸ばしてみたところ、こちらの展示はさらに面白く、結果的に今年もっとも印象に残った展示の一つとなったのだ(順位付けはしなかったが、間違いなく一位候補のひとつである)。
展示の主となる作品《4コマダイアリー》は、四コママンガ的フォーマットで作者の日々の出来事を描いたドローイングである。それほど大きくない紙(A3くらいだったかな?)に水彩絵の具とペン(鉛筆だったかな? 記憶が…)で描かれている。作品は一日一枚のペースで毎日制作されているので、作者の日常(家族、とくに子どもネタが多かったように記憶する)や時事ネタ、制作への考察などがリアルタイムで記録され、タイトルどおりこの作品が「ダイヤリー(日記)」として機能していることがわかる。展示では横並びで七枚ごとに折り返すようにして壁一面に配置されていたため、おそらく平日週五日勤務の仕事に就いているのだろうと思われる作者の生活パターンなども一目で把握できてしまう(土日に当たる縦列が、間に挟まっている平日五日分の列の絵と比べ、明らかに描かれている内容が異なるので)。紙面を四等分してできた「四コマ」の使われ方は日によって様々だが、一場面のみの絵ではなかなか伝えづらいであろう画家のその日の心情や行動の説明に繋がるなど、どの絵でも面白い効果を上げていた。
本展ではこの《4コマダイアリー》に加え、抽象絵画の作品(αMの個展で展示されていた作品とおそらく同じシリーズ)も何点か展示されていた。こちらはうって変わって巨大なキャンバスに油絵具(アクリル絵具?)という重厚なメディアである。そこに何が描かれているかはわからないが、その何が描いてあるかのわからなさも含め、イカニモ「(現代)抽象絵画」といった風の作品である。
しかし典型的な「抽象絵画」として見たとき、これらの作品には何とも言いようのない居心地の悪さも残るのだ。そのイカニモな現代絵画風の抽象的な絵柄からは、どこかメタ的な雰囲気も感じ取れるのである。つまり「“何が描いてあるかワカラナイ抽象絵画”というイメージ」を描いた絵画のようにも見えるのだ。
おそらくそれはこれらの絵に一般の抽象絵画が持つ「描くべき対象を絞り込んでいった結果辿り着いた感じ」が感じられないからではないだろうか。絵画の歴史における抽象絵画の誕生が、画面上における要素の抽象化、単純化、最小化によって生まれたものであるように、その基本は「描くべきものの絞り込み」にこそあるのだろう。枝葉を省きエッセンスへと煮詰め、最小をもって最大を語ろうとするその態度は、画家が「何を描いてもいい=特定の画題を選択する必然性がない=何も描くものがない」という暗黒を回避するためのひとつの方策であるとも言える。
しかし西原の抽象絵画から受ける印象は、それとは正反対のものなのだ。つまり無数にある選択肢の一つとしてその抽象的なイメージが「たまたま」選ばれているだけのように感じられるのである。それは自分がこの画家に抱いたイメージ、すなわち「何を描いてもいい」という暗黒に敢えて身を晒しているという印象と重なる。つまり「何を描いてもいい=特定の画題を選べない」という虚無を前にしては、全ての「絵に描けるイメージ」は等価になるからだ。それは抽象化によってより広い世界を、究極には「全体」をも照射しようとする本来の抽象絵画の持つベクトルとは相反するものだろう。西原の抽象画はむしろ「部分」をこそ描いているように見えるのである。その「部分」はどこまで行っても「部分」のままで、決して「全体」に辿り着いたり、その縮図になったりするものではないのだ。
そのような態度はニヒリズムでもあるのだが、しかし西原の絵からネガティブな印象は受けない。むしろその見えない彼方に何があるのか探ってやらんとばかりに、虚無の只中を先へ先へとどんどん突き進んで行っているような勇猛さを感じる。その印象はキャンバスに描かれた巨大な抽象絵画作品と、それに対峙するようなかたちで展示された《4コマダイアリー》を比較したときに確信へと変わる。というのも、サイズも、メディアも、モチーフも、全てが正反対に見える二つの作品が、その本質において実は「同じ」であることが見て取れるからだ。具体的に言えばそれは色や形が織りなす画面の抽象的な構成や、作品を壁に隈なく敷き詰めたときに生まれる視覚的な強度などであるが、そうした画面から受ける「絵画」としての感覚がこれら二つの作品ではまったく同一のものなのである。
つまり西原の卓越した絵画センスと画力は、卑近な日常を紙と水彩で(しかも「四コマ」という非絵画的フォーマットで)描いた「日記」を、伝統的で重厚なメディアで描いた巨大な抽象絵画作品と同じ地平にある「絵画」へと昇華させているのだ。そのとき「何を描いてもいい=全ての画題は等価である=特定の画題を選択できない=何も描けない」という暗黒は、画家の常人離れしたストイックな姿勢とその絵力によって「すべてが絵画になりうる世界」へと反転させられているのである。
おそらく展示のコンセプトとしては同じようなものが目指されていたのだと思うが、作品としてはαMで展示されていた映画のワンシーンを描いた油彩画よりも、この《4コマダイアリー》のほうに自分はだんぜん魅かれた。作品の種類(個人の日記)からして非売品だったのだと思われるが、正直これほどまでに所有欲をそそられる作品に出会ったのも久しぶりなのだった(ポストカード形式の画集とかにすると凄くハマりそう…)。


◎「微笑みに込められた祈り 円空・木喰展」

この展覧会の感想は見たあとすぐにブログ記事にしようと思って書きはじめたのだが、上手くまとめられず結局反故にしたのだった。以下はそのときのメモである。
・内容豪華。とくに円空仏は見たことない珍しいものがたくさん出てた。平安時代の仏像を円空が修復してるんだけど、元の造形を無視してすり減った顔面にノミで思いっきり円空フェイスを刻んでる「修復仏」とか、一木の片面に阿弥陀仏、裏面に薬師如来を刻んだ一体で二度(今生も来生も)ありがたいリバーシブル仏像とか、他多数。
・円空仏は(おそらく木喰仏も)東博展示の劇的な照明効果のもとで見ようと、埼玉歴史博物館やそごう美術館のショボイ展示状況で見ようとマッタク見え方が変わらない。
・円空仏と木喰仏は全然違うが、その違いは前者をアヴァンギャルド、後者をアウトサイダー・アート(より正確にはナイーヴ・アート)とすることで説明できるか?
・あるいは両者の作風の違いを円空仏はカリグラフィードローイング(円空仏ほど「ドローイング的」な仏像は他にない)、木喰仏を水彩絵画に例えることで説明できるか?
・両者の作風の違いは、両者の「信仰」の違いに帰結すると思う←重要!
・円空仏に感じる山岳信仰な自然崇拝の念を木喰仏からはほとんど感じない。仏教的である以上に神道的な円空仏に対し、木喰仏はどこか「バタ臭さ」すら感じる。子安観音などはまるで聖母子像を連想してしまった。豊かな髪の毛を持った木喰仏は仏教僧というよりはキリスト教の聖者のように見える。
・全ての円空仏はそれぞれが異なるcharacterを持っているように感じる。それは円空が自己の外側(自然や彫刻される木)に宿る「気」のようなものを掴みそれを目に見える形で顕現させているからではないだろうか。つまり全ての仏像が異なるspiritを持つのである。それに対して木喰仏は全て同じcharacterを持つように見える。それは他でもない木喰自身なのではないか(実際は木喰は自身像をちゃっかり他の仏像たちと一緒に並べている)。それは自己を取り巻く対外世界へと向かう円空の外向きのベクトルに対し、木喰の信仰が彼自身のinner worldへと向かうものだからではないのか(それは木喰仏がアウトサイダー・アート=ナイーヴ・アートを連想させることの説明にもなる。)
・以上の見方が単なる自分の「信仰」の反映に過ぎないかどうか検証する←ココで挫折


◎「マグリット展」

この展覧会については散々書いて書き尽くしたので、とくに付け加えることはない。


◎「北島敬三 “UNTITLED RECORDS Vol. 5” 展」

津波に洗われ骨組みにだけになった建物の残骸を収めた「震災写真」をメインにフィーチャーしたVol. 1とVol. 2は衝撃的だった。作品数を最小限に絞った初回、二室を効果的に使った第二回と、「なにか凄いことが起こっている!」という手応えと期待感がそこにはあった。しかしその期待感は第三回目にして既に暗雲が立ち込めはじめる。「これってもしかして、こんな感じに時代も場所もばらばらに撮影された“匿名的な場所”の写真がずっと(予告では20回近く)続くのだろうか? だとしたら、それってメチャクチャ単調で退屈なのでは??汗;;;」
・・・といったところまでが「去年までのあらすじ」なのであるが、はたして今年になって開催されたVol. 4(2-3月)は、Vol. 3で自分が感じた懸念を裏打ちするような「相変わらず」の内容で、「このシリーズはもう見ないでいいかなぁ〜」と実はいったんここで挫折しかけた。しかし「あともう一回だけ…」と思って見に行ったVol. 5で完全に見え方が変わった。もしかしたらそれはVol. 3やVol. 4でも提示されていて、単に自分が気付かなかっただけなのかもしれないのだが、このVol. 5にして初めてこのシリーズで作者が意図しているものがようやく「見えた」ように感じたのだ。
この回で展示された写真は撮影年が1999〜2013年と幅広く、写された時代も場所もそれまでのどの回よりもバラバラだった。しかしその時代や場所は様々だが構図や被写体は酷似した写真を見ていると、並べられた複数の写真内のかたちとかたちが呼応し合って、そこで織りなされる建物の稜線が作るリズムなどに思わずハッとさせられるような面白さがあることに気付く。「匿名的な場所」と言っても、写真である限りそれは特定の時代にこの世界に存在した特定の場所の記録である。その「記録」と複数の写真が展示されることによってたまたま今この場所に生まれるかたちの呼応がミックスされて、時間と空間をシャッフルするような不思議な体感を生み出すのだ。その混合のなかへの「震災写真」の自然な溶け込ませ方も印象に残った。
このシリーズでは展示とともに毎回小冊子形式の写真集が刊行されているのだが、この冊子と展示の関係も自分にはずっと謎だった(そのとき展示されている写真が同時に刊行される写真集に掲載されているわけではないのである)。しかしその点に関してもこのVol. 5でようやくなにか作者の意図の端緒のようなものを掴めたような気がしたのである。というのも、この回で展示されていた作品7点のうち5点までが既に刊行されている写真集のvol.1と写真集vol.2に掲載されていた写真だったので、つまり同じ素材を使って展示と写真集という二通りの異なる表現が試みられているのではないかと第5回目まで見てやっと思い至ったのだ。写真集には一切撮影年および撮影場所の記載がないので定かではないのだが、なんとなく撮影した時間に沿って編まれているような気がする(ゼンゼン間違っているかもしれない) 。それに対して展示のほうは「匿名的な場所」の写真を時間と場所を織り交ぜて並べることで「見えてくるもの」を探っているのではないだろうか。実際にこの回の展示からは「写真」や「展覧会」の新たな領域を切り開いていくような、そんな息吹をも感じたのだった。このギャラリーは自主運営スペースということもあってか展示に長けた作家が多いのだが、そのなかでも北島敬三の展示の上手さは頭抜けているように感じるので、この展示の妙を見るだけでもあと残り十四回(?)を目撃し続ける価値は充分あるかもしれない。
ちなみに同じく今年開催された次のVol. 6(9-10月)は、メインの展示室のほうに「震災写真」をズラリと並べつつ、実は別室に展示した静的な写真のほうでより強い印象を与えるというこれまたやたらよく出来た展示で、おそらく内容的にもシリーズのアクセント回になるのだろうと推察されるのだが、来年以降に続く展開に期待を抱かせるに十分余りある内容だった。


◎「没後10年 長新太の脳内地図展」

没後の回顧展として2007年にそごう美術館で見た巡回展、あるいは2013年にちひろ美術館・東京で見た企画展に比較して、今回の展示はよりチョーさんの制作の秘密に迫るような内容だったのが印象的だった。自分としてはナンセンスの神様チョーさんの展示を今年見られたのは意味があったかも。


◎「スサノヲの到来」

一言で言えば、奇展w。見に行く前は同じ松涛美術館で昨年末に見た「天神万華鏡」(2014年12月-1月) のようにスサノオノミコトに関する絵画や歴史資料を集めた展覧会なんだろーなーと漠然と考えていたのだが、その予想は大きく外された。というかタイトルだけで事前にこの内容を予想するのはほぼ不可能だヨ^^; と言うのも、これは「スサノオノミコトに関するもの」ではなく、「スサノヲ的なもの」を集めた展覧会だったのだ。
では「スサノヲ的なもの」とはイッタイナンゾヤ?ということになるのだが、第一義的には(いや第二義的なのかもしれない…)当然「スサノオノミコトに関するもの」である。しかし同時にそれは一つの思想でもあって、おそらくこの国における王道(言うまでもなく天照大神〜天皇によって代表される)への対抗軸となるオルタナティブなもの全般を指すのだと思われる。スサノヲはその象徴であり、展覧会の企画者は「3.11」以降の混迷と闇を切り開くため太古から脈々とこの国の深層に息づいてきた「スサノヲ力」こそが必要なのだと説くのだが、展覧会の最終セクションの現代作家の人選などを見る限り、この「王道=天照大神vsオルタナティブ=スサノオノミコト」という構図は、既存の美術界の文脈に対する異議申し立てとしても機能するのだろう。
実際、その最終章の展示では黒川弘毅、多和圭三、若林奮といった「王道」の作家たちが、霊能系アウトサイダー画家や盲目の書家、あるいは「王道」の美術メディアでは目にする機会のない現代作家たちと肩を並べ、「王道」=コンテンポラリー・アートの文脈ではない「別の物語」のもとでは、彼らの作品がいかに異なった見え方をするかを見せつけている。ここは本展の見どころの一つである。
前半の歴史資料を集めたセクションでは、出口王仁三郎と平田篤胤を中核として全般的になんだか妙にオカルト寄りw。おかげで見たこともないような変なものがたくさん展示されていてメチャクチャ面白かった。もともとは巡回展で、去年の10月に足利美術館で開催されたのち、DIC川村記念美術館、北海道立函館美術館、山寺芭蕉記念館と回って松涛美術館はその最後の開催館だったのだが、この内容ならばどこかもっと広い美術館で見ればよかった…と後悔したほど。とは言え狭い会場に詰め込みに詰め込んで導線がズタズタになりながらの松濤美の展示もキョーレツで悪くなかった。
ただこの展覧会、面白いことは面白いのだが、ハッキリ言ってツッコミどころも満載なのだ。確かに「この国の王道」に対するオルタナティブとしてのスサノヲというアイデアは秀逸で面白いけれど、ともすればその「スサノヲ的なもの」を決定する基準が史実に基づくものから外れ、感覚に頼った恣意的な解釈へと偏り過ぎな気がするのだ。そもそも展示の冒頭から縄文土器が「スサノヲ的なもの」を代表する造形として提示されるのだが、当然のことながら縄文土器とスサノヲの「直接的な関係」なんてものがあるわけもなく、もうノッケから「史実とかゼンゼン関係ありません! あくまで俺定義の“スサノヲ的なもの”です! ニュアンス重視ですっ!」って言い切ってしまっているようなもので、ついていけない人はもうこの時点でナンダコリャ??で終わってしまうだろう。
そもそもがスサノオノミコト自体が神話的な存在なわけで、その神話的な存在が“実際に”どう崇められ、どう日本人の精神構造に影響を与えてきたかを示してこそ、初めて思想としての「スサノヲ的なもの」の信頼性も増すのだろう。その手順を省略してしまったら、やはりどんなに面白くてもオカルトであり、トンデモと言われても仕方がないように思われる。せめて前半だけでも「天神万華鏡」展くらいの堅実さがあればだいぶ印象も変わっただろうと思われるだけに惜しい。
まーとは言えこの志の高さと独創性は群を抜いてるし、間違いなく今年最も印象に残った展覧会の一つではあるだろう。


◎「田代一倫 椿の街 Vol.3」

この展示に関しても見た直後の感想をこのブログに書いた。田代一倫の前作《はまゆりの頃に》は、東日本大震災後の日々を生きるにあたってずっと自分の思考の背骨のようなものになっていた。自分の判断に自信が持てなくなってぐらつきそうになったとき、その場所に立ち返ることでまた姿勢を保ちなおすような、そんな存在にまでいつしかなっていたのだ。あの作品に出会っていなかったら、自分のものの見方はずいぶん違ったものになっていたかもしれない。
この展示も自分には今という時代を考えるにあたってひとつのぶれない視線を与えるような、そんな意味を持つ展覧会であったように思う。この作品もまた自分にとって「物を考える際に立ち返る場所」のひとつになったのだ。


◎「横浜美術館コレクション展 2015年度第2期 戦後70年記念特別展示 戦争と美術」

今年横浜美術館で見た企画展「蔡國強展:帰去来」(7-10月) は、おそらく自分の美術館展示における生涯最短滞在時間の記録を更新したように思われる。全部見るのに5分もかからなかったのではないだろうか。そのあまりの見応えのなさこそが逆に見どころになってしまっているかのような逆転現象すらもそこでは起こっていたのだが、続く収蔵作品展のセクションで本企画を見て蔡展のあっけに取られるほどの内容のなさが、実はこのコレクション展示をじっくり見せるための美術館側から配慮だったということに気が付いた(つまり企画展に見応えがあるとコレクション展のために費やす体力と時間が無くなってしまうため)。本命は、むしろコチラだったのである。
昨今の時勢を反映してかこのところ戦争と美術をめぐる企画はホント多いし、東京国立近代美術館をはじめコレクションを使って収蔵品展示のスペースでの企画展も珍しくなくなっている。ただ東近美が一昨年・昨年の「何かがおこってる」(2013年10月-2014年1月、Uが2014年6-8月)にせよ、今年の「誰がためにたたかう?」(5-9月)、「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」(9-12月)にせよ、現在の社会状況に対するレスポンスとしての先の戦争期の検証であることがあきらかであるにも関わらず、それと同時に常になんらかの逃げ道を用意してあるというか、まともに正面からぶつかっている感じを出さないよう気を配っているように感じられたのに対して、この横浜美術館の展示は余分なエクスキューズの一切ないモノスゴク「直球」な企画であった。その直球さには「振れ幅」を演出するほどにはモノがないという裏事情もあるのかもしれないが、しかし結果的にはそれがプラスの方向に作用していたように思われるのだ。
自分が過去に見た「戦争と美術」関連の展示のなかではもっとも印象的だった「戦争/美術 1940-1950」展(神奈川県立近代美術館葉山館 2013年) や一昨年来の東近美の所蔵品ギャラリー内企画など、「戦争と美術」展のほとんどは作品や資料によって当時の時代状況や空気を再現することを展示の主眼としているように思われる。1940年代の各年を一室ごとに区切って見せていった「戦争/美術 1940-1950」はまさに当時の時間の流れ自体を展示空間に再現するような試みだったし、戦争記録画153枚という大物を持ってる東近美も、だいたいその切り札をクライマックスに配置して流れを作る時代の空気再現型の展示だった。それに対してこの横美の企画はそれらとは展示から受ける印象がやや異なっていて、実はそこが自分が一番面白いと感じたところなのである。
確かに本企画も他の「戦争と美術」展示と同じように、作品に並置して当時の印刷物などの資料をふんだんに並べられていた。しかしおそらく当時の状況や空気を再現できるほどの量の作品はないということなのだろう、表面上はとくに時代状況を反映したものではない作品もかなり混じっていたのだ。その大半は「いつもの横美のコレクション展で見かける作品」なのだが、しかしそれらの直接戦争とは関係ない作品も「戦争と美術」のテーマに乗せるべく、普段の展示にはない小さな工夫が施されている。というのも作品に付された作家紹介のキャプションに、その作者が戦争期にどのような行動を取ってその後どのような人生を歩んだかなどの情報が書かれているのだ。たとえば斎藤義重の《作品4》という1960年制作の作品には、斎藤が戦前のアヴァンギャルド運動のなかで展示作と同じような抽象作品を当時から既に制作していて、それが特高の捜索を受けるも検挙までには至らず、戦時中は一切作品を作らずに軍用工場などで働き、長い断絶期を経た後1950年代になって戦前と同じモダニズム的な抽象絵画で前衛画壇に返り咲いたことなどが記されている。
つまり展覧会の演出としては「いつもの横美のコレクション作品」の展示に、当時の時代状況を色濃く反映した作品や資料を間に挟み込んで時間の流れを作り、各作家紹介のキャプションにその作家が先の戦争にどのように対処したかが記されているという、言ってしまえばそれだけだけなのだ。しかし結果として、そこでは非常に面白いことが起こっていたのである。
というのも、他の「戦争と美術」系展示が美術作品を使って「あの戦争」や「あの時代」を描こうとしているのに対し、本企画ではその主客が逆転して、むしろ「あの戦争」のほうがそれぞれの作家の「本来の人間的な(または作家的な)属性」を顕わにするための(代替可能なひとつの)事象として機能しているかのように感じられたのだ。つまり先の戦争をめぐってのそれぞれの作家の姿勢やその帰結としての運命は、「あの戦争」という特定の事象によって引き起こされた特殊な出来事ではなく、もともと彼ら自身に本来的に備わっていたものなのではないかという視点がそこではもたらされるのである。そのとき彼らの作品のなかに見るべきものは「あの戦争」という災厄やそれに翻弄された運命ではなく、むしろ「あの戦争」が起こらなかったとしても他の事象によって結局は同じような方向にその作家の人生や制作は向ったのではないかと想像されてしまうような、そんな各人が持つ「本性」なのだ。この視点の逆転は(それが企画者の意図したものであろうとなかろうと)非常に示唆的なものに自分には思えたのである。
そして結果的にこのことは個々の作品に対する見え方を大きく変え、目垢が付くほど見慣れた「いつもの横美のコレクション作品」がこんなにも違って見えるものかと驚くほどの効果をもたらしていたのだった。それはコレクション展のあり方としては、この上なく「正しい」ものであると言えるだろう。


◎「若林奮 飛葉と振動」

2008年に開館から当時まだ間もない横須賀美術館で開催された若林奮の没後初の大規模回顧展「VALLEYS」は、自分にとって待望の展覧会だった。1995年に東近美で見た「若林奮展-素描という出来事」に人生変わるほどの衝撃を受けたにもかかわらず、結局自分の関心は若林のドローイングとその周辺のみに留まり、彼の本領である彫刻作品の魅力に気付くにはずいぶんと時間がかかってしまった。結果として作品に直接触れる機会であった重要な機会をことごとく逃し続け、気が付いた時には作家は既にこの世になく、亡くなる直前に開催された豊田市美術館や川村記念美術館での個展を見逃したことをその後何年にもわたってうじうじと後悔する羽目に陥っていたのである。
つまり横須賀美術館での「VALLEYS」は、何年も待った末ようやく訪れた自分にとって初めての「若林奮の作品と存分に向き合える機会」だったのだ。その前年に多摩美術大学美術館で開催された「若林奮 DAISY 1993-1998」展の内容が素晴らしかったことも「没後初の大規模回顧展」への期待をいや増させていた。まさに時は満ちたりだったのである。
しかし、そんな破裂しそうなほどに膨れ上がった期待をもって見た当の「VALLEYS」展は、自分にとってなんだか妙に満足できない展示だったのである。確かにそれなりの数の作品は展示されていた。しかもそれらは見たくてたまらなかった若林奮の作品である。彼の彫刻作品の魅力にも開眼した自分にとって、それらは目から涎が垂れるほど魅力的な作品だ。にも関わらず、この「なんかあんまり満足できない感じ」は何なのか? 絶対買おうと決めていたカタログも結局買わずに美術館を後にし、その妙な不満足感だけが喉元に刺さった魚の骨のようにその後もずっと残り続けたのだった。
振り返って分析すれば展覧会の内容以前に、美術館の前庭に若林の没後に設置された作品《Valleys》への違和感がまず先に立っていたようにも思われる。自分はこの作品を「ファルマコン’90」で見ていて、当時はもちろん若林の作品の魅力に開眼する遥か以前でチンプンカンプンだったにも関わらず、それでも幕張メッセの大会場に剥き出しの巨大な鉄板を並べたその威容だけは強く印象に残っていた。しかし、それが作者の意向だったとは言え鉄板に錆止めのメッキ加工が施され、横須賀美術館(通称:スカ美)の前庭の端のほうにぽつねんと置かれているその毒気を抜かれた様は、あまりに記憶とのギャップが激しすぎたのだ。そして作者自身が直接手掛けた最後のパブリック彫刻になったという府中市美術館の《地下のデイジー》のあの詩的で哲学的な佇まいと比べたとき「作者が生きていれば、こんなことにならなかったのではないか…」という思いが湧き上がるのを禁じえなかったのである。
そして今回、七年の時を経てあらためて企画された若林の回顧展「飛葉と振動」を見て思ったのは、そのとき感じた「作者が生きていれば…」という思いは意外と正鵠を射ていたのではないかということだった。横須賀美術館にしろ今回の神奈川近美葉山館にしろ、若林の存命中にそこで個展が開かれるとなれば、当然作者本人の手によるインスタレーションがそこではなされることになるだろう。しかし作者がすでに鬼籍に入っている現在に展覧会が開催されるとなれば、これまた当然ながらそこでは「作者の手による展示」は見られないのである。他の物故作家同様、我々は残された作品の展示から、彼の業績を偲ぶしかないのだろう。
しかし、である。はたして我々は若林奮のような作家の作品を、他の多くの物故作家と同じように扱っていいのだろうか? 作者は既にこの世を去ったが、作品は残された。残された作品を並べれば展覧会は出来るし、同じような意味でパブリックアートの新たな設置も可能である。そんな簡単な話だろうか? 横須賀美術館の「VALLEYS」展で自分が感じた妙な不満足感は、作者の没後も作品さえ並べれば展覧会は成り立つという傲岸や無神経さを、あの展覧会のどこかに自分が感じてしまったからではなかったのか?
そして今回の「飛葉と振動」展は、自分のそうした疑問に応えるかのような内容の展示だったのだ。本展の主眼は「作品を並べること」ではない。この展覧会で第一に目指されているものは若林の思考を辿ることである。もちろん会場会には若林の残した作品がふんだんに並べられている。しかしそれと同時に本展では若林のもうひとつの本領であるドローイングに加え、作品が発表された当時の写真や印刷物、若林の作品を撮影し続けてきた山本糾による撮り下ろしの写真や映像、果ては若林が海外で撮影したプライベートな写真まで、それらのともすれば「資料」に分類されるものまでもが若林の思考を辿る手札として作品と等価に並べられている。そしてそれらの展示物を扱う手つきからだけでも、若林作品への深い理解が感じられるような、そんな繊細な作りの展示だったのだ。
本展では一見断絶しているようにも見える初期の鉄の彫刻から晩年の「庭」の作品群に繋がる目には見えない微かな線を、展示によって丹念に追って行く。そこではキーワードを立てて無理やり作品を「解釈」していくような強引なキュレーションは行われない。若林の思考や思想はそんな安直なものではないからだろう。作家としての資質の違いもあるのでここで反面教師的に(?)例として引くのは適当ではないかもしれないが、たとえば「高松次郎ミステリーズ」展(東京国立近代美術館 2014年12月-3月)のように、作品に隠された作者の思考(ミステリー)を読み解こうする態度はここでは採用されないのだ。むしろ「決め付け」を可能な限り避け、作者によって「残されたもの」を繊細な手つきで並べていき、それら「残されたもの」たち自身の連鎖によって作者の思考そのものを空間に満たそうとしているように思われた。つまりここで試みられているのは暗喩的な読みではなく、むしろ換喩的な読みなのである。
それも当たり前と言えば当たり前のことであって、若林のような作家に対して作者が作品に秘めた思想や思考を暗喩的に読み解くといった安直が通じるはずもなく、当然その解明作業は「ミステリー」的なものとはまったく異なるものにならざるを得ないのだろう。謎は「謎」のまま同時に「解答」として目に見えるかたちでそこに存在しているからだ。つまり若林の思想や思考は作品の「奥」に秘文的に隠されているようなものではなく、たとえばそれはドローイングの絵の具による微かな滲みや、鉄の彫刻の表面に広がる錆の模様、あるいは作品の周囲の空間に生じるわずかな振動のなかにしか見出すことができない種類のものなのである。
つまり若林の思考というよりも、思考による「振動」の再現こそが、ここでは試みられているのだろう。「作品」を自明視して並べるだけの展示とも、作品から作者の思想を暗喩的に解明しようとする「ミステリー」型展示とも異なる、おそらく作者がこの世に不在となった現在において若林奮のような作家の展覧会を開催するにあたって考えうる限り最善の方法のひとつを、本展は示しているように思われた。
…とは言え、誉めてばかりもいられない。今年新たに葉山館前庭に設置されたという若林の作品《地表面の耐久性について》の緊張感のカケラもない間の抜けた佇まい(とりあえず空いてるスペースに「置いただけ」にしか見えない)は、スカ美の《Valleys》に勝るとも劣らない無残さであるように自分には思われた。たとえば西雅秋が展覧会開催に伴って設置した海側の庭に転がっているコンクリート製木造舟のあのワイルドな佇まいなどと比べたとき、やはり「作者が生きていたら、こんなことには…」という思いが湧き上がってくるのを禁じえないのである。



○「グエルチーノ展」

「日本にいながらにしてこんな展覧会が見られるなんて!」とその贅沢さに感嘆の声を上げたくなるような展示に稀に出会うことがある。単に「お宝」が出ていればいいという問題ではない。その作家の日本での知名度や展示の質などを総合的に勘案して、それが手近に見れてしまう幸運への感謝から思わず「なんて贅沢な人生なんだろう!」と叫びたくなるような、そんな展覧会だ。自分の場合、去年三菱一号館美術館で見たヴァロットン展(あるいは2012年のシャルダン展)はまさしくそのような展覧会であり、そして今年国立西洋美術館で見た本展もまさに自分に「贅沢な人生」を感じさせてくれる極上の内容だったのである。所蔵美術館の地震被害といった事情はあるものの、日本においてさほど知名度の高いとも言えないこの画家の大作を中心としたこれほどまでに充実した展示が見られるのは、まさに僥倖の一言に尽きるだろう。自分が見に行ったときは観客もまだまばらで、この上ない鑑賞条件のもとで「バロック、オモシレー!」とコーフンしつつ、その贅沢さを存分に味わったのだった。
ちなみに西美は今年は収蔵品展内の版画素描展示室を使った小企画「世紀末の幻想 近代フランスのリトグラフとエッチング」(3-5月)や「没後50年 ル・コルビュジエ 女性と海」(7-10月)も印象的だった。特に前者で展示されていたカリエールの肖像リトグラフが河原温の《死仮面》ソックリで、「これが元ネタか?」と思ってしまったのだが、実際はどうなんだろう?


○「パランプセスト―重ね書きされた記憶/記憶の重ね書き vol.7 青野文昭」

青野文昭の作品は2013年のギャラリイKの個展でも見ていて、その展示も印象的だったのだが、本展はそのときよりも遥かに広いスペースを使った大規模かつ洗練されたインスタレーション。そして空間の広さに比例するかのように、そこで受けた印象もより衝撃的なものだった。東日本大震災の津波で流されて廃材となった家具などをトリックアート的にあるいは「修復」し、あるいは家具と家具を融合させて正体不明なオブジェを出現させる青野の制作は、技術的には繊細かつ地道な労力が必要とされるものなのだろう。しかし展示全体から受ける印象は、なにかまるで巨大津波に真正面から立ち向かっていくかのような凄まじい力強さがあって、とにかく圧倒された。その「力強さ」は、物量や勢いで見るものを威圧するような種類のものではなく、人間に絶望と無力感をもたらす自然の猛威に対して「ひとのちから」をもって真っ向から対峙しているような、そんな希望や勇気をも感じさせるポジティブなものだったのだ。


○「ポコラート全国公募展vol.5」

今年は毎年欠かさず見ていた某現代美術系の公募展の受賞作品展も気が乗らずついにスキップしたのだが、しかしこのポコラートだけはやはりいまだ見逃せない。平野智之の《美保さんシリーズ》のさらに洗練された新作や川戸由紀の謎の映像作品などお馴染みの作家の作品に加えて、新たな才能にももれなく逢えるのがなによりもの魅力。思うにこの公募展が成功しているのは、選考の基準が硬直していないからではないだろうか。つまり一言にアール・ブリュット(あるいはアウトサイダー・アート、またはエイブル・アート、はたまたナイーヴ・アート・・・まぁなんでもよい)と言っても、我々がそこに見る「面白さ」は決して一様ではない。作家としての自覚のもとに作られた作品もあれば、本人にはその気がなくても見る側が勝手にそこに「作品」的なものを見ている場合もある。平野智之や川戸由紀のような突出した天才に驚くこともあれば、作者が見ている世界の特異さに驚くこともあり、常識からのズレが笑いを誘う場合もあれば、素朴な表現にほのぼのさせられることもある。それら決して同一の地平では優劣を決定できないような多様な魅力を偏らず拾おうとしている姿勢こそが、おそらくこの公募展を未だ生かさせているのだろう。


○「モダニズムへの道程 写真雑誌『白陽』に見る構成派の表現」

小さな展覧会だったのだがとても印象に残った。東京都写真美術館の金子隆一氏企画の展示なのだが、個人的には写美で以前見た「芸術写真の精華 日本のピクトリアリズム」(2011年)よりも受けたインパクトは大きかったかもしれない。ハズレ続きの展覧会巡りの果てにたまたま寄って見た展示だったのだが、その日一日の徒労感が吹き飛ぶような清新な印象があった。展示されていたのはすべて1920年代に刊行されていた写真雑誌に掲載されたものということだったのだが、とても印刷物とは思えないような精巧さにも驚かされた。写真のチョイスがまた良くて、こういう不思議な空間にひょっこり迷い込んでしまう瞬間こそが展覧会廻りの醍醐味なんだよなーと再認識させられた展示だった。


○「鉄道遺構・再発見 」

「歴史とどう向き合うか?」という問題は、なにか熱病の一種のような様相をも見せながら、今年もさらに我々の上に重くのしかかっていた。妄執するでもなく、無視・忘却するでもなく、適度で自然な距離感こそが「歴史」との付き合いにおいては理想だろう。しかしそれが言うほど容易いことでないことは、日々のニュースのなかを跋扈する「歴史」の巨大な存在感を見渡せば自ずと明らかである。
そんな時勢のなか、この展覧会を見ていてなんとなく考えたのは、「歴史」との付き合い方において「鉄道遺構的なありかた」というのは、ひとつの理想のスタイルとしてありうるのではないだろうかということだった。鉄道遺構というのはなかなか面白くて、まずその地域の歴史と必然的に深く関わっている。車での移動が発達した現代ならばまだしも、近代化の過程において鉄道の開通がその土地にもたらした影響と変貌の大きさは想像に余りある。本展では記録映像などによってその一端を窺うことができるのだが、言ってみればその土地に生きるもので鉄道と無関係でいられたものは一人もないということなのだろう。つまり鉄道遺構にはその地域の歴史そのものが詰め込まれているのだ。
この企画展では、かたちを変えて現在でも利用されている各地の鉄道遺構が紹介されていた。あるいは橋や遊歩道として、あるいはワインセラーとしてなどその用途はさまざまなのだが、そこで重要となるのは「歴史」が途切れることなく現代の生活空間のなかに存在し続けているということではないだろうか。つまり本来の鉄道としての役目は終えても、また別のかたちで「現役」としてその遺構が地域に生き続けることによって、自然なかたちで過去と現在を繋ぐ「歴史」が生活のなかに存在することになるのである。おそらくそれは歴史というものの本来的なありかたなのではないだろうか。例えば「記憶のためのモニュメント」などの場合、そこには「記憶せねばならない」という人間の意志のベクトルが働く。その意志に反する思想を持つものは、モニュメントのなかに「歴史」ではなく、その「意志」をこそ見てしまう。当然そこには対立が生じ、その対立は「歴史をめぐる対立」と呼ばれることになる。しかしそこにおける「歴史」とはいったい何か?
ともすれば我々は「歴史」は記録資料や象徴的なモニュメントのなかだけにあるように思いがちだが、本当は我々の周りに存在するすべてのものは過去と地続きの歴史の成れの果てとして存在しているはずなのである。いやそもそも我々自身が「歴史」の一端としてここに存在しているのだ。日常のなかに自然なかたちで「歴史」そのものが継続して存在しているという鉄道遺構の肩の力の抜けた在り様は、歴史というものに対する我々の姿勢を見直すためのヒントになるような気もしたのである。


○「ループホール10周年記念展」

もしこの展示を広くてキレイな美術館やコマーシャルギャラリーの展示室で見ていたら、これほどまでには面白いとは感じなかったかもしれない。普段は趣味の絵画サークルなどに利用されていると思しきおよそ現代美術作品の展示には不向きな壁やスペースが、作品の力によって「あまりこれまでに見たことがない空間」へと変貌しているのを見るのは、大掛かりな仕掛けで美術館の大展示室が変貌するさまを目撃するのにも劣らない新鮮な驚きがあった。
絵画作品が主だったため絵画の底力をそこに見た気がしたし、やはりこのギャラリーは個性的で面白い作家を揃えてるんだなーと再認識もしたし、作風が似ている作家の思わぬ実力の差まで垣間見られた気がして、さほど期待して見に行ったわけではなかったわりには思はぬ収穫があった。


○「生誕200年記念 伊豆の長八」

絵にて絵画にはあらず、立体造形にて彫刻にはあらず。近代以降の「美術」の概念では掬い取れない超絶技巧による工芸的絵画、いやはたまた絵画的立体、いやときには工芸的絵画的建築物、イヤイヤやっぱり「美術」の用語では上手く名指せない。一見は百聞にしかず、いやホントこの鏝絵(こてえ)にはビックリした。
伊豆の長八の作品の面白さは単なる技術力の高さだけではなくて、おそらく絵心が凄くある人だったのだと思うのだけれど、たとえば立体造形すらも「絵」として見ることができるような面白さがあるのだ。平面の絵がもりもり盛り上がってそのまま立体像になってしまったような不思議さを感じさせる作品もあって、2D〜2.5D〜3Dまでシームレスに同じ「絵画」的感覚で貫かれるこれまで見たことのない表現に、自分の(近代的な)絵画感を揺さぶられまくったオドロキの展覧会だった。
幕末〜明治期の超絶技巧の作家ということでは、今年は暁斎展があった(「画鬼・暁斎-KYOSAI」三菱一号館美術館 6-9月)。ちなみに暁斎は長八の16歳年下で没年が同じ。暁斎展に関しては、基本的には楽しんで見たのだが、同時に「やっぱり自分の好みの画家ではないなー」と再認識した展示でもあった。確かにムチャクチャ上手いんだけど、上手いことがプラスの方向だけではなく、マイナスの方向(=ツマンナイ)にも向かうことがある作家なのかな、と。だから自分が暁斎の作品で「面白い!」と感じるものは、だいたいその技術的な上手さが過剰になっている部分で、確かに上手さが下地になってそれが初めて実現しているということはわかるんだけど、ポイントとして面白さを感じるのはその積み重ねの部分ではなく積み重ねが過ぎて有り余ってしまった部分、つまり「ズレ」に対してなのだ。時代の違いなのか作家としての資質の違いなのかはわからないが、たとえば北斎ならば技術的な上手さがマイナスの方向に働くということはあまり考えられない。その奇想も技術力の高さも漏れなく楽しめるという感覚がある。比べるなら北斎の奇想がアヴァンギャルドなのに対して、暁斎はキッチュ止まりな気がするのだ(その部分こそが現代的であるとしてウケているのかもしれないけれど)。
そして同じ時代の超絶技巧でも、長八は暁斎と違ってキッチュな面白さとは全然違う。長八の場合はテクニックがどれだけ超絶になろうとも、それが過剰(余剰)にならず、ちゃんとすべて表現に還元されているという感覚があるのだ。暁斎の絵の面白さに幕末〜明治という時代と彼の表現とのズレが深く関わっていると感じられるのに対して、長八の場合はむしろ時代を超えている。つまりズレが生じる余地がないのだ(そのため、ある時代にアジャストして「同時代的」に見えることもないのかもしれない)。故に長八はアヴァンギャルドでさえない。何だか(近代的な見地からでは(?))よくわからないまったく独自のナニカなのだ。


○「諏訪未知 ドローイング / interior」」

初めは「ふーん、こんな感じかー」くらいにしか思わなかったのだが、時間が経つうちにだんだん「見えてくる」ものが増えてきて、「これはもしかして、なかなか面白いのではないか?」と思い直した。
諏訪未知のドローイングには、例えば同じスペースで見た西原功織の《4コマダイアリー》のような日記でありつつなおかつ同時に圧倒的に絵画であると見るものを納得させるような「強さ」はない。むしろその真逆で、印象としてはすごく「弱い」。抽象絵画的な図柄が紙に描かれているのだが、一見すると「抽象絵画的な図柄が紙に描かれている」以上のものには見えない。絵画的な深まりや、複雑さや、あるい異物として周囲から切り離され立ちあがってくる強度などは全然感じられない。しかし逆にその「何も感じられなさ」が気になって時間をかけて見ていると、このギャラリーが展示スペースに接続する形で布地を取り扱う店が併設されているということもあってか、それらのなかなか「絵画」に見えないドローイングが、むしろ布地のプリント柄を擬態しているかのように見えてきたのだ。そうすると面白いことに今度は逆に布地のプリント柄との差異のようなものが意識され、それまで見えなかった筆のかすれや絵の具の滲み、色の重なりによる微細な色調の変化といった微細な細部が「絵画的な豊かさ」として見え始めてきたのだ。この時間をかけて「だんだんと見えてくる」感覚は新鮮で、自分にとってそれはまさに「絵画的体験」以外のなにものでもないのだった。
この体験が意味するものはなかなか示唆的である。はじめ諏訪のドローイングが自分には「抽象絵画的な図柄が紙に描かれている」以上のものには見えなかった(つまり「絵画」には見えなかった)理由を考えるに、展示場所(前回見た展示が先に書いた西原功織の個展だった)や作家名からそこにあるのは絵画に違いないという先入観が展示を見る前から既にあり、はたしてそこに展示されているものがイカニモな抽象絵画を指向している感じの作品であったため、その先入観に照らし合わせて「絵画」へと向かうベクトルが届ききれていない(「それっぽいもの」に留まっている)と判断し、絵画として見るには「弱い」、すなわち「絵画」には見えないという結論に達したのだろう。しかしその「見えなさ」がかえって違和感となり、それらのドローイングが「絵画」ではなくむしろ「プリント柄」を擬態しているように見えてきたとき、逆にもともとそこにあった微細な(つまり初めに「弱い」と感じた)絵画的な要素が差異として強調されて「見えてくる」といったことが起こったのである。つまりベクトルが「絵画」に向かっていると感じたときは絵画には見えず、逆に「絵画」に見えないようにするベクトルが働いていると感じたときに絵画に見えるという逆転現象がそこでは生じていたのだ。思うにこのことは「絵画」というもの本質を考えるにあたって非常に重要なことなのではないだろうか。付け加えれば、「絵画」に見えないようにするベクトルが生じるにあたって、これらの作品がドローイングであったことも当然意味を持つであろう。
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ここで諏訪未知展からは離れてしまうのだが、話のついでに「サイ トゥオンブリー:紙の作品、50年の軌跡」展(原美術館 5-8月)についても書いておきたいと思う。今年の思い出のひとつとしてこの展示のことは記録しておいたほうがいいように思うからだ。と言うのも、ある意味では今年もっとも期待していた展覧会のひとつでもあったこの展示が、実際見てみたらビックリするほど期待ハズレの内容だったのである。事前の期待を裏切られたという意味ではちょっと過去に記憶がないほどの落差の大きさだったのだ。散見した限りでは展覧会評は好評なものばかりだったようなので、展覧会としての出来不出来の問題ではなく、単純に自分にはトゥオンブリーの紙の作品(今回初めて見た)がまったく面白いと感じられなかったということなのだろう。展示を見ている最中ずっと自分の頭のなかにあったのは「トゥオンブリーってキャンバスに描かないと駄目なのか??」ということだった。
とは言っても自分が実際に見たトゥオンブリーのキャンバス作品など数が知れている。しかし過去数点のみだが目にしたそれらの作品が自分を圧倒的に引き付けたのは、そのまったく「絵画」を指向しているようには見えない描画と、それにもかかわらずそれが圧倒的に「絵画」以外の何物にも見えないというそのギャップの凄まじさだったのである。つまり非絵画的ベクトルによって「絵画」が成り立ってしまうというそのクールさや、「絵画」が成立するギリギリの境界線で絵画たりえているというその緊張感(言うまでもなく「絵画」の緊張感のほとんどがその境界線上からこそ発生している)が自分を魅了したのだろう。
ところが今回の展示で見た彼の紙に描いた作品は、その大半が非絵画的ベクトルではなく、むしろ絵画として「見えるようにしよう」というベクトル(努力の跡)のほうが目だって見えてしまうような凡庸な作ばかりだったのである。ギリシア神の名前を殴り書いた作品とかホント悲惨で「そこに頼るかっ!」みたいな感じにしか見えなかった。非絵画的ベクトルは当然非意味や非価値のベクトルとも重なるわけで、トゥオンブリーのドローイング作品はその非意味・非価値の拠り所のなさに堪えられなくなって、有意味・有価値のエッセンスのようなギリシア神名に必死ですがっているようにしか自分には見えなかったのである。
そこで思ったのは、やはりキャンバスと紙という支持体の差だった。言うまでもなくキャンバスはそれだけで絵画や美術の制度(パレルゴン)として機能する。つまりキャンバスに描かれているというだけである程度「絵画として見える」という担保がなされているわけで、その担保の上で奔放に非絵画的ベクトルの描画を展開し、ギリギリの境界線上で「絵画」を成り立たさせてみせているのがトゥオンブリーのキャンバスの作品なのではないかと考えるのだ。
それに対して紙という支持体は、その担保がキャンバスに比べ一気に目減りする。「なにを描いても絵画に見える」といったことはそこでは起こらない。この世に存在する「キャンバスに描かれたもの」のほとんどが絵画かそれに類するものであったとしても、「紙に描かれたもの」ならばその選択肢が無尽蔵に増えるのである。それは電話中に描いた無意識の悪戯書きなのかもしれないし、なにかのメモなのかもしれないし、パレット代わりになすりつけた絵の具の痕なのかもしれない。可能性はいくらでもあるのだ。にも関わらずそれが「絵画」に見えるのだとしたら、それはそこに付された痕跡の総合に「絵」として見える美的な要素が含まれているからということになる。この場合の「絵」として見える美的な要素とは、ものすごく単純化して言ってしまえば画面内におけるバランスのことだろう。トリミングされた画面上に付された痕跡が「絵」に見えるバランスというものがこの世には存在する。多くの画家が絵画の制作において筆を置くタイミングにこそもっとも精力を注ぐのも、その「絵」になる究極のバランスを探っているからなのである。
問題は、トゥオンブリーが紙の作品においては、その「絵に見えるバランス」を追っているように見えることなのだ。もちろん「絵」にするためには追ってもいいし、追うのは当然なのだけれども、追っているように「見えてしまう」のはトゥオンブリーの場合は非常にマズイのである。というか、すこぶるカッコ悪いのだ。なぜなら彼はキャンバス作品同様、紙の作品でも表面上は非絵画的なベクトルを貫いているような体を装っているからである。一見「俺、ぜーんぜん“絵画”なんか目指してないから〜」といった顔して描かれた感じの描画(作風)にも関わらず、実際はどの絵からも「絵として見えるようにまとめよう!」という努力の痕跡がひしひしと感じられてしまうのだ。「あ〜、これじゃ絵にならないと思ったから、ここに文字入れたんだろーなー」といった具合に。無造作を装った懸命さほどカッコ悪いものもない。しかもそれが「見えてしまう」ということは、あんまり上手くいっていないのだ。そうなるともう非絵画的ベクトルは単なるポーズ、もしくは自己模倣でしかなくなってしまう。結果的に「絵画」が成立するぎりぎりの緊張感はそこからは感じられず、むしろ既視感溢れる「それっぽいもの」として平凡に完結しているだけなのだった。正直言って自分にはなんでこんなにありふれた絵が特別に評価されているのかさっぱりわからなかった。
諏訪未知展からトゥオンブリー展へとだいぶ逸脱してしまったが、絵画とドローイングの関係をめぐる今年の思い出(あるいは「絵画」へ向かう/離れるベクトルと「絵画」に見える/見えないという問題に関する二つの例)として併せて記してみた。まぁートゥオンブリーに関してはたぶん自分はまだ全然見ている作品数が足りていないので、来年早くも開催されるDIC川村記念美での展覧会(しかし今度はなんとメディアが写真!)が、今から楽しみである。


○「アルフレッド・シスレー展」

初めに書いておくと、展覧会としての出来にはかなり失望した。出品作品数が20点(うち2点は版画)というのは、確かに展示面積から考えてあきらかに少ない(足りない)。でも作品が少ないなら少ないなりにいくらでも工夫のしようがあるだろうと思うのだが、結局この展覧会では埋め草が埋め草以上のものには見えず、一つの展覧会としてのバランスを著しく崩していた。せっかく国内にあるシスレー作品の半数近くを集めたんだから、サブテーマとして設定されていたという「シスレーと日本」について第二部で掘り下げたりとかすればエポックメイキングな展覧会になったかもしれないのに、もったいない。たとえそれが「シスレーが他の印象派画家たちと比べていかに日本では人気がなかったか」の歴史であったとしてもそれはそれで面白いし、第三部との接続もできる。というか、誰もこの展覧会に「セーヌ川の河川工学的説明」なんて求めてないのだ。
とは言え、まぁシスレーの絵が20点、版画を抜かせば18点の油彩画が一気に見られるというのは、シスレーファンとしては目からヨダレ状態以外のなにものでもないことも確かなのである。全て国内所蔵作品のため見知った絵も多かったが、こうしてまとめて見ることで新たに気付いたこともあった。そのことについて書く。
自分はシスレーの魅力にとらわれて以来、その「普通にいい絵」がなぜ特別に自分を魅了するのかを考え続けてきたのだが、本展を見た結果、それはシスレーの絵がある意味において「究極の絵画」だからではないだろうかと思い至った。ナニヲカイワンヤと思われるかもしれないが、つまりこういうことなのである。
まず一枚の絵画を見るとき、その画面内に我々が何を見ているかを考えてみる(※ちなみに絵画のモノとしての側面――誰が描いて、誰が所蔵して、どのくらいの価値があり、現在どのような状況に置かれているかといったような情報――はここでは考慮しない。あくまで「画面内」から受け取る情報に考察の対象を絞る)。するとそこには大きく分けて二つの階層があることに気付く。すなわち「何が描かれているか」と「どう描かれているか」の二層だ。たとえば画面内に台形の図形がひとつ描かれていて、それを「台形の図形」「富士山」「プリン」「跳び箱」などと認識するならば、それは「何が描かれているか」を見ているのだと言える。その上で台形を構成する線の太さや地と図の色彩の違いなどに注意を向けるならば、それは「どう描かれているか」を見ていると言える。「ただの台形の図形が富士山に見える。不思議だ!」とか「美味そうなプリンだなぁ」とか「小学生のころよく跳んだ跳び箱だ。あの頃は良かった…」などと思うのであれば、それは絵における「何が描かれているか」の要素によって快感を得ているのだろう。逆に「線の引き方がダイナミックだ!」とか「台形(富士山)の部分の青色が美しい…」などと思うのであれば、それは絵が「どう描かれているか」の要素に快感を覚えているのだと言ってよいだろう。
西洋における絵画鑑賞の歴史において、この二つの階層は前者に後者が従属するかたちで常にセットで存在していたと考えられる。つまり前者が絵に描かれた内容であり、後者がそれを描いた画家の技量である。まず絵に描かれた内容(モチーフ)があって、その上でその出来栄え(画家の技量)を判断するという順序が普通であっただろう。その逆はなかなか考え難い。あくまで「何が描かれているか」を判断した上で、「どう描かれているか」に対する評価は成り立っていたのだ。
上に挙げた例において、台形の図形が「富士山」や「プリン」や「跳び箱」に見えるのであれば、すなわちそれはイリュージョンである。イリュージョンは西洋絵画を成立させるための基本的なメソッドとして長くその主たる位置を占めてきた。つまり絵画が「どう描かれているか」の評価とは、そのイリュージョンが上手く成立しているかこそがその第一義だったのだ。イリュージョンが成立していない絵、すなわち「何が描かれているか」がわからない絵は、そもそも絵として失敗だったのである。
しかしその歴史は19世紀後半に到って終了する。印象派と呼ばれる一群の画家たちの出現が、絵画鑑賞の歴史に大変革をもたらしたのだ。彼らの描く絵においては、イリュージョンを構成するための要素として常に「何が描かれているか」の下位に置かれていた色彩や筆致が、それ自体の自己主張を始めたのである。印象派の出現以前は絵画を鑑賞する際、画家の筆触を見るためには絵の近くまで歩み寄って画面に顔を近づけ目を凝らしてを確認するのが常であっただろう。その動作はすなわち「細部を確認する」のと同時に「全体を見えなくする=イリュージョンを断ち切る」ことも意味しているのだ。しかし印象派の画家たちが描く絵においては、わざわざ絵に近寄って見なくても画面の全貌を視野に入れたまま画家の筆触を目にすることができるように(あるいは、目にせざるをえなく)なったのである。つまり色彩や筆致が「イリュージョンを形成する」という任務から解放され始めたのだ。
このとき絵画鑑賞には新たな「快感」が生まれる。それは画面に塗られた色彩や筆触自体がもたらす快感である。画面に描かれたイリュージョンを楽しむのではなく、「画面に塗られた絵の具」そのもののが快楽の対象として浮上してきたのだ。その快感要素は以前から存在していたのかもしれないが、常にそれはイリュージョンの形成の下層に置かれ、決して絵画鑑賞の表舞台にしゃしゃり出てくるようなものではなかったのである。それを誰の目にも明らかなものとして顕在化させたのが印象派の画家たちだったのだ。
そしてそれに対応して起こったのが、絵画におけるイリュージョンの衰退なのだ。それは起こるべくして起こったのだろう。なぜならば画面上の筆致(絵の具)の自己主張は、イリュージョンの形成と相反するベクトルを有するからである。画面の上におかれた絵の具自体が快感をもたらすという発見、そして「何が描かれているか」がわからなくなっても絵が成り立つという確信は、やがて世紀を跨ぎ抽象絵画の誕生へと道を開くことになる。絵画の歴史を一変させる大変革がそこで起こったのだ。
それはある意味においては絵画の「進化」だったのであるが、しかしその急進さは旧来通りにイリュージョンによる「何が描かれているか」にこそ絵画の価値基準を見出すものを置いてけぼりにする結果にも繋がったであろう。現代においてさえも「抽象絵画はわからない」「現代絵画はワカラナイ」といった声は決して少数派ではないのだ。かくしてイリュージョンの明快な古き良き絵を愛する絵画愛好者は、美術館の展示室で何が描いてあるのかサッパリワカラナイ現代絵画を前にして「なんで(絵画は)こんなことになってしまったんだろう…」と首をひねることになるのである。
さて、以上のようなことを考えたとき、シスレーはまさに「絵画の楽しみ方」が大きく発展(または分裂)するその岐路のまさにど真ん中にいた画家であると言える。しかし彼はやがては現代絵画へと続いていく道を果敢に切り開いていった同輩たちと違い、その先にある可能性までは追い求めようとはしなかったのだ。むしろ岐路の「ど真ん中」のその地点から動こうとしなかったのである。そのことは進歩や進化をこそ重んじる価値観のもとに、他の印象派の画家たちに比べて長くシスレーの評価を低くする要因となってきた。
しかし「先に進まなかった」ことをマイナスとするのではなく、「そこに留まり続けたこと」をプラスとして見ることはできないだろうか。つまりシスレーは旧来的な「何が描いてあるか(=イリュージョン)」を楽しむ絵画と、新しい絵画の快楽である筆致や絵の具の色彩自体がもたらす快感の双方が均等の力で共存できるギリギリの中間点、すなわち絵画鑑賞におけるもっと快楽度が高いポイントをこそ追求し続けたとも言えるのではないか。実際にシスレーの絵を見ていると、イリュージョンの形成と筆触の独立という二極のベクトルが、どちらか一方に偏ることなく均等のバランスでせめぎ合い、交互に立ち現れるのが認められるのである。イリュージョンと筆致が合体するその臨界点、つまり絵画が生成する不思議の源をこそシスレーは自分の作品の主戦場として定めたのではないのか。
このことと関連して本展を見ていて気が付いたのは、シスレーの絵における点景人物の重要さである。シスレーの絵にはたいてい風景のなかに小さく点景として人物が描かれているのだが、この点景人物が描かれている絵と描かれていない絵ではだいぶ見え方が異なるように思えたのだ。自分は点景人物が描かれている絵のほうが「シスレーらしさ」が感じられてだんぜん好みなのだが、しかしこの点景人物の存在は彼の絵の進歩的な側面(印象派的側面)よりも、むしろ守旧的な側面を象徴するものであるように思われるのである。
そのことを裏付けるように、シスレーの風景画の大半に点景人物が描かれ続けるのに対して、モネの風景画における点景人物は初期の作品こそ多く目に付くが、筆触の大胆さが増すのにしたがって次第に姿を消していき、1890年代以降の作品にはほとんど見られなくなる。さらにセザンヌの風景画にいたっては、わずかな例外を除けば一貫して無人なのである(※レゾネでちゃんと確認したわけではないのだが、とりあえずココで見られる限りではそういう傾向だった)。
この点景人物の扱いの差は、そのままこの三人の画家の急進性の差へと繋がっているように思われる。そして自分はここに印象派の成し遂げた絵画の革新において見過ごされがちなある変化、すなわち「どう描くか」の変化だけではなく「何を描くか」という面における大変化こそが深く関係しているのではないかと考えるのである。
印象派の画家たちが因習的な絵画のモチーフやアトリエに籠っての制作を嫌い、陽光の下で自分が目にしている光景を描くことで絵画の革命を成し遂げたことは有名だ。目の前にある光の変化を捉えるために、画面上における筆致や絵の具の使い方も刷新され、結果的に絵画における「どう描くか」にも大幅な進化をもたらしたであろうことは十分想像できる。
しかしそこで起こった変化は、それだけに留まらないと思われるのだ。その最たる例がモネとセザンヌだろう。印象派の急先鋒であるこの二人の作品は「自分が目にしている光景を描く」ということが、単なる画面上のモチーフの変化といったマイナーチェンジに留まらなかったことをもっともよく示しているのである。
モネの偉業はなんと言っても「自分が見ている光景」を、光の変化をとらえることを軸にやがて「網膜に写る光そのもの」にまでその解釈を進化させていったことだろう。我々はモネの絵を見るとき、描かれる対象以上にそこにモネ自身の「眼(視覚)」を認めるのである。一方そのモネを「眼である」と評したセザンヌは、網膜に映る光学的な情報をさらに超えて、対象や対象を見つめる画家自身の実存的な存在までをも描き出そうとするのだ。つまり彼は「自分が見ている光景」というモチーフを「自分は世界をこのように見ている」ということを表現するまでに深めていったのである。それぞれの個性に違いはあれど、しかしこの二人に共通するのは「目の前にある風景」を手本にしてそのコピーを描こうとするのではなく、それを見る自分自身の「知覚」を描き出そうとしていることなのだ。
一見気付きにくいが、実はそこで大きく変化しているのは絵画の画面内における空間のあり方なのだ。つまり旧来通りの絵画のあり方で「自分が見ている風景」を描くのならば、目の前にある三次元の空間を手本にして、二次元の画面内に「それに似た風景」を描き出すことになる。そのとき画面内には目の前にある三次元空間に似た仮想の空間がイリュージョンによって立ち上がっている。それは別に風景でなくても構わない。石でも人でもリンゴでもなんでもいい。二次元の画面内にイリュージョンによって三次元的な何かが描かれるとき、その「何か」の周囲にはそれを囲む仮想の空間が同時に立ち上がっているのである。その「画面内における仮想の空間」の出現は、遠近法の発明をも遥かに遡るのだ。ラスコーの壁画に描かれた動物たちの周囲にだって、我々はその仮想の空間を認めることができるのである。つまりイリュージョンによって「何が描かれているか」が判別できるものこそが「絵」であった時代において、「絵を描くこと」とはその仮想の空間を画面内に出現させることをも意味したのである。
しかしモネやセザンヌのように画家自身の「知覚」そのものを画面に定着しようとする場合、この構図は崩れるのだ。なぜならば画家自身の内部に属する「知覚そのもの」を“直接”画面に描き出そうとするのならば、画面内に仮の空間を立ち上げるという手順が必要とされなくなるからである。
わかりやすく説明しよう。たとえば富士山を絵に描こうとする。富士山のかたちをイメージして画面内に台形の図を描く。絵を描くものの意識のなかでその台形が富士山(またはその祖型)として意識されているならば、そのとき既に画面内には仮想の空間が立ち上がっている。しかし「富士山を見たときに自分が抱いた感情」を絵にしようとする場合ならばどうするか。たとえばそのときも台形の図形を描いたとして、しかしそれは富士山のかたちをイメージしたものではなく、形を持たない抽象的な感情を表現したものだとする。そのときそれを描いたものの意識のなかでは、描かれた台形の周囲に仮想の空間は立ち上がっていない。そこに描かれているものは自己の外部にある対象の再現(イリュージョン)ではなく、自身の内部にあるものの投影だからだ。すなわちそれを描くためには仮想の空間を画面内に立ち上げる必要がないのである。モネやセザンヌの絵はまだ対象を再現するイリュージョンの要素を多分に残しているが、しかし彼らが自身の「知覚」をこそ描こうとする限り、それを描く彼らの意識はこの後者の領域へと既に大きく踏み込んでいるのだ。
つまり目の前に広がる風景を手本にそれとよく似た風景を画面内に描き出すことと、目の前の風景が「自分にはどう見えているか」や目の前の風景を「自分はどう見ているか」自体を描き出すことでは、外見上の姿はほとんど同じに見えるかもしれないが、その内実はまったくの別物なのである。なぜならばその後者においては画面内に仮想の空間が想起されていない(される必要がない)からだ。故に彼らの絵はどんどん「二次元化」していくのである。
それは絵を見る側においても同じだろう。画家自身の知覚(内面)を画面上に見るのであれば、画面内に構築された仮想の空間はもはやそれほど意味を持たなくなる。その代わりにイリュージョンの構成の任務から解き放たれた色彩や筆致自体が「画家自身に属するもの」として意味を持ち始める。セザンヌに至っては画面の塗り残しまでが意味を持ち出し始める。もはやそれらは画面内に仮想空間を構築するイリュージョン(つまり描かれる対象)の一構成要素に留まらず、画家自身の意思や感情をまでも表しうるものとして独立していくのである。
それはとどのつまり画面内に構築されていた旧来的な絵画の空間が破壊されたことを意味するのだ。「仮想の空間の構築(イリュージョンの発生)」という手順を逃れた絵画の画面空間は、それまでは存在しなかったまったく新しい表現の可能性の場へとバージョンアップされたのである。しかしそれにしても「“印象”派」とは実に正鵠を射たネーミングだったのだ。「印象(知覚)」を画面上に定着しようとする彼らの試みこそが、やがて現代絵画へと続いていく絵画の変革のすべての端緒となったからである。
では、我らがシスレーの場合はどうなのか。印象派の主要メンバーである彼もイーゼルとキャンバスを屋外に持ち出し、同輩たちとともに目の前にある「自分が見ている風景」をモチーフとして絵を描いた。しかし彼はモネやセザンヌのように「知覚」そのものを描き出すというレベルまでには到らなかったのだ。その一歩手前で辛くも踏みとどまったのである。もちろんシスレーの絵にも彼自身の「知覚」を描いていると感じさせる部分は多分にある。印象派特有の大胆な筆致による描写などがまさにそれに当たるだろう。しかしシスレーはモネやセザンヌのようにその先には進もうとはせず、むしろ画面空間を旧来的な「画面内に構築された仮想の空間」へと戻してしまっているように感じるのだ。
そのとき重要な役割を果たすのが、彼の絵のなかの点景人物なのである。シスレーの絵における点景人物は、山水画におけるそれのように画面内に完結した箱庭的空間を生じさせ、アブストラクトな筆致を再びイリュージョンを形成する任務へと押し戻す。この場合の点景人物を中心とした箱庭的空間こそ、まさに旧来的な絵画における「画面内に構築された仮想空間」なのである。シスレーの絵をモネやセザンヌの絵と比べたときに感じられる遅れた感じ、古臭い感じ、革新さの中途半端な感じといったネガティブな印象は、筆致の大胆さの差とともに、この画面内の空間の違いに因っているのだと考えられる。
つまりシスレーの絵における印象派的な大胆な筆致と旧来絵画的な画面空間は、それぞれが絵画の新旧の側面を代表してお互いを抑制し合っているのである。「知覚」自体の表現へと繋がる大胆な筆致は、モネやセザンヌの絵におけるそれのように、アブストラクトへと向かうベクトルを秘めている。しかし箱庭的空間がぎりぎりの地点でそれを押し留め、再びイリュージョンの形成へと向かわせる。そのさまは絵画の進化の歴史の只中で、抽象化へ向かう一歩手前のぎりぎりの中間点にこそ留まろうとするシスレー自身の姿とも重なるのだ。その均衡のど真ん中に留まったからこそ、シスレーの絵は「普通にいい絵(=中庸)」であるのと同時に「究極の絵画」でもありうるのである。そう思って見ていると、シスレーの絵に描かれた点景人物が、画面が抽象化に流れるのをその一点において押し留めている「押しピン」のように見えてくるから面白い。


○「小林耕平展 蓋が開かない、屋根の上の足音」

昨年gallery αMで開催された小林耕平の個展でその時点での彼の最新作《透・明・人・間》を見て、近年の小林作品を見るときに感じさせられてきた「疎外感(=自分だけが置いてけぼりにされ、通じる者だけで会話しているのを外から見せられている感じ)」のようなものが解消され、外部に「開けた」感覚があった…といったようなことを昨年の年末日記に書いた。そしてその次に自分が小林の作品を見たのが今年「アーティスト・ファイル 2015 隣の部屋-日本と韓国の作家たち」展(国立新美術館 7-10月)で展示された大展示室を存分に使った大掛かりな作品だった。しかしこの展示に関しては、部分的には非常に感銘を受けつつも、全体としてはまた以前の「閉じている」印象へと後退しまっているように自分には思われたのだ。
それは次のような作品である。まず小林、山形育弘、伊藤亜紗という小林作品ではレギュラー格のお馴染みのメンバーが、「○○は××である。(○○ is ××.)」という文章(台詞)を尻取り的に作っていく。それらは「山脈は皺である。」「皺とりクリームはタイムマシンである。」「タイムトラベルは土下座の強要である。」といった一見哲学的で意味がありそうにも見える無意味な言葉のオンパレードで、まぁイカニモ小林耕平的なものである。次に小林が日用品などを素材にしてそれらの台詞をモチーフにしたオブジェを作る。これもまぁいつもの展開である。そしてその小林が作ったオブジェを第三者(と言っても小林、山本+関連メンバー)がパフォーマンスによって表現した様子が撮影される。さらに会場に並べられたオブジェを小林、山本、伊藤の三名が解説する映像作品も作られる。インスタレーションとしては展示室に入ってすぐの壁一面に大きな文字で三人が考案した台詞がプリントされ、側面の壁にパフォーマンス映像が、その向い側の壁に解説映像がそれぞれ映写されている。部屋の中央には小林が作ったオブジェが所狭しと並べられている状態で、観客はオブジェのあいだを縫うようにして部屋を行き来し、専用のヘッドフォンで解説動画の音声を聞く。
この作品においてまず気が付くのは、小林が今回は「言葉」をとくにそのテーマとして取り上げていることである。彼はこれまで日用品をナンセンス化しすることでそこから名前(用途)を奪い、モノをそれが名付けられる以前の原知覚的と言っていいような状態へと還元しようとする試みをしてきた(のだと自分は思う)。それがこの作品では「言葉」に対し、彼がこれまでモノに対してしてきたのと同じように、その「意味」をそこから奪い、解体することを目指しているように見えるのである。そう考えると、その「仕組み」は非常によく出来ているのだ。
まず「A is B.という文型」+「尻取り」という制約によって発話者の自由度(意図)を制限し、ナンセンス性を担保している。言葉の定形化は古来より言葉を異化するための定石である。この場合は発話者の意図に基づく「意味」を言葉より引きはがす効果を果たすのだろう。一見遊びやおふざけのように見えるが、このスタートはなかなかよく考えられていると思う(ただしその制約を発話者たちの能力=キャラが突き破っている嫌いはあるのだが、とりあえずここでは措く)。
次にその言葉(台詞)をオブジェによって視覚化する。つまり言葉以外の表現(メディア)に置き換える。モチーフとなる台詞がそのままオブジェ作品のタイトルにもなるため、美術作品における作品とタイトルの関係(の欺瞞?)を照射しているとも言える。さらにそれを第三者がパフォーマンスで表現する。メディアの転換が繰り返されるとともに、第三者による恣意的な解釈が加わり、伝言ゲーム的な効果が増す。それはデマや噂といった言葉の伝達過程におけるの様々なエラーの様相をも思い起こさせる。ここまでは羨ましくなるくらいヌケヌケと「言葉」に対する無意味化が、独創的かつわかりやすいプロセスによって執拗になされている。
しかし最後に発話者三名によるオブジェの解説が入るのは、よくわからない。というか構造として完全に間違っているように思われる。せっかくここまで他メディアへの変換や第三者(とも完全に言い切れないところに問題があるのだが、それはともかくとして)の解釈といったフィルターを通して解体を進めてきた言葉を、なぜまたもとの発話者の「解説」へと戻すのか。そこでなされる解説はいつもの小林作品同様、何を言っているかわからないような一見哲学的だけどナンセンスな台詞を発話者が真顔で喋るというものなのだが、同じナンセンスでもそこには初めの「A is B.という文型」や「尻取り」といった発話者の意思を縛る拘束条件はなく、しかも自分たちが考案した台詞をモチーフにしたオブジェを本人たちがまた言葉で解説しているわけだから、途中のプロセスを経る意味が全て無効化されてしまうのである。結果的に自閉したループ構造がそこに出現し、以前の小林作品に自分が感じ続けていた「意味が分かる者同士がお互いにしか通じない言葉で話している」という「閉じた印象」に戻ってしまっているのだ。
この作品についての説明が、次に取り上げる山本現代での小林の個展のウェブページに載っていたので、少し長めであるが引用する。
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小林の作品では、中心となる主題から漏れて行くもの、また勘違いや「突発的な作り話」が次々に生まれ話しが飛躍していくことなどへ意識が向けられてきました。近年は特に、協力者たちとの「対話」を軸に制作を続けており、現在小林が参加している『アーティスト・ファイル2015 隣の部屋-日本と韓国の作家たち』で発表されている『会話を観る』という映像作品の中では、会場に展示されている『皺とり美容クリームはタイムマシンである』というオブジェを前にcore of bellsの山形氏、伊藤亜紗氏の2人からこのような会話が生まれています。
山形:記憶って、思い出したり忘れたりするっていう言い方もあるんですけども、実はこう引き延ばされ過ぎて全体がわからなくなるっていう、なんかそういう見方もあって、それがタイムトラベルの時間の伸縮と呼応しているんですね。
伊藤:やはり全体を把握するためは、このマニ車を回す必要があったように、角を無くして、丸くすることが重要なんですね。それを、地球について考えてみると、地球の場合はこういう山とか山脈が在るわけで、ここに皺とりクリームをかけてこの山を平らにすることが重要なんです。そうすると地球全体がツルンとした卵肌になって、そこにあるピンポン玉のような 完全な球体が出来上がります。
このように、台詞が台詞を誘発し、前の話者の話しを受けて次々に積み上げられていく嘘とも「でたらめ」ともつかない会話が、違う階層に到達して行く様子は非常にスリリングで、目が離せません。例えばつい「知ったかぶり」をしてしまい、それを必死に続けなければ行けないというような状況で、スピードを持って生まれてくるイメージを小林は“想像することの異常な跳躍力”と考えています。その跳躍の中から“意味”が派生する瞬間、リアリティを感じる瞬間は私たちを魅了します。
(※一部改行とスペースを削除し、句読点を追加した)
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文中における「対話」という語が小林自身から出たのものなのか、あるいは文章を書いた人間の解釈によるものなのかはよくわからないが、少なくとも次のことは言えるだろう。すなわち同じ言葉によるコミュニケーションでも、思想や信仰の異なる者による対話と、同質の者同士のあいだで交わされる「内輪の会話」では、その内容をまったく異にするということである。「対話」としての緊張感を有するのは言うまでもなく前者であり、引用した文章における「対話」という語も、そのような意味において使われているのだろう。しかしこの作品に限らず「協力者」を使った小林作品における最大の問題は、そこでなされる「対話」がむしろ後者のもの、すなわち「仲間同士での仲間内でしか通じない言葉を使った会話(というか、じゃれ合い)」に見えてしまうということにあるのだ。つまり小林と「協力者」たちの会話が高度にナンセンスになればなるほど(つまり彼らの芸が達者になればなるほど)、そこで交わされる言葉の内容よりも、それを発している人間の名前や属性、能力の高さといった点のほうが際立ってしまい、ナンセンスな内容の会話がスムーズに進めば進むほど、発話者たちの同質性(同クラスタ性、お仲間感)を見るものに強く印象付けしまうのである。自分が近年の小林作品を見たときに感じ続けてきた「疎外感」は、まさにそこにこそ由来するのだ。
昨年の《透・明・人・間》は、<1>未だ「内輪」の雰囲気を持たない(芸がこなれてない)外部の参加者を小林と山本が「透明にする」という作品構造、<2>小林自身の手によるものではない腰の据わらない移り気なカメラワーク(つまりそれは「部外者」である観客の視線に同期する)、<3>人通りの多い場所でパフォーマンスを実施することで、その様子を奇異の目で見る周囲の一般人の姿をも画面内に取り込み自分たちの行為を相対化する、などといった要素によって「閉じた」印象を打破し、作品を「外部に開く」ことに成功していたと思うのである。しかし「いつものメンバー」のみによる構成に戻った本作では、それがまたもとの印象へと戻ってしまったのだ。
ただ、ここには単に作者の戦略ミスのみには帰せないある大きな問題も関係しているようにも思われるのである。それは「言葉」そのものが持つ属性の問題だ。この作品において小林は、彼がいつも日用品(モノ)に対してしているように、「言葉」に対して意味の無効化・分解化を試みている(のだと自分は思う)のだが、しかしモノと言葉では、ある決定的な違いがそこにあるのだ。つまり言葉はそれを発した発話者と否応なく結び付いてしまう(結び付けられてしまう)宿命を持っているということなのである。
それが「言葉」の特性なのか、あるいはそれを受け取る人間の側の責任なのかは議論の分かれるところだろうが、少なくとも「言葉」がそのような性向を持ち、そしてそのベクトルから逃れるのが非常に難しいことだけは確かなのだ。言葉の定型化をはじめ、太古より人間はこのベクトルから逃れるための様々な工夫を考案してきた。しかし本質として「言葉」が発話者の意図や属性に照らし合わして「解釈されてしまう」という傾向(宿命)自体は揺るぎないのである。
そしてそれは「言葉」自体の死にも繋がりかねない危険なベクトルでもあるのだ。というのも言葉の内容が発話者の属性によって解釈されるならば、その言葉自体が意味する内容が正しいと感じられる場合でも「誰々が誰それについて言った言葉だから正しくない」といった判断を下されることがまま起こりうるからである。もちろんそれは特別な事でもなんでもなく、言葉をめぐるコミュニケーションとして我々が日常的に行っていることなのだが、その傾向が過ぎると、やがて自分とは異なる思想や信仰をもった人間の発言は全て耳を貸さないといった事態にも発展していくのだ。そのとき「言葉」は機能不全へと陥り、異質な他者を繋ぐための「対話」は途絶える。そして、それはまさに憂慮すべき事態としていまこの世界で起こっていることなのではないだろうか。
自分はこの「隣の部屋」展に出品された小林の作品に、そうした「言葉」の死へと向かう動きに抗うようなベクトルを見る。あの手この手で「言葉」の意味を奪い解体していくその過程は、我々の「言葉」に対する硬直化した思考を解きほぐす。モノの見方を原初状態へと戻してみせるように、「言葉」に対する固定観念をリセットしてひっくり返すかのような作者の試みは、機能不全へと向かう「言葉」を再度蘇生させるためのひとつの実験でもあるように思うのだ。しかしそれならばなおのこと、そこで交わされる会話が発話者たちのパーソナリティや人間関係のレベルの関心へと還元されてしまうような事態は何としても避けなければならない課題であると思うのである。
(備忘録的に書いておけば、同じ「隣の部屋」展に出品されていた百瀬文の作品《定点観測[駐屯地の友人の場合]》がまさにこの言葉と発話主体との関係の問題を扱った作品だった。同じシリーズの前作《定点観測[父の場合]》と異なってその仕掛けが上手く機能しておらず、作品としてはむしろ失敗作の類だと自分は思ったのだが、しかし「いまもっとも新鮮で充実した活動を行っている現代美術家」を扱うことを謳い文句にしている同展にて出品作家の二人――関係があるかわからないが、出品作家のうち当時日本在住だったのがこの二人だった――までが「言葉」の死活に関わる問題をテーマに取り入れていたことに、同時代的な危機感の共有を見た気がしたのである。)
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さて、以上のような問題を自覚してなのかどうかはわからないが、この作品の次に見た(ようやくここからが本題の展示である)「蓋が開かない、屋根の上の足音」展で発表された小林の新作は、協力者を仰がず作者一人の手によるドローイングとオブジェだけで構成されているインスタレーションだったのだ。
それは次のような作品である。まずは紙に青絵の具一色で描かれたドローイングが130枚ほどギャラリーの壁全てに直貼り展示してある。絵柄自体は省略化された記号的なもので、独特の絵心は感じられるものの基本的には匿名化を指向しているように思われる。壁面には小林作品定番の日用品を使ったオブジェもドローング作品の隙間を縫うようにしていくつか展示されている。そして部屋の中央には白木の木材を組み合わせてできたやや大きめの構築物(印象としては川俣正と菅木志雄を足して二で割った後にさらに無意味化させたような外観)が五体置かれている。この白木の構築物(彫刻?)には、壁に貼られたドローイングから選択された図柄がカラー(と言って青一色の線で描かれていたのが、無意味に複数の原色に分解されただけ)で描き直された標識のような板(絵画?)がそれぞれ4〜5枚ほど適当な場所に貼り付けられている。
この作品においても作者の関心は引き続き「言葉」にあるように思われる。というのも壁に貼られた大量のドローイングには、それぞれにタイトルが付けられているからだ。観客はギャラリーのスタッフから「これも作品の一部です」と言って手渡されるリストと照らし合わせながら作品を見ていくことになる。もともとの絵自体がオートマティスム的というか、即興で気の向くままに描かれたのではないかと推測されるランダムな内容のものなのだが、タイトルもおそらく出来上がった絵を見てその場のインスピレーションのみで付けたような一貫性のない適当な印象のものがほとんどである。おそらく意図的にランダム性を生じさせているのだろう、描かれているものそのもののズバリを名指しているタイトルもあれば、複数枚見て初めてわかるタイトル(例えば焚き火の絵が二枚あってその一枚目が《キャンプファイヤー》であるとしたら、煙の立つ方向が逆に描かれた次の絵のタイトルが《風向きが変わった》であったりするような)もあり、絵(イメージ、記号)と言葉の関係に一定の法則や傾向が生じないように注意が払われていることが窺われる。簡素な線だけで描かれた記号的な絵は、言葉が与えられることによってその見え方が一変するものも多い。四角や三角が描かれてるだけの絵が《おでん》だったりとか、画面いっぱいに引かれた半弧が《虹》の場合と《バームクーヘン》の場合に分かれたりとかするのだ。
日用品を素材にした小オブジェと白木の構築物にもちゃんとタイトルがあって、前者のタイトルが《蓋が開かない(+通し番号)》、後者が《屋根の上の足音(+通し番号)》である。後者には添付されたパネル絵の、壁のドローイングに対応するタイトルが副題として添えられている。つまり壁に貼られたドローイングはこのとき辞書というか語彙リストのような役割をも果たしているのである。
展示にはさらにもう一点、青絵の具で描かれたドローイングとは異質な描写の鉛筆画が、他のドローイングとは違いこれだけはちゃんと額装されて部屋の隅のほうに展示されている。作品リストでは★印が付けられ一人特別扱いされていたこの絵には、屋根裏部屋のような部屋の中で男が天井のほうを気にしながら瓶の蓋を開けようとしている様子が描かれているのだが、この作品のタイトルは展覧会タイトルと同じ「蓋が開かない、屋根の上の足音」なのである。つまりこの絵は「蓋が開かない、屋根の上の足音」という言葉から発想されるシチュエーションを具象的なイラストとして描いたものなのだ。
このことに気付くとき、展示室内にある他の作品によるインスタレーションは、それとは異なる方法で同じ「蓋が開かない、屋根の上の足音」という一文を表したものであると理解できる。つまりこの展示では言葉のビジュアル化の複数の方法が提示されているのである。
鉛筆画の具象的なイラストは、いわゆる一般的な「言葉→絵」の方法ではないだろうか。言葉の意味するイメージを旧来的な絵画の手法(イリュージョンの形成)を使って描いているのである。しかしこれを作品とタイトルの関係としてみた場合、あまりに言葉の内容と絵の示すものが一致しすぎていて、具象的な絵柄に相反してむしろ記号的な印象を強く受ける。
壁面に設置された小オブジェは、言葉(タイトル)とビジュアル(オブジェ)との関係が見出しにくいが、むしろ作品とタイトルという関係においては、この在り方のほうが一般的な美術作品のそれに近いかもしれない。思わせぶりなタイトルを付けて意味深を気取る美術作品に対する皮肉とも取れるし、言葉と「それを表すもの」に対する考察を促す装置としても機能しているのかもしれない。オブジェ自体のナンセンスな外観が、言葉によって作品(ビジュアル)の意味を追い求めていくことをやがて馬鹿馬鹿しくさせるような効果も果たしている。。
壁のドローイングのおける言葉と絵の関係は先に述べたとおりである。その対応の仕方は多様であり、対応関係におけるルールの見えなさこそがこの作品における肝要なのかもしれない。
白木の構築物(彫刻)における言葉とビジュアルの関係は複雑である。白木の構築物を「彫刻作品」として見て、そのタイトルを「屋根の上の足音」とするならば、その関係は小オブジェ(《蓋が開かない》)と同じである。しかしここに壁のドローイングからチョイスされたパネル絵が貼り付けられ、そのタイトルを副題として持つことで話はややこしくなる。つまり壁のドローイングを辞書または語彙リストとして見た場合、それに準じた絵と副題(言葉)が付けられた本作は、つまり言葉とビジュアル(絵)に一定のルールを有することになるからである。しかしそのルールの大本となるドローイングによる「語彙リスト」自体が一定の法則を持たずに成り立っているわけで、ならばマッタクのデタラメかと言えば、でもよくよく考えてみれば自分たちが使っている言葉だって大本を辿ればその法則は多様だよなぁなどと思い至ったりして、考えれば考えるほど自分が「何を見ているか」がわからなくなってくる。
しかもこの個展のタイトルが「蓋が開かない、屋根の上の足音」であるように、この展示の全体が「蓋が開かない、屋根の上の足音」という一文をビジュアルとして表しているのだと思い到るとき、なにか「言葉」そのものなかに入ってしまったような、そんな不思議な体感がこのインスタレーションにはあるのだ。この体感ひとつだけとっても本展の特異さは際立っていた。「言葉」の意味を解体し相対化するという点に関しては「隣の部屋」展の出品作と目指されているものは同じである(と思われる)が、協力者が関わっていない本作では発話者のパーソナリティへと言葉が還元されてしまうこともなく、見事にその試みは成功していたように思われる。
ただ、ここから先はもはや言い掛かりに近くなってしまうのだが、確かに素晴らしくよく出来た作品なのであるが、なんだかちょっとよく出来過ぎているような気もしたのである。もしかすると、これもまた「言葉」の属性に関わる問題なのかもしれない。《透・明・人・間》の「外部」の雑多な要素を取り込みながらも独自な表現として強烈に成立していたさまに比べて、本作のあまりにもスマートに自己完結した佇まいが、言葉における「閉じた」在り様(たとえば暗号、隠語、業界用語など)とどこか重なるような印象も受けたのである。本来ならばその完成度の高さといいテーマの持つ自分の関心との共鳴度といい当然今年もっとも印象に残った展覧会のひとつに選んでしかるべき展覧会ではあるのだが、その僅かに残った「引っかかる」感覚について記録しておく意味も込めて敢えて十選からは外した。


○「鴻池朋子展 根源的暴力」

自分が鴻池朋子の作品に魅かれるポイントはただ一点、個人の能力の限界を超えたような作家としてのスケールの大きさである。もちろん「スケールの大きな作家」ならば他にもたくさんいる。しかし作品において感じられる「個人の力」の大きさにおいて測れば、鴻池はその最大のスケールを持った作家の一人ではないだろうか。
初めは「絵描き」としてのそのスケールの巨大さに驚かされたのだが、2009年に東京オペラシティアートギャラリーで開催された個展「インタートラベラー 神話と遊ぶ人」では、「作家自身の手」の感触を残しつつも美術館の広大な空間をほぼ完璧に自分の世界へと変貌させてしまう稀有な美術作家へとその認識をスケールアップさせられたのだった。
自分が鴻池の展示を見るのは実にその「インタートラベラー 」以来である。その間に2011年の東日本大震災があり、それを契機に鴻池の制作も激変したといった話も事前に耳にしていた。しかし展示を見た結果から先に言えば、この作家に対する自分の認識はほとんど変わらなかったのである。自分にとってはこの展覧会は正しく「インタートラベラー 」から六年後の鴻池朋子の巨大個展だったのだ。
確かに制作手法や使用する素材などは変わったのだろうが、広大な空間を自分の世界に変容させる手腕はまったく変わっていない。おそらく素材の使い方にとりわけ長けているのだろう。絵(水彩、鉛筆、クレヨン、版画…)、立体、文字、革、布、陶器、セロハン、色、光、影…、展示会場をひとつの作品として見立てたとき、そうした要素のひとつひとつの使い方が実に的確なのだ。素材に対する感覚から直感的に発想しているのではないかと思うのだが、ベニア板に映写した映像の効果などは、映像を専門とする作家の展示でもなかなか見かけないレベルのものだったのではないだろうか。正直言って個々の作品やその世界観は自分の好みからは遠いし、展示も「でもこれってちょっとテーマパークっぽい雰囲気なのかも…」と思った瞬間にちょっと萎えかかったのも事実なのだが、それでもなおかつ自分が魅かれる部分があるのは「作家自身の手」をこの大展示のなかに未だ感じられるからなのだろう。そしてどんなに「他人の手」を作品に取り込もうとも、どんなに芸術家としての自己を共同体へと埋没させようとしても、結果的に千年に一度の大災害だろうがなんだろうが全て自分の制作を「正しく推進させる力」として取り込んでしまっているようにしか見えないその作家の「業」の深さに、もっとも強く感銘を受けたのである。



●「速水御舟とその周辺 大正期日本画の俊英たち」

ほとんど代表作がない速水御舟展…のわりには、途中まではかなり印象が良かった。冒頭にある《洛北修学院村》は凄くいい絵でこれをピックアップした展示はとても良かったし、なによりもこの手の展覧会では埋め草になりがちな「その周辺」である御舟以外の画家たちの絵が皆粒揃いなのだ。「“大正期日本画の俊英たち”のレベルたけぇ〜、次はなにが来るんだ?」とワクワクしながら入った最終展示室ですべてが暗転する。観客としての自分のこの時点での状況を説明すれば、量的な満足度としてはだいたい腹6〜7分目くらいの感触である。そして最終展示室がそれなりの広さを持つ部屋であることも知っている。当然最後にはなにがあるのだろうと期待して入ったわけだが、そこで自分を待っていたのは「大正期日本画の俊英」でもなんでもない御舟の二人の「弟子」の展示だったのだ。
はたしてこの展覧会の構成において、「大正期日本画の俊英たち」と比べても破格のスペースを割いてこの「弟子たち」の作品を特別扱いする意味はイッタイどこにあったのか。いわんや御舟は弟子を取るのに積極的でなかったという解説がその直前にあるにも関わらずである。もちろんこの二人の作品が「大正期日本画の俊英たち」に匹敵するほど素晴らしいのであればまだしも意味はあるだろうが、いったいこの展覧会を見たものの何人が「匹敵する!」と言って頷くのか。あまりの不可解さに裏に「大人の事情」でもあるのではないかと勘繰ってしまい、なにかとても「嫌なもの」を見せられたような後味の悪さだけが残ったのだった。


●「すごいぞ、これは!」

この展覧会のなにが酷いかと言って、まずこのタイトルである。しかし一言に「酷いタイトル」と言ってもその「酷さ」には様々な種類がある。
そもそもエイブル・アート(日本における福祉の現場を中核としたアール・ブリュット=アウトサイダー・アート)系の展覧会は「タイトルが酷い」という一種の伝統のようなものがある。しかしこの場合における「酷い」はすなわち「イケてない(ぎこちない)」ということであり、もっと具体的に言えば「面白くなさそう」ということなのである。自分が見たもののなかからを思いつくままに挙げるならば、まず生涯ベスト展の一つにまでなった「このアートで元気になる~エイブル・アート'99」(東京都美術館 1999年)から始まって、「21世紀アートのエネルギーを見る」(O美術館、横浜ポートサイドギャラリー 2001年)もそうだったし、「スーパーピュア展」(横浜市民ギャラリーあざみ野 2013年)なんかはまさにだし、「生きるための表現」(東京都美術館 2012年)だってその範疇に入るだろう。どれも皆今でも鮮明にも記憶に残る素晴らしい内容のものばかりだったのであるが、そのタイトルの微妙さもまた別の意味で忘れがたいのである。しかし思うに、このエイブル・アート系展覧会におけるタイトルと内容の反比例の関係には、なにか理由があるのではないだろうか。というのもそれらのタイトルの「ぎこちない感じ」には、ある共通したトーンが感じられるからだ。言ってみればそれは「正確に言い当てようとさんざん悩んだ末に、結局言い当てられずにズレてしまった感じ」である。つまりテキトーに考えて酷いタイトルになったのではなく、正確に「言い当てる」ことにこだわったがゆえに結果的に微妙なタイトルになってしまったというような苦労の痕跡がそこには感じられるのだ。実際に展示を見た後だと、とくにその感覚がよく伝わってくる。
そもそも「カッコ良くてそれっぽいタイトル」なんて付けようと思えばいくらでも付けられるのだ。実際カッコだけでほとんど意味をなさないようなタイトルの展覧会ならば、掃いて捨てるほど世の中に溢れている。故にエイブル・アート系展名の「ぎこちなさ」が突出し、それが目印になって展覧会の識別に役立っているという効果もあるのだが、まぁそれは予期せぬものだろう。そういえばいまふと思い出したが、エイブル・アート系の展覧会でカッコ良くてそれっぽいタイトルと言えば「KALEIDOSCOPE〈万華鏡〉」(世田谷美術館 2003年)なんかがそれに当るのかもしれない。しかしそこで凄い作品を見たという漠然とした記憶はあるものの、上に挙げた「ぎこちない」タイトルの展覧会に比べて「KALEIDOSCOPE〈万華鏡〉」展自体の印象が自分のなかでほとんど消えかかってしまっているのは、やはりその「ぎこちなさ」のなかに展覧会の内容とも関連するそれを付けた人間の「深く悩んだ痕跡」が刻まれているからではないだろうか。
では、なぜことエイブル・アート系の展覧会に限って、そんなにもタイトルを付けるのが難しくなるのか。そこにこのジャンルにまつわる問題の本質が隠されているような気がする。というのも、これは昨年末の日記に書いたことだが、自分が過去に見てきた素晴らしいアール・ブリュット=アウトサイダー・アート=エイブル・アートの展覧会には共通して、それをオーガナイズする側の「葛藤」の痕跡のようなものが展示のどこかに感じることができたからなのである。その葛藤とは言い換えれば「これらの表現をこうしたかたちで取り扱うことがはたして本当に正しいことなのか?」という自問なのだ。その葛藤を経た結果、一周まわって展示へと至っているのだという痕跡、つまり選ぶ側に立ったものの「覚悟」こそが、自分が感銘を受けたアール・ブリュット系展覧会に共通する特徴だったのである。
ではなぜ「葛藤」やそれを経た「覚悟」が必要となるのか。これも昨年の年末日記に書いたことの繰り返しになるが、簡単に言えば、芸術表現をなすことと、それを「芸術」として評価することが、まるで違った位相にあるからなのである。たとえば福祉の現場で芸術表現が治療の一環として取り入れられ、そのことが本人やその周りにいる人々をハッピーにするならば、それは文句なしに「よいこと」であると言えよう。それは太古から続く芸術のよい側面の一つであり、そこに「葛藤」が入り込む余地はない。しかしそこでなされた表現を「芸術作品」として評価するかどうかとなると、話はまったく変わってくる。なぜなら「作品」の評価には、差別と搾取が逃れがたく付き纏うからである。差別のない評価などあり得ないし、価値の生じるところにはすべからく搾取の問題が潜む。つまりある表現を「芸術」として評価するということは、そこで起こる差別や搾取の可能性をも受け入れることを意味するのだ。
さらにアール・ブリュット系の表現にはもうひとつの「差別」の問題が付け加わる。つまり障害やハンディキャップを持つ人々の芸術表現を、「障害」や「ハンディキャップ」を理由に「芸術」のサブジャンルのひとつとして名指しし区別することは、それ自体が差別になってしまう可能性を持つのである。そのジャンル名がアール・ブリュット、アウトサイダー・アート、エイブル・アート…とひとつに定着せずに無限に増殖し続けていくのも、その問題と関わっているのだろう。一昔前はそれでも「アウトサイダー・アート」の名称が主流で、意味的にも一番それがアケスケでわかりやすいと思うのだが、最近は日本人になじみの薄いフランス語である「アール・ブリュット(生の芸術)」が積極的に使われるようになってきている。これなどもおそらく「意識の高まり」の結果なのだろう。しかしどんなに言い換えてみてもこのジャンルが、名付けた瞬間にそれが差別になってしまうような危うい構図のもとに成り立っているという事実には変わりがないのである。
ならばいっそ区別することをやめてしまえばいい!という考え方もあるだろう。先に挙げた展示のなかでは「21世紀アートのエネルギーを見る」がまさに障害をもったアーティストとそうでないアーティストを均等に扱おうとする展覧会の先駆だったし、あるいは先に別項で挙げた公募展の「ポコラート」も応募資格として障害をもった人もそうでない人も参加できるということを謳っている。しかしこの種の試みでは、かえって(つまり作家のバックグラウンドについて知らなくても)目で見ただけでわかる明確な「違い」が彼らの表現にあることが顕わになる場合が多いのである。そしてその「違い」こそが我々がアール・ブリュットの表現に「すごいぞ、これは!」と驚くそもそもの初めであり、アール・ブリュットをアール・ブリュットたらしめている所以でもあるのだ。
その明らかに目で見てわかる「違い」を持つアール・ブリュットの表現のほとんどが「障害やハンディキャップを持つ人」や「正規の美術教育を受けていない人」によってなされたものであるため、結果的にそれがアール・ブリュットの定義としても使用されているわけだが、しかしここで難しいのは、障害を持つ人や正規の美術教育を受けていない人による表現すべてがアール・ブリュットの表現たりえるわけではないということなのである。さらにそれが「芸術作品」として美術館で展示されるべきレベルにまで到ったものともなれば、さらにそのうちの一握りであろう。ここに「芸術」の差別性との齟齬と、このジャンルの定義の難しさの本質があるのだ。
そしてさらに問題を複雑にするのは、「障害を持つ・・・」や「正規の美術教育を受けていない・・・」といった条件が、アール・ブリュットの作品の評価にまったく関わっていないわけではないということなのである。アール・ブリュットの作家とそうでない作家の区別を取り払おうとする試みは、作者のバックグラウンドに関係なく同一の価値基準で作品は評価されるべきだという理念に基づくものなのだろう。しかしそもそも「作者のバックグラウンドにまったく思いを到らせずに、その表現だけを評価する」ということ自体が絵空事というか、欺瞞なのだ。つまり「作者のバックグラウンド」は既存の「芸術」においても、作品の評価の確たる一部分を占めているのである。それは自分自身が作品を鑑賞・評価する際の心境に思いを致せばすぐにわかることだ。アール・ブリュットの場合は、社会的にマイノリティの立場にある作者が「勝手に作った」表現が、専門の訓練や高等教育を受けた既存の芸術家たちをも脅かすほどの芸術作品になりうるという事実に、我々は痛快さを感じたり、あるいは人間の潜在能力の不思議さを見たりするのである。
公平性を目指すこと自体はよいことなのかもしれないが、「芸術」の評価にやはり「差別」は付き物なのだ。それがまったくないかのように振る舞うことは、逆により深刻な差別にも繋がりかねないのである。たとえばここにAとBという二つの作品があって、その表現を「同一の価値基準」に照らし合わせてみたとき、あきらかにAのほうがBよりも劣っているにも関わらず不相応に「評価」されているとする。もしそのときAの作者が障害者でありBの作者はそうでないとしたらどうなるか。昨年末の日記に書いたダウン症の患者が描いた「抽象表現主義絵画っぽい絵画」が「動物が描いた絵」に見えてしまった瞬間の戦慄とは、すなわちそのことを意味しているのだ。
その意味ではアール・ブリュットの表現の評価が、「アール・ブリュット」以下様々に考案されるサブジャンル名のもとに(つまり留保付きで)評価されるのもやむを得ない側面はあるのかもしれない。「芸術」の概念の外で生まれたにも関わらず既存の芸術以上に「芸術」を感じさせる表現であるアール・ブリュットは、「芸術」を相対化し、その原初形態を顕かにするものとして機能するが、同時にその差別性も必要以上にむき出しにしてしまうのである。しかし新規に考案したサブジャンルのなかに押し込めておくことは、そのサブジャンルのゲットー化にも繋がり、それ自体が差別になってしまう。結局どの方向に向かっても差別の危険からは逃れられないのだ。
つまりアール・ブリュットの表現に魅せられそれを世に問おうと思うものは、差別があることが前提である「芸術」に、もともと差別を受けやすい立場にある人間の(しかも多くの場合、他人に見せることを前提にせずになされた)表現を投げ入れなければならないという困難へとすべからく直面することになるのである。優れたアール・ブリュット展が、表面上はどんなにが明るく能天気に見えようとも、その底にそれを選ぶ側に立ったものの葛藤とそれを経たのちの覚悟が感じられるのも理の当然なのだ。逆に言えば、その慎重さや繊細さに欠けた(つまり主催する側の想像力に欠けた)アール・ブリュット展ほど「酷い」展覧会もこの世にないのである。
*

さて、ようやくここから本題の展覧会に入るのだが、ではこの「すごいぞ、これは!」展は以上のような問題にどのような姿勢で臨んでいたのか。
まず気付くのは、タイトルをはじめチラシの表面やポスター、看板などといった目立つ部分にアール・ブリュット、アウトサイダー・アート、エイブル・アート…といった類の名称が一切見当たらないことである。つまりこの展覧会では、そこで扱う表現を意識的に特定のジャンルとして区別することは避けているのだと推測される。そこに「区別すること自体が差別になる」という問題意識と慎重さを認めることはできるだろう。ならばこの時点ではまだタイトルの「すごいぞ、これは!」も、そのような配慮と問題意識の上で付けられたものとして一応の納得はできる。ただ、実際にどういった基準で「すごい!」ものが選ばれたのかがわかりにくいという難点は残る。
この展覧会が実際には「障害者の優れたアート作品」についての調査をもとに企画されたものであることは、チラシの裏面まで読み進んだところでようやく判明する。公式サイトにも載せられているその文章を以下に引用してみる。
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 近年、障害のある作家が制作した作品が日本でのみならず、世界でも大きな注目を集めています。ハンディキャップがあり、また専門の美術教育を受けていないにも関わらず、「創りたいものを創りたいように創る」作家たちから、何物にも代えがたい魅力を放つ作品が現在どんどん生まれてきています。それらの作品は、思いもよらない視点のとりかたや素材の選択、繰り返し描かれるモチーフへの強いこだわり、奔放な想像力で見るひとを驚かせます。障害があるということは、アートに関して言うならば傑出した才能に恵まれているということでもあるのです。
 この展覧会は、「文化庁 平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業」として文化庁と、埼玉県立近代美術館に事務局を置く「心揺さぶるアート事業実行委員会」が実施するものです。平成26年度に実施した「障害者の優れたアート作品」についての調査をもとに、全国の美術館学芸員や美術の専門家が「すごい」と推薦する12名のアーティストたちの作品が一堂に会します。

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チラシの表面に比べて、さすがにここでは展覧会の詳細がわかる説明がなされている。しかしそれでもなお「ぼやかされている」という印象は残る。“「障害者の優れたアート作品」についての調査をもとに”とあるにも関わらず、“専門の美術教育を受けていないにも関わらず、「創りたいものを創りたいように創る」作家たち”という表現が前半にあって、扱う作家の対象は「障害者」だけでなく、広くアール・ブリュット全般の定義にまで及んでいるようにも受け取れる。穿った見方をすれば後半の「この展覧会は」以降の文章がこの展覧会の説明で、前半部分は近年の一般的な状況の説明であるとも解釈できるが、なんにしても「ぼやかそうとしている」という印象に変わりはない。そしてここからは「区別すること自体が差別になるという問題意識」よりも、どちらかというと「誤魔化している」ような印象を受けてしまう。ここまで対象をぼかす必要があるのだろうか、という疑問はどうしてもわく。過剰に「隠す」こともまた差別に繋がるという問題意識が欠けているのではないかという印象を、この「ぼやかし」からは感じ取れてしまうのだ。
しかしこの文章で一番目を引くのは、文章全体の「ぼやかし」感を掻き消すような「障害があるということは、アートに関して言うならば傑出した才能に恵まれているということでもあるのです。」の一文だろう。自分が過去に見てきたアール・ブリュット系の展示ではここまで率直というか、大胆な言い切りや物言いはあまり目にした記憶がない。しかしその率直さや大胆さにはポジティブな印象は受けない。もっとも繊細に扱われるべき部分が、あまりにも粗雑に単純化されしまっているように響くのである。アール・ブリュットに対する問題意識が深ければ深いほど、たとえ似たようなことを考えたとしても、こうした雑なかたちの物言いにはしないのではないだろうか。この一文からは「障害」だけでなく「アート」に対する考えの浅さのようなものまでが感じられてしまう。
この説明文を読んだ時点で「すごいぞ、これは!」という展覧会タイトルにも一気に暗雲が立ち込めはじめる。「すごいぞ、これは!」という言葉自体に含まれる粗雑さが、この展覧会の説明文から受ける「問題意識が低いのでは?」という疑惑の印象と重なり、さらにそれを助長しているように感じられてしまうのである。そして実際に展覧会を見た結果から言えば、そのタイトルから受ける粗雑な印象(具体的に言えば「すごいぞ、これは!」で終わってしまい、その先にある問題に対して思考停止しているような印象)は、そのまま展示内容の粗雑さとも見事に重なっていたのである。
先にことわっておくと、この展覧会に「すごいぞ、これは!」と思うような作品がなかったのかと言えば、確かにそれはあった。その意味ではタイトルに偽りはなかったのだ。しかしそれがまったく些末的なことのように思われてしまうまでに、タイトルから受ける雑な印象と展覧会の「つくり」の無神経さが強力にシンクロしていたのである。
おそらく諸悪の根源はこの「全国の美術館学芸員や美術の専門家が“すごい”と推薦するアーティストの作品を紹介する」という枠組みにこそあったのだと思われる。はたしてこの方式は本当にこの展覧会の枠組みとして適当だったのか? カタログに掲載されていた文章にはこの方式をVOCA展に準える記述(ちなみにその個所を読んだとき自分の頭には「さればそれはよき例どもかや…」という平家物語の一節が浮かんだのが、それはともかく)があったが、VOCA展の方式がそのままアール・ブリュットの展示に適応できるのか悩んだ形跡も感じられない。むしろ「VOCAでやってるんだから、コッチでもこの方式でいいんじゃないか」と考えなしに導入されたようにすら見えた。
VOCA方式との相性の悪さは、会場のあちらこちらで感じることができる。たとえば推薦者の一人が「敢えて」と断ったうえで「正規の美術教育を受けている作家」を例外的に選んでいるのだが(VOCA方式だとだいたいこうやって敢えて正道から外れるような奇を衒った選択をする輩が出てくるものだが、それはともかく)、そこで選ばれている作品が自分には「一見アール・ブリュット風に見えるものの、実際はそうではない作品」の典型のように見えてしまったのである。この展覧会の主たる選択基準になっているらしい「障害を持つ」の条件にこの作家が当て嵌まるのかどうかはわからないが、少なくともその作品の執拗な描写からはアール・ブリュット特有の「狂気」のようなものは感じられず、むしろ最近のファイン・アート系の作家のなかにもよく見かけるスタイルのひとつのように自分には見えた。このような展覧会において敢えて定義に抗うような選択をするのならば、それは当然その定義や枠組み自体を見直させるような効果をこそが求められるべきだろう。しかし実際になされているのは単に「まぎらわしい」だけの選択であり、その「まぎらわしさ」もジャンルの定義を疑わせるような方向には全然向かわずに、ただ「この推薦者はわかってないんじゃないか?」という疑念を残すのみで終わっているのである。これがVOCA展ならば、たとえ一人の推薦者が「微妙な選択」をしたところでそれが展覧会全体に及ぼす影響は限定的であろう。しかしこの展覧会ではそうはいかない。つまり一人の推薦者への疑義は、引いては推薦者の人選、すなわちこの展覧会自体を統括する責任者の不在、または無能さを印象付けてしまうからだ。
つまりなぜVOCA方式がアール・ブリュット系展覧会と相性が悪いのかと言えば、責任所在が曖昧になってしまうからなのである。先に書いたとおりエイブル・アート=アウトサイダー・アート=アール・ブリュット系の展覧会を成り立たせるものは、葛藤の上にも「それでも自分の責任でこの表現を作品として展示しよう」という選ぶ側の覚悟である。その「覚悟」こそがその展覧会を成立させるための「土台」となるのだ。なぜならばアール・ブリュットにおいてそれ以外の「基準」はないからである。もちろん本展においても個々の作家の選択にはそれを選ぶ側の覚悟が潜んでいたのかもしれない。先の推薦者の選択にだってなにか大きな意味が込められていたのかもしれないのだ。しかしそもそも出品作家の選択条件すら曖昧にされたままのこの展覧会において、観客はどうやってその「覚悟」を判断すればいいのか。土台のないところで「土台」の意味を問うようなカードを出されたとしても、空回りするのは当然なのである。つまり展覧会全体を総括する責任主体が見えないことは、アール・ブリュット系の展覧会としては致命的なのだ。
そしてそれをよく象徴するのが、あのスペースを均等に割り振ったブース型展示であろう。どこにも明文化されてはいないが、アール・ブリュット系の展覧会において作品を「可能な限り最適な状態で展示すること」は、ジャンルの特質から考えても絶対条件だと思う。つまりそれこそが選ぶ側の責任であり、覚悟の表れなのである。実際に自分が見てきた優れたアール・ブリュット系の展覧会において「作品を最適な状態で見せなければ!」という主催者の気概を展示から感じ取れなかったことは一度たりとももなかった。どんな展覧会でも作品を最適な状態で見せたいと思うのは展示する側の心情としては当然だろうが、ことアール・ブリュット系の展示ではジャンルの構造としてそれが顕著に表れるのである。もちろん本展においても各ブース内においては、その気持ちが示されていたのかもしれない。しかし大枠自体の無神経さが、それを掻き消してあまりあったのだ。そもそもブース型の展示は考えるまでもなく「個々の作品をそれぞれに最適な状態で見せる」こととは真逆のベクトルに作用するものなのである。にも関わらずなぜ本展においてブース型展示が選択されるかといえば、つまりはVOCA展のようなコンペでは不可欠な「平等」を目指したからだろう。言うまでもなく「平等」が目指されるのは差別が生じる余地がそこにあるからであり、深い考えもなく「平等」を目指してブース型展示を採用しているように見えるさまは、アール・ブリュット系の表現を「差別」の文脈(「芸術」や「作品」)へと、何の考えもなしにホイホイ投げ込んでいる姿へとオーバーラップするのである。
それら大枠の無神経を内部から食い破るような要素が細部において見られなかったわけではない。たとえば前山裕司氏が選んだアール・ブリュットにおける(そして広くは芸術全般にわたる)「作品」の概念そのものへの問いかけを含んだ杉浦篤の「作品」や、近藤由紀氏が選んだ作家阿部恵子が推薦者が思い描いていたのとはまったく違う出品してきたというエピソードなどは、大枠を揺るがす反転要素としての可能性を垣間見せていたように思う。しかしそれさえも掻き消してしまうほど、展覧会の大枠が粗雑に過ぎたのだ。
そしてそのとき「すごいぞ、これは!」という本展のタイトルは、その「粗雑」という印象を加速するベクトルで働いてしまうのである。本来は「障害者のアート」を全面に出さない配慮や「平等性」を目指す上での命名だったのかもしれないが、その言葉自体に含まれる粗雑なニュアンスが展覧会の枠組みの「無神経さ」と見事にシンクロして、細部にはあったかもしれない覚悟や繊細さをすべて吹き飛ばしてしまっていたのだ。自分が本展のタイトルを最悪に「酷いタイトル」と考える理由は、まさにそのことによる。
それにしてもなぜこんなことになってしまったのかと考えるときに、思い当たるのは本展が「文化庁平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業」として企画されたということである。つまり本展で感じた思考停止の部分のほとんどが、このことを理由にした「棚上げ」によるものではないかと推測されるのだ。つまり枠組みは先にあるのだから、それについては考えないでいいやという思考の「棚上げ」である。アール・ブリュットを支えるのはそれを選ぶ側の覚悟であり、先行する枠組みに依存して思考停止したアール・ブリュットほど危ういものはない。そしてこれが国を挙げての「戦略的芸術文化創造推進」の結果なのだとしたら、マッタクモッテ自分には暗い未来しか想像できないのである。



結局今年も年末に一年分の日記をまとめてつけるようなかたちになってしまった。。。それでも年の前半に何本か書いておいたおかげで多少は楽だったかもしれない。
来年も今年同様(今年以上に?)展覧会鑑賞は省エネモードでの運行になると思うが、できればもう少しまめにこのブログも書いていきたいものである(毎年言ってるけど)。
posted by 3 at 17:35| 日記

2015年04月29日

マグリットのタイトル〜「マグリット展」を見ての覚え書き

 先日国立新美術館で見たマグリット展は、自分にとっては生涯三度目の「マグリット展」だったのだが(一度目は1988年の東京国立近代美術館、二度目は2002年にBunkamuraザ・ミュージアムで。1994年の巡回展は見逃している)、そこで受けた感銘の大きさは過去の二回を遥かに超え、衝撃と形容できるほどのものだった。
 もちろん単純に展示内容が素晴らしかったということもあるのだが、それに加えて個人的なタイミングもそこには関係していたのだと思う。というのも、最近(というかここ何年かずっと)自分は「絵」と「言葉」の関係について考え続けているのだが、およそマグリットほどこの問題について深く考え抜いた画家も他にいないように思われるからである。

 今回の展示を見ていて思ったのは「マグリットの作品は“詩”なのではないか?」ということだった。それは何の根拠にも基づかない単なる「直感」だったのだが、基本的に自分は直感を無視しないよう日ごろから努めている。もちろんそこには「“詩”とはなにか?」いう大問題が潜んでいるわけだが、とりあえずそれは棚上げにしたまま、ここでは「詩」をキーワードに、その直感について検証してみたいと思う。


 以前「世界で一番タイトルを付けるのが上手い画家は誰だろう?」といったことを戯れに考えてみたことがある。頭の片隅でボンヤリと幾人かの巨匠の名前を思い浮かべた結果、「とりあえずクレーがダントツかな〜」と結論付けようとしたとき、「そーいえばアイツがいた!」と思い出した作家がいる。他でもないマグリットだ。
 しかし、いざ「タイトルを付けるのが一番上手い画家選手権」の王座を巡ってこの二人を決勝の場で対峙させてみると、なんだかどうも落ち着きが悪いのだ。クレーのタイトルの絶妙さは別次元のものだが、しかしタイトルの付け方や上手い下手の基準は一般の画家とそれほど変わらない気がする。それに対してマグリットの場合は、「ルール」が異なるというか、そもそも構造的に作品における絵とタイトルの関係が他の作家たちとは違っているような気がするのである。
 たとえばクレーの絵のタイトルの場合、完成された絵に対して無数の選択肢のなかから一番「ぴったり」なものが選ばれた、という感覚がある。だからもしその絵に別のタイトルを付けても、オリジナルのタイトルが「もっといいタイトル」として潜在的にその絵のなかに存在し続けるように思える。つまりどんなタイトルが付けられても、作品自体の本質は変わらないのである。この場合の「タイトル付け」のポイントは、その最上の選択肢をいかに上手く「言い当てる」かどうかにかかっている。クレーはそれが世界チャンピオン級に巧みなのである。
 しかしマグリットの場合、絵とタイトルの関係はもっと不安定だ。もちろんマグリットの作品もクレーの作品と同様に「もっとも相応しいタイトル」が付けられているという感覚はある。しかしクレーと異なるのは、マグリットの絵の場合は、別のタイトルが付けられたら、そこで作品の本質自体が変質してしまうような気がするのである。タイトルを付けることによって作品の本質が変質するのならば、タイトルが選択されるまではその作品の本質を射抜く「もっとも相応しいタイトル」はこの世に存在しないことになる。なぞなぞの問いに先行して答えが存在しえないのと同じである。つまり「もっとも相応しいタイトル」がクレーの作品は絵に内在されているように感じるのに対し、マグリットの場合は絵とタイトルの「関係」のなかにこそ「もっとも相応しいタイトル」を決定する条件が存在しているように思うのだ。言い換えれば、「作品」の成立の条件がクレーとマグリットでは異なるのである
 この二人を「タイトル付け選手権」の決勝の場で並べてみたときに「ルール」が違うと感じるのは、そのためだろう。つまりどちらの作品においてもタイトルが非常に重要な意味を持つという点では一致するが、その選択のスキルは異なるように思われるのである。

 ここではマグリットの作品を「詩」だと感じた自分の直感を検証しようとしているわけだが、一般的に「詩」のイメージと強く結びついているのは、むしろクレーのほうだろう。「詩情」はクレーの作品を形容する際に使われる月並みなキーワードである。自分もクレーの作品、とくにその絵とタイトルとの結びつきの効果には「詩」を感じるし、そこから受ける感覚を形容するためには「詩情豊か」といった表現を特に深く悩むことなく使うことだろう。
 しかしクレーの作品から感じる「詩」と、マグリットの作品に感じた「詩」が同じものかと問われると、う〜〜んと詰まってしまう。同じ人間が同じ言葉を使って形容しているのだから当然そこには同じ感覚があってしかるべきはずなのだが、しかしなにか根本的な部分で異なるものがあるようにも感じる。その「違い」の感覚は、二人のタイトルの付け方の「絶妙さ」の違いとどこかで結びついている気がする。
 したがって、まずは比較のために、クレーの絵とタイトルの組み合わせから感じる「詩」について考えてみることにする。

 クレーが言葉のセンスにおいて詩的な才能に長けていたことは、作品リストのタイトルだけを眺めていても窺い知ることができる。しかしそれらのタイトルは、絵をそっちのけにしてドヤ顔で自己主張するような仰々しいものではない。もっと自然に絵に寄り添って、それでいて言葉自体からも詩的な響きが感じられるような、さりげないが洗練されたタイトルなのだ。
 しかしクレーの作品における「詩」の発露は、絵とタイトルが組み合わされたときにこそ初めてその真価を発揮するのだと言える。そのことはタイトル単体だけでは直ちには詩情には繋がらないようなごくシンプルな題の作品について見れば理解できる。
 ≪赤い風船≫、≪野いちご≫、≪戸棚≫、≪猫と鳥≫、≪赤と白の丸屋根≫、≪本道と脇道≫、≪征服者≫、≪島≫、≪大聖堂≫、≪大天使≫、いずれもクレーの絵のタイトルだが、これらのタイトルが付けられ、その効果によって「詩」を感じさせる絵は、やはり限定されるだろう。たとえば古典的な技法でリアルに描いた大聖堂や天使の絵が「大聖堂」、「大天使」と題されていても、そのことによって「詩」を感じるようになるといったことはまず起こりえないのだ。なぜならばそれは説明のための「名札」と変わらないからである。
 しかしこれらの単体ではなんでもない言葉も、クレーの絵のタイトルになると、途端に「詩」を感じさせるものへと変化するのだ。つまり絵と言葉が結びつくことによって、そこでナニカが起こるのである。それは単なる詩的なイメージと詩的な言葉の組み合わせによる足し算的な効果ではない、融合と生成を生じさせる激しい化学反応のようなものがそこで生じるのである。

 その「化学反応」が生じる秘密には、クレーの絵の抽象性が深く関係しているように思われる。クレーの絵は19世紀以前の西洋絵画に比べれば格段に抽象性の高いものだが、しかし完全なる抽象画はむしろ少数派で、その多くはなんらかの具象的な形態を画面に残している。
 そしてそれらの絵にタイトルが付けられるとき、色やかたちの連なりのなかに埋没してしまいそうなイメージが、タイトルで示された言葉によって名指しされて像を結び、その存在を明らかにする。赤色の円が風船に見え出し、半弧の描線が寺院の丸屋根となり、画面にちりばめられた記号的なかたちが天使へと変わる。
 完全な抽象画の場合も、クレーの絶妙なタイトルセンスによって、なんとなくその言葉に沿ったものが描かれているように見えてくるから不思議だ。≪いにしえの響き≫や≪花ひらいて≫といった作品は、画面いっぱいに色とりどりの四角形がグリッド状に描かれているに過ぎないのだが、それぞれのタイトルで名指された瞬間から、その言葉通りのものがそこに描かれているように見えてくるのである。

 このタイトルが付くことによって「そう見えてくる」という意識の動きこそが重要であると考える。つまりそのとき絵は、見る者の意識のなかで「動いている」。
 そのダイナミズムの大きさは、クレーの絵の「言われて見ると、そう見える」くらいの抽象度と、いったん名指された後はもう他の見え方ができなくなる絶妙な言葉のセンスに因っている。その結果としてクレーの絵は、言葉が付与されることよる絵の見え方の変化がメチャクチャ大きいのだ。
 その変化は躍動感に満ちている。言葉の力によって今まで見えていたイメージがまったく新たな相貌をあらわし、絵のなかで想像力のさざ波が広がる。その波動は言葉の側にもこだまし、その言葉自体に秘められていた余情や含意の可能性が画面内の色やかたちと共鳴して、こちらもまた動き始める。この「動き」の連鎖への驚きを、我々は「詩情あふれる」といった言葉で表現しているのではないか。

 つまり絵と言葉が組み合わされるとき、絵の見え方にも、言葉の響きにも、何の変化も起こらないとしたら、そこに「詩」は生まれない。そこで起こる変化こそが重要なのだ。クレーの作品は、その変化のダイナミズムの躍動感とハーモニーが、見るものに「詩」を感じさせるのだろう。


 では翻って、マグリットの場合はどうか。クレーとマグリットの作品を比較したとき、次の二つの大きな差異に気づく。
 まず第一点は、絵柄の違いである。クレーの抽象性の高い絵に対し、マグリットの絵はそれとは真逆に抽象性を徹底的に排除した描法で描かれている。クレーの絵では、描かれたものは色の面にも、線の連なりにも、抽象的な図形にも、あるいは具体的なモチーフにも見える。その境界はあいまいで、見るものの視覚のなかでフラジャイルにその相貌を変化させる。それがクレーの絵画の「豊かさ」を生むのだが、マグリットの採る描画法では、そうした「絵画的な豊かさ」を生み出すような要素はむしろ積極的に排除されているのだ。マグリットの絵では個々のモチーフが、それが何であるかを「見紛うことのないように」描かれている。
 違いの第二点は、タイトルと描かれたイメージとの関係である。マグリットのタイトルは描かれたイメージと容易に結びつかないような突飛なものがほとんどだ。クレーのタイトルが描かれた対象を名指しして見ているものに「自分が何を見ているか」を明確にする効果をあげるのに対し、マグリットのタイトルはむしろ見るものに混乱を与え、「自分が何を見ているか」をわからなくする方向へと機能する。
 おそらくこの二点は関連している。まずはマグリットの描写について考えてみよう。

 自分の知り合いには「マグリットは面白いと思うけど、あの描写がなぁ〜」と看板絵のように深みのないマグリットの絵の描写を馬鹿にしている者が何人かいる。どうも自分の少ない知己を基準にする限り、「絵画」の深みがわかる者ほどマグリットの描写の「深みのなさ」を見下す傾向があるようなのだ。
 しかし言うまでもなく、あの描写は意図的に選択されたものである。そして自分は、マグリットの作品において何をおいても重要なのは、あの描写だと思うのだ(第二次世界大戦前後に一時的に描法が変化する時期があるが、その頃の作品はマグリットにおける描写の重要性を逆説的に証明しているように思える。)
 マグリットの描写から排除されているものは、クレーの絵のような抽象性や「絵画的な豊かさ」だけではない。対象に肉薄するリアリズムや、あるいは画家の超絶技巧的な技量の誇示のようなものも、そこでは目指されていない。それは古典的な具象絵画の描写ともまた違うものなのだ。つまり抽象性を排除して「何が描いてあるか」が明確にされる一方、描かれる対象ないし描き手の個性や情感がそこに入り込む余地がないような「匿名的」な描写こそが目指されているのである。
 マグリットがリンゴを描くとき、彼は目の前にある「このリンゴ」を描こうとはしない。彼が描くのは一般概念としての「リンゴ」の像なのだ。それを実現するためにマグリットの絵からは、抽象性も、対象を特定できる個性も、そして画家自身の感情や性格すらも追放されるのである。あの「深み」の感じられない「匿名的」な描写は、そのためにこそ選択されているのだ。
 マグリットは自作への精神分析的な解釈を嫌ったと言うが当然だろう。描かれた対象から読み取れる作者の内面などは、対象の「概念化」のためには阻害要因にしかないからである。マグリットは生涯を平凡な一市民のように暮らしたというが、それも自身の絵の描写の「純粋性」を保つためだったのではないだろうか。同じシュルレアリスムのスターであるダリが、奇矯な振る舞いを売り物とした「天才」を生涯演じ続け、その結果としてアノ高々と口ひげを捩り上げた戯け顔抜きには彼の作品を見られなくなってしまったのと対照的に、マグリットの場合は生涯匿名的な小市民を「演じ続ける」ことによって、自身の描くモチーフの匿名性を守ろうとしたのではないのか。自分はそこに、≪日付絵画≫の「日付」の匿名性を担保するために自らの存在を公的な場から一切掻き消そうとした河原温の試みをも重ねて見てしまう。(しかしマグリットにしろ、河原にしろ、それでもなお我々は、彼らの作品に、あるいは匿名性を守ろうとする彼らの努力それ自体にも、彼らの「内面」や「人生」や「人間」を見てしまうのだが、そのことはまた別の大きな問題となるので今回は踏み込まない。)

 では、なぜそこまでしてマグリットは自身の描写を匿名性へと純化させようとしたのか?
 思うに彼は、自身の絵に描かれるモチーフを「言葉」のレベルにまで還元しようとしたのではないだろうか。つまりマグリットが描くリンゴは、最終的には「リンゴ」というカタカナ三文字でできた単語以上の意味を持たない境地をこそが目指されているように思えるのである。イメージと言葉(単語)が限りなく近づく地点、マグリットの描写が目指しているものはそれなのではないか。

 絵と言葉が組み合わされるとき、それを単純な「絵=視覚的イメージ」と「言葉=言語的要素」の掛け合わせであると峻別して考えるのは浅薄に過ぎよう。文字の起源に絵があるように絵のなかにも言葉の要素が潜んでいるし、言葉によって視覚的なイメージを記述することもできる。
 たとえばクレーの絵のなかに我々が「具象的な要素」として認める鳥や魚や動物や人や建物などは、限りなく象形文字に近い。クレーの絵の神髄は色彩や線描による非言語領域の表現にこそあるが、そのなかに辛うじて残る言語的な要素が、それら「言葉では表現できないもの」とタイトル(言葉による表現)を架橋しているのである。
 クレーの絵における具象的な要素と違って、マグリットの絵の描写は、視覚的には象形文字とはかけ離れているように見える。しかしその実質は、記号的な表象という意味において象形文字にきわめて近いのである。つまりマグリットの描写は、物象の「絵」としての視覚的なイメージを保ったまま、そのdescriptionを言葉(単語)と等しいものにしようとしているのだと考えられるのである。
 その上でマグリットは「言葉」に等しくなった「絵」を使って、言語的な構成による表現(つまり「詩」だ!)を試みようとしているのではないだろうか。象形文字のようにその外観を記号のように単純化することなく視覚的には「絵」としてのイメージの強度を保ったまま、言語的な構成に類する表現、つまり「詩」的な表現を画面上で実現することを目指したと考えることはできないか。

 そう考えると、マグリットの絵のタイトルが「突飛なもの」ばかりであることも頷けるのだ。「リンゴ」という文字に等しいような描写で描かれたリンゴに「リンゴ」というタイトル付けても、まさに屋上屋を架す以外のなにものでもないからである。当然そこではなんの「変化」も起こらない。
 つまりマグリットの絵において「描かれたモチーフとは何の関係もなさそうな突飛な言葉」がタイトルとして選ばれるのは必然なのである。専門用語を使うのが好きな手合いならば、そのことをマグリットの絵の基本技法でもある「デペイズマン」という言葉を使って説明するだろう。
 しかしデペイズマンは通常、「文脈の異なる意外なものの組み合わせ(ミシンと蝙蝠傘との解剖台の上での偶然の出会い、のように)」として説明される手法だが、単に文脈の違う意外なタイトルを付けたという“だけ”ならば、それはあまりに記号的な所作である。少なくともそれだけでは「詩」は生まれそうもない(と自分は思う)。

 たとえば今回の展覧会の出品作のなかに、壁紙の図柄ように深みのない絵柄で描かれた青空の絵に≪呪い≫というタイトルが付けられた作品がある。もちろん見るものは「呪い」というタイトルを知って仰天する。「なぜ“青空(以外のいかなる要素もそこには存在しない)”を描いた絵が“呪い”なんだろう?」と、そう疑問に思う。一般的なデペイズマンの効果の説明では、この「仰天」や「疑問を持って絵を違った目で見る」などの行為を以ってして、その効果とするのだろう。しかし自分はそれだけではまだ不十分だと考える。その程度のダイナミズムでは「詩」は生じないのだ。
 自分がマグリットの絵に「詩」を感じるのは、この≪呪い≫というタイトルが、「青空」に含まれるなんらかの「呪い」性を言い当てているように感じるからなのだ。この「言い当てているように感じる」という感覚こそが決定的に重要である。
 クレーの絵の場合は、タイトルによって名指されることで抽象的な図柄が像を結ぶ「言われてみると、そう見えてくる」という意識の動きだったのに対し、マグリットの場合は、まったく無関係に思われた二つの事象間に存在する関連性が「言われてみると、見えてくる」というかたちで意識の変化が起こるのだ。つまり「言い当てかた」や「見えてくるもの」こそ異なるものの、「言われてみると、見えてくる」という意識の動き自体は双方ともに共通するのである。
 マグリットの絵においてもその二つの事象が、ただちには連想が結びつかない距離を隔てたものであることが重要だ。その飛距離の大きさこそが、意識の変化のダイナミズムを生むからである。すぐに連想が働くもの同士のあいだでは、この「動き」は起こらない。青空を描いた絵に「夏」とか「夢」とか「青春」といったタイトルが付いていても、「いままで見えていなかったものが、突然見えてくる」ような意識の変化は生じ難いのだ。
 ちなみに今回の展覧会には≪呪い≫と同じ描写で青空を描いた絵がもう一点出品されていて、その作品のタイトルが他でもない≪夏≫なのである。しかしこの絵は≪呪い≫と違って青空だけが全面に描かれているのではない。窓の並んだ石造りの建物の前に掲げられた旗の部分の空間が刳り貫かれたようにして青空が描かれているのだ。この場合、タイトルの≪夏≫は、旗の内側の青空だけに共鳴する。というのも、背景に描かれている建物は並んだどの窓からも僅かに開いたカーテン越しに暗黒の室内を覗かせているだけで人の気配を感じさせず、旗を掲げる鉄製のポールも強い陰影の垂直線が無造作に画面の中央を分割するかたちで描かれていて、そのどちらもおよそ「夏」のイメージとは程遠い不穏な空気を漂わせているからである。もしこの刳り貫かれたような旗の内側の「青空」がなければ、この絵と≪夏≫というタイトルとを架橋する何らかの共通項を見つけ出すのは困難になるだろう。その場合は当然「言われてみると、見えてくる」という意識の動きは働かないのである。
 つまり超現実的に旗の内側に刳り貫かれた青空が、「夏」の持つ二面性を見るものに気付かせるための架け橋としての役割を担っているのだ。そして背後の陰鬱な建物や鉄製のポールによる不自然な画面構成が、漂白されたようにクリアーな「夏」や「青空」の、その裏側に潜む「不吉さ」を見るものに暗示させるのである。人によっては、そこから過去の夏に起こった個人的な、あるいは歴史的な暗い出来事が思い起こされるかもしれない。

 つまり重要なのはズレと合致(言い当て)が同時に起こることなのである。ズレがないところには「言い当てている」という感覚は起こりえない。ズレから合致への「飛躍」こそが肝要なのだ。
 ミシェル・フーコーが論稿のネタにしたことでも有名な「これはパイプではない」の絵(≪イメージの裏切り≫:今回の展覧会では同じシリーズの1952年のドローングが出品されている)も、「パイプ」以外の何物にも見えないパイプの絵に「これはパイプではない」という文字が書き加えられることによって大いなるズレ(矛盾)が生じる。しかし「これは“パイプの絵”であって、本物のパイプではない(すなわちイメージと言葉は一致している)」というそれまで見えていなかった事実に気付くことで、意識が大きく動くのである。
 ≪イメージの裏切り≫はマグリットがイメージと言葉の問題に直截的に取り組んでいた時期の作品で、ややもすると他の代表作に比べ観念的すぎる気もするが、しかしそこで起こる意識の変化のダイナミズムが作品構造の「理屈っぽさ」を凌駕してイメージの広がりを生むのだろう。(ちなみにこの「これはパイプではない」は、自分には磔刑図でキリストの頭上に掲げられた罪状書きの「ユダヤの王」の文字を思い起こさせる。すなわち言葉とイメージが単純な合致の関係ではなく捩じれた位相にあるさまが、千年以上に渡る西洋絵画の歴史のなかでおそらくもっとも多く描かれてきたであろうモチーフのなかで示され続けてきたという事実をも、この絵が示しているように感じてしまうのである。)

 では、異なる事象間に潜む関連性を「言い当てている」という感覚が、マグリットの絵においては具体的に「詩」とどう結び付いているのか?
 自分の感覚を精査してみるに、マグリットの作品の多くでは、絵とタイトルの結合によって起こる意識の変化のなかで「物語的なもの」の発動が起こっているような気がする。たとえば刳り貫かれた旗の内側に青空を描いた≪夏≫では、「夏」という言葉と背景に描かれている陰鬱な建物や旗のポールによる不穏な垂直線が醸しだす「不吉さ」が結びついたとき、自分の意識のなかでは戦時下や独裁政権のもとで抑圧された街を舞台にした物語のようなものが展開し始めるのである。
 このとき重要なのは、モチーフとして超現実的な光景が描かれているから物語的なものが読み取れるということではないということだ。あくまでそれは異質な要素のぶつかり合いを経てそれまで見えていなかった関連性が「見えてくる」という意識の動きを契機に発動するものなのである。そしてそれは自分にとって、詩を読む際に感じる言葉と言葉の意外な結びつきが、それまでの文脈上は見えていなかったその言葉の新たな意味や予想外のイメージの広がりを展開をしていくさまに酷似しているように思えるのだ。
 マグリットの絵といえばその鮮烈なイメージこそが誰もが思い浮かべる最大の特徴であるが、作品から得られるイメージの広がりは、実は最初のビジュアル的なインパクトに直接続いていくものではない。タイトルによる混乱を経たのちに、始めは見えていなかったものがゆっくりと見え出し、第一印象で受けた衝撃とはまた別な世界が想像力によって見るものの意識のなかでじわじわと広がっていく。それは「ビジュアル的」というよりはむしろ「文学的」なものであり、さらに言えば「詩」的なものなのだ。そこで展開されるイメージの内容が詩的なのではなく、そのイメージを発動させる構造が「詩」的なのである。


 以上、マグリットの作品を「詩」であると感じた自分の直感を検証してきたわけだが、最後にマグリットの描写についてもう少し触れておきたい。
 マグリットの描写が、「絵」としての視覚的イメージを保ったまま、そのdescriptionを「言葉(単語)」のレベルにまで近付けて、言語的な構成による実験(「詩」的な表現)を画面上で実現するための術となっていることはこれまで述べてきたとおりだ。
 しかし自分は、ことマグリットの描写に関しては、それだけの役割では終わらないとも思っているのである。

 見るものを一瞬で引きつける卓越したビジュアルを持つマグリットの絵は、その複製イメージがあらゆるメディアを通して世に流通しまくっている。そして絵画的な「深み」をイメージ性の強さが凌駕するその絵は、絵画作品としては他のどの画家の絵よりも実作と複製の垣根が低いようにも見える。実作を見ないでも十分「わかった気」になれる絵の代表例だと言ってもいいかもしれない。事実ここまでしてきた説明も、そのことを裏付ける方向で機能するだろう。マグリットの描写が描かれたモチーフの「概念化」を果たす機能だけを担っているならば、作品理解のためにはあとはその概念化された事象の組み合わせが把握できればいいわけで、それは複製図版で十分事足りるからだ。つまりは印字された文字の連なりから「詩」を感じ取ることができるのと同じ理屈である。
 ところがマグリット展の会場から家に戻り、買ってきたカタログの図版を見ていると、なんだか少し物足らない気がするのだ。会場で見たはずのナニカが、そこには欠けているのである。思い起こしてみれば、過去にマグリットの実作を見たときはいつも同じような感慨を抱いていた気がする。十分「わかってる」と思っていたはずのマグリットの絵が、実物を見ると意外にもその印象を大きく更新される(そしてしばらく経つと、また氾濫する既存のイメージに浸食されて忘れる)といったことを繰り返してきたのだった。
 つまり深みのない描画と概念化されたモチーフによる構成が主と思われているマグリットの絵画は、意外と一次的にしか得られない情報が多い絵なのである。そして、その多くはあの描写にこそ因っているのだ。

 たしかにマグリットは、描写から特定の人格の想起や曖昧な解釈の可能性を排除するために、あの平板な描法を採用したのだろう。つまり理屈から言えば、それは人間性を排除した冷たい描写になってしかるべきなのだ。ところが実際に作品を見てみると、意外とそこからは人の血が通った「あたたかみ」のようなものが感じられるのである。余計な感情を削ぎ落とした無機的な描写をこそが目指されているはずなのだが、案外作者は楽しんで描いているのではないかと思うような、そんな感覚さえ抱かされるのだ。
 マグリットの油彩画の描画法は、古典絵画のように人の手の痕跡を消した、素人にはどうやって描いたのか見当もつかないような技巧的な複雑さはなく、むしろ最短距離で最終イメージに辿り着こうとする簡易さこそが特徴である。しかしその簡易的な描写のなかに、描くことによってイメージがそこに生まれていくことへの驚きが見出せるように感じるのだ。「絵」というものが生まれるその瞬間への驚きと喜びが、その「どう描いているのかわかる」描写によって見るものに伝わるのである。このニュアンスは実作を前にしないとなかなかわからない。
 そしてそのことは、マグリットの絵に描かれるモチーフが個別的な要素を削ぎ落とされ概念のレベルにまで純化されるのと同じように、マグリットの絵を「絵」や「イメージ」へと還元するのである。一見「だまし絵」のように見えるマグリットの絵が、実際は「だまし絵についての絵」であるように、マグリットの作品の本質はその自己言及性にある。つまりマグリットは絵を描くのと同時に、「絵というもの」をも描いているのだ。
 そのためマグリットの絵画は、画面内に描かれたイメージだけではなく、フレームの外側の世界における作品本体の存在自体も、どこか「普通の絵画」としてこの世界に収まるにはそぐわないような居心地の悪さがある。その感覚は描かれた超現実的なモチーフへのめまいに由来するのではなく、我々が個別の作品としてのマグリットの絵を見るのと同時に、「イメージというもの」や「絵画というもの」の不思議をそこに見てしまうめまいから来るのだろう。

 ≪呪い≫の作品の青空が「呪い」という言葉と結びつくのは、壁紙の図柄のように単純化されて描かれたあの絵の青空自体に「呪い」を感じさせる何かが潜んでいるからである。それは紛れもなく「絵画」的な効果なのだ。つまり我々は「青空」と「呪い」の意外な関連性と同時に、絵画という表現の不思議さ(奥深さ)もまたそこで目にしているのである。それは他の作品にも言えることだろう。
 つまりマグリットの作品は、やはりどうしようもなく「絵画」なのである。絵画であることを抜きにしてマグリットの絵は語れないのだ。まぁ、当たり前といえば当たり前すぎる結論ではあるが。

 しかしそのことを十分承知した上で、多彩な額縁(今回の展覧会ではいろいろな額縁が見られたが、そのどれもがマグリットの絵に合っていて面白かった)に収められた紛れもない「絵画」が並んだマグリット展の会場風景に、自分は敢えて「“詩”の展覧会」というタイトルを付けてみたくなったのだ。
 そしてそれは「マグリットのタイトル」的な意味においては、それほど的外れなものでもないのではないかと思うのである。



「マグリット展」
国立新美術館(2015年3月25日〜6月29日)
http://magritte2015.jp/
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2013年12月29日

2013年俺的展覧会TOP10

例によって自分がどれだけ強いimpressionを受けたかだけを基準に選んだ今年見た展覧会のTOP10。例によって横着して日本語のみ。
後々「あーこの年はこんな年だったんだー」と思い返せるようにと思って毎年作っているのだが、去年散々迷った挙句に結局ランクインさせなかった「アラブ・エクスプレス展」(森美術館)が、早くも2012年という年を振り返るに当たってモノスゴク重要な展覧会だったと後悔する羽目になっているので、今年は同じ轍を踏まぬよう保険で(?)次点の展覧会もいくつか挙げてみた。というか今年はホントに印象深い展示が多かったのだ。

そんな感じで、今年の俺的TOP10はこんな感じ↓


1位:「橋本聡:私はレオナルド・ダ・ヴィンチでした。魂を売ります。天国を売ります。」青山|目黒(4〜5月)URL
2位:「あざみ野コンテンポラリーvol.4 スーパーピュア展2013」横浜市民ギャラリーあざみ野(10〜11月)URL
3位:「秘密の湖〜浜口陽三・池内晶子・福田尚代・三宅砂織」ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション(5〜8月)URL
4位:「岡本太郎のシャーマニズム」川崎市岡本太郎美術館(4〜7月)
5位:「桑山忠明展 HAYAMA」神奈川県立近代美術館葉山('12年11〜1月)URL
6位:「田代一倫 はまゆりの頃に 2012年秋 福島県双葉郡楢葉町」(1〜2月)URL、「2012年 冬」(5〜6月)URL photographers'gallery+KULA PHOTO GALLERY
7位:「戦争/美術1940-1950」神奈川県立近代美術館葉山(7〜10月)URL
8位:「ル・コルビュジエと20世紀美術」国立西洋美術館(8〜11月)URL
9位:「政田武史 それはこうして現れる。世界が吹き出す時に。」HAGIWARA PROJECTS(7〜8月)
10位:「シャガールのタピスリー」渋谷区立松濤美術館('12年12〜1月)

次点(見た順)
「鈴木理策 アトリエのセザンヌ」ギャラリー小柳(2〜3月)
「フランシス・ベーコン展」東京国立近代美術館(3〜5月)URL
「生誕120年 木村荘八展」東京ステーションギャラリー(3〜5月)URL
「夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史〜北海道・東北編」東京都写真美術館(3〜5月)URL
「山本高之 Facing the Unknown: Dark Energy」island MEDIUM+千葉市美術館1階プロジェクトルーム(6〜7月)URL、「Facing the Unknown」ケンジタキギャラリー(9〜10月)URL
「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」千葉市美術館(6〜8月)URL
「高木秀典 個展」ART TRACE GALLERY(9〜10月)
「アンリ・ルソーから始まる 素朴派とアウトサイダーズの世界」世田谷美術館(9〜11月)URL



以下、簡単な感想

「橋本聡:私はレオナルド・ダ・ヴィンチでした。魂を売ります。天国を売ります。」は、昨年の「14の夕べ 偽名」あたりからなんとなく予感はあったけど、橋本聡にエンターテインメント的な要素が加わるとここまで面白くなるのかという驚愕の展覧会。「突き抜けている」という意味では、他のあらゆるものを引き離して圧倒的に突き抜けた内容だった。今年はこの橋本聡の個展と横山裕一の新刊『ルーム』の二つの「突き抜けた」表現に完全に打ちのめされた年だった。
「あざみ野コンテンポラリーvol.4 スーパーピュア展2013」は、アール・ブリュット/エイブルアート系の展覧会で作家を厳選して展示に凝ればここまで凄い展覧会ができるのかという素晴らしい展覧会だった。公開制作の衝撃も忘れることができない。
「秘密の湖〜浜口陽三・池内晶子・福田尚代・三宅砂織」は、福田尚代の怖ろしいまでに美しい展示に。「美」というものが本質的に孕む酷薄さを思い知らされた気がする。展覧会全体もトーンが統一されていて好印象。
「岡本太郎のシャーマニズム」は、とても重要な展覧会。「岡本太郎の作品」の秘密にここまで深く斬り込んだ展示を自分はこれまでに見たことがない。シャーマニズムの資料映像を満載した会場のアヤシイ雰囲気も最高だった。それにしても生誕100年イベントなんかでは無駄に馬鹿盛り上りしても、こういう重要な展覧会があまり話題にならないところに「岡本太郎の作品」の不幸を見る思いがする。
「桑山忠明展 HAYAMA」「政田武史 それはこうして現れる。世界が吹き出す時に。」「高木秀典 個展」は、絵画の新たな可能性に。彼らの作品を見ると絵画の進化はゼンゼン終わってなどいないということに気付かされる。「絵画」の未来を感じさせられたいう一点においても、特筆しておくべき存在。
「田代一倫 はまゆりの頃に」は、ついに今年撮影が終了し写真集も刊行されたシリーズだが、展示も三回開催されたうちのとくに最初の二回は二室ある展示室を効果的に使ったとても印象的なものだった。去年出会って以来、この作品からは本当にいろいろなことを教えられた気がする。もはや自分の血肉と化しているほどに思い入れの強い作品になってしまった。
「戦争/美術1940-1950」「アンリ・ルソーから始まる 素朴派とアウトサイダーズの世界」は、どちらも館蔵品を中心としながらも非常に質の高い企画展。「戦争/美術」は美術作品によって1940年代という時代を追体験させるかのような展示。40年代後半が駆け足になるのが惜しかったが、定点観測的に何人かの作家に焦点を当てて部分から全体を照らし出していく構成は見事。「展覧会」という表現メディアにおける現時点での最高位にも位置するような内容だったのではないだろうか。「アンリ・ルソーから始まる」は、とかく定義の難しい「アウトサイダー・アート」を素人画から精神病患者の創作までの丁寧なグラデーションで追っていき、なおかつそれが自館のコレクション史とも重なっているという高度な構成。世田美のコレクション力も見せつけられた。
「ル・コルビュジエと20世紀美術」は、いままで自分が抱いていたル・コルビュジエに対するイメージを完全にぶち壊した展覧会。コルビュジエってこんなパンクな野郎だったのかと驚愕させられた熱い展示。コルビュジエ設計の西洋美術館での展示という効果も大きかった。
「シャガールのタピスリー」は、複製がオリジナルに聖性を帯びさせる様を視覚的に確認できるという稀有な展覧会。シャガールという作家に対して自分が持っていたイメージもこの展覧会によってかなり更新された。今年見た展覧会では最大の「拾い物」。
「鈴木理策 アトリエのセザンヌ」は、魔術的な写真展。この写真家の展示は以前見た写美の個展などに顕著だったが、見映えはするのだがややもすればそれがコケオドシ的に感じられてしまってショージキ軽く見ていたところがあった。しかし劇的な照明などの得意のギミックを廃したこの展示では、静かな環境のなかでむしろ過去に見たどの展示よりも「魔術的な感覚」が実現されていたと思う。その感覚は昨年見たセザンヌ展の印象や自分のセザンヌ作品の解釈とも一致していた。
「フランシス・ベーコン展」は、とりあえずこれだけの数のベーコン作品をまとめて見られたのは良かったのかな、と。もーこんな機会はないかもしれないし。
「生誕120年 木村荘八展」は、気にはなりつつもなかなかその全貌を知る機会のなかった作家の回顧展。こういう渋い系の良質な展覧会が増えてきたのは嬉しい。
「夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史〜北海道・東北編」は、初回からずっと見続けているシリーズだが、北海道・東北という土地柄のせいか今回はなかでも頭抜けて面白かった。最後に展示されていた災害写真の展示も印象深い。
山本高之の個展「Facing the Unknown: Dark Energy」と「Facing the Unknown」は、他者を自作の素材とする際の不思議な作者の立ち位置に。その「謎」な感じは、平温のまま残る毒のように今でも自分のなかに留まり続けている。
「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」は、光太郎の彫刻の数自体はそれほど多くはないのだが、丁寧な作りが印象深かった好展示。智恵子の紙絵が大量に見られたのも収穫。


今年は遠方で話題になった展覧会&見たい展示も多かったのだが、例によって限定された行動範囲&行動パターンで生活しているため、例によって近場の展覧会しか見ていない(一応今年は上海に行ったけど、まーそれはそれとして・・・)。
とは言え東京で開催される展覧会だけでも見切れないほどの数があり、しかも最近はなんだか展覧会のレベルが全体的に上がってきている気がする。その内容も都美で見たグレコ展やターナー展のようにちょっと信じられないほどの豪華な招聘型展覧会からマニアックな企画展まで多種に渡り、とりあえず週末に出かける先にはマッタク困らなかった。
おそらくこれはとても恵まれた状況なのだろう。
posted by 3 at 19:34| 日記

2013年11月17日

覚え書きと肖像写真〜田代一倫『はまゆりの頃に』

 一昨年の震災の直後に感じたのは、言葉を発することの困難だった。未曾有の大災害の後で、どんな言葉を発してもそれが不用意な発言となって誰かを傷付けてしまうのではないかと恐れ、他人の受けた傷の「見えなさ」に怯えた。
 その後の原発事故の発生は、言葉の困難をさらに複雑化させた。専門家によっても見解が分かれる放射能の被害の程度の「目に見えなさ」が、原発や放射能にまつわる言説をまるで信仰の違いによる宗教対立のような様相にまで変えてしまった。
 その結果としてなのか、原発に関係しない話題でも震災後に交わされる言説は以前に比べて極端に「政治対立化(セクト化)」しているように感じる。何かについて発言することが即自分の政治的立場の表明と受け取られてしまい、どんな言葉も単純な二項対立の構図へと強制的に当てはめられてしまう危険を孕む。公共の場における発言ではとくにその窮屈さを感じる。
 おそらくそれは「“間違ったこと”を言ってはいけない」というプレッシャーなのだろう。原発事故という背負いきれないほどの負債を過去からのツケとして担わされた我々は、その責任の重さに恐怖し、きたる未来の地点から振り返ったときに今度こそは「間違ってはいけない」と自らの(あるいは他人の)言動を縛るのである。それはまるで社会全体が「正しさ」という病に罹ったかのようで、常に「正しい」側に付いて「正しい」行動と発言をしなければならないという強迫観念が、絶望にも似た閉塞感と息苦しさを感じさせていた。

 自分が田代一倫の『はまゆりの頃に』に出会ったのは、そんなときである。写真家である田代が震災直後より被災の激しかった三陸・福島の地に入り、そこで出会った人たちを撮影した作品だ。
 まず初めに驚いたのはその「怖いもの知らず」ぶりである。田代は東北とは何の縁もない九州出身の写真家であるという。そんな「余所者」が、被災の爪痕もまだ生々しい土地へと赴き、そこに住む人たちに声をかけカメラの前に立ってもらう。安全な場所でどうということのない言葉を発するだけでも「誰かを傷付けるのではないか」、「“正しくない”と誰かに批判されるのではないか」と始終怯えていた自分にとって、それは蛮勇を遥かに超えたトンデモナイ暴挙のようにも思えた。
 しかし田代の写真を見、彼が写真に付した覚え書きを読み進むうちに、自分は完全に彼の作品に魅せられてしまった。それはかつて体験したことのないような胸の奥に深く響く衝撃だった。読み進めながら自分自身を深く反省させられ、それと同時になにか暖かい希望の光のようなものに触れたような気分にもさせられた。

 作品の体裁自体はごくシンプルである。田代が被災地を旅してそこで出会った人たちの肖像写真のシリーズで、対象とするのは話をして撮影の承諾を得た人のみ。基本的に構図はすべて正面を向いた全身像で、撮影にまつわる田代自身による簡単な覚え書きがそこに付く。
 自分が始めてこの作品に出会ったのは昨年の春、新宿のkula photo gallery(photographers' gallery)で開催された個展であったが、田代はその後も撮影を続け、今年の春に撮影を終了するまでに点数にして実に1200点以上を撮影し、そのうちの453点が最近写真集として出版された。

 写真集の帯にも「肖像写真453点と覚え書き」と大きく記されている通り、この作品における言葉の存在は決して小さくない。それは多くても三行程度の短文で、内容は撮影した相手から田代が聞いた言葉であったり、撮影時のエピソードであったり、あるいは田代自身の自省であったりと様々である。
 この写真に付された文章が「覚え書き」であることには大きな意味があると思う。震災の直後に被災地に行ってそこにいる人々のポートレートを撮影するという一見きわめて暴力的にも思える田代の行動だが、その撮影にも、あるいはそこに付された文章にも「暴力的であること」に対する自覚とそれを少しでも避けようとした努力の跡が感じられる。
 つまり田代は自分のしていることの暴力性について誰よりもよくわかっている。だからこそ彼は自分の撮影に「大義」を持とうとしないのだろう。大義を持つこと自体が被写体との関係において暴力になることを知っているからだ。彼は「加害」の立場に身を置くことの困難を引き受けた上で、そのことで相手が傷付くことがないよう細心の注意を払いながら被写体との距離を慎重に測り続ける。
 震災という巨大な暴力のあとでは、どんな些細なことでも致命的な暴力になりうる。そこでは「理解した気になる」こと自体が既に暴力であり、そのことだけでも相手を傷付けかねない。
 だから田代は決して「わからない」ことは書かないのである。彼はあらゆる価値判断を保留にして、ただその場で見聞きしたことだけを「覚え書き」として記す。震災直後に自分が「誰かを傷付けるのではないか」と言葉を発することを恐怖したその感覚のおそらく何万倍もの緊張のなかで、彼は最大限の慎重さをもって記すべき言葉を選んでいる。被写体との適切な距離を保ち、相手の心のなかに土足で踏み入るような真似は決してしない。この被写体との距離の保ち方こそが、この作品の生命線なのだろう。

 たとえば「家を片付けています」の一言が添えられただけのマスク姿でこちらを見る女性の写真。彼女の立つその周囲は一面無残に崩壊した瓦礫の山で、写真に付された「2011年4月16日」の日付と「岩手県上閉伊群大槌町本町」の地名が、その言葉の意味するものの苛烈さを見るものに伝える。
 しかしそれと同時にこの言葉はどこかユーモラスな響きも備えている。現実の津波被害という悲惨な状況を一端思考の脇へと退ければ、ヒトコマ漫画の台詞にもなりそうな気がする。目元からしか表情が窺えない写真のなかの女性も、マスク越しに笑顔をつくっているように見える。もしかしたらその言葉は本当に彼女が相手を笑わそうとして言った冗談だったのかもしれない。
 しかし彼女がどんな気持ちでその言葉を発したのかは、誰にもわからない。そして重要なのは「わからない」という事実を厳粛に受けとめることなのだ。だから田代はこの言葉になにも付け加えない。一枚の写真と、それに添えられた「家を片付けています」の一言だけである。

 「わからない」ことへ決して踏みこまぬ節度を保ちながらも、田代はそこで見聞きした「伝えなければならないこと」を僅かな文字数のなかに可能な限り刻みこもうとする。その結果として、我々は苛酷な運命のなかで発せられた得難いいくつかの言葉に出会うことができる。
 二階まで被災した建物の三階部分で父親と二人で理容室を営業している男性にどんな強い覚悟で開業しているのかと思って質問したときに返ってきたという言葉、「別に、何となく続けてます」。
 震災の年が明けた元旦の夜、神社で粕汁を混ぜていた女性がごく自然な調子で語ったという「今年のは良くできたんですよ」。
 そして何気ない日常の言葉のなかにふと混ざってくる「昨日、ここで遺体を発見しました」。
 田代が写した写真と組み合わされることで、それらの言葉はどんな長大な文学作品よりも多くのことを我々に語りかけてくるように思われる。

 震災の発生からまだ日が浅い時期の言葉には、どれも異常な緊迫感が漲っている。それが現実の苛酷な状況からはかけ離れたように見える日常の何気ない言葉であっても、その裏側にあるものを嫌でも想像してしまうからだろう。
 しかし時間を追うにつれて、だんだんと日常的な言葉が字義通りの日常的な言葉として捉えられるようになってくる。それは単なる日付からの類推的な憶測ではなく、あきらかにそこに添えられた写真による効果である。どの言葉もそれだけ取ればなんということない「覚え書き」だが、しかしそれが田代の撮影した写真と組み合わされたとき、そこから汲み取れるものは無限の深さを持つのだ。
 それは抑制された「覚え書き」に徹したからこそ可能となった表現なのだろう。この距離感のなかに、作者の「言葉にはできないこと」のすべてが詰まっているのだ。

 田代の撮影スタイルも「覚え書き」の禁欲さと呼応している。彼は被写体を選ばない。そこで出会った人を差別なく同じフォーマットで撮り続ける。そのためたまたま一時的にその地を訪問していただけの人も、長年そこに住む住人たちと同じく「そこで出会った人」として撮影され、作品のなかに収められている。
 この徹底した平等性は、カテゴライズの暴力に抗するためなのだろう。本人の意志と関係なくそこにいる人たちを一律に「被災者」としてしまう暴力こそが、田代がこの作品の制作に際して、もっとも忌避すべきものだったのではないのか。
 彼らを「被災者」にしたのは、まずは巨大地震、津波、原発事故であり、次にはマスコミの報道や我々の言葉、視線によるラベリングである。田代は自らの行為がそれに荷担する危険を慎重に避けながら、出会った人ひとりひとりに貼られたラベルを剥がしていこうとする。そこに生きるひとりひとりの彼らと出会うことで、数値化・抽象化された人々を顔を持ったひとりの人間として地道に捉えなおしていく。
 だから田代の写真のなかでは、どんな職業の人も、どんな目的でそこにいる人も、等しく同じように扱われるのだ。復興の役に立つ/立たないという価値観や、あるいは主張や行動が正しい/間違っているといった価値判断は彼の写真のなかでは適用されない。どんな人であれ田代の写真に写っている人たちは、ただそこにいるだけでひとりひとりがその人として祝福されるべき存在なのである。

 すなわち田代の写真が写すものは「一期一会」なのだ。それ以上のものが自分の力で撮れると過信しないよう写真家自身が自分に言い聞かせているようでもある。
 そしてその一期一会のコミュニケーションはすべて相手の気持ちを「理解できない」ことを前提にしているのだ。そこには一片の過信もない。
 そもそもそれが誰であれ、我々は他者を完全に理解することはできない。それをできると思うのは驕りである。「理解できない」ことは他者との関わりにおける前提なのだ。
 しかし「理解できない」にも関わらず、この一期一会の出会いがいかに貴重で、いかに大切なものなのかを田代の写真は教えてくれる。大切なのは「理解する」ことではなく、この「出会い」そのものなのだ。
 田代の写真からはどんな価値判断も、主張も、意味付けも後回しにして、まずはその出会いへの祝福が伝わってくる。だからこそ彼の写真のなかの人々は、誰もが掛け替えのないそのひととして無類の存在感を発しているのだ。

 互いを理解できずともただこの出会いを喜ぶという姿勢は、主義主張や信仰の違いによってセクト化していく世界のなかで、暗闇に灯る仄かな明かりのようにも感じられる。だからこんなにも重いものを背負った内容にも関わらず、田代の写真を見た後はなにか救われたような気持ちになるのだろう。
 この作品に出会えたことで自分は初めて「他者」の存在の意味に気付けたような気がする。同じこの世界に住む自分以外の人々に対する見方が、あきらかに変わった。
 自分にとってもこの作品との出会いは、他の何ものにも代えがたい大切なものになったのである。



「田代一倫 はまゆりの頃に 2013年 春」
photographers' gallery + kula photo gallery(2013年11月6日〜24日)
http://pg-web.net/exhibition/kazutomo-tashiro-when-hamayuris-are-in-bloom-2013-spring

田代一倫写真集『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011〜2013年』(里山社)
http://satoyamasha.com/?p=98
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2013年11月11日

奇跡について

 そこは明るく和やかな空気に包まれた空間だった。スタッフや関係者の方たちが多かったためだろうか、笑い声や話し声が絶えず、飾らない雰囲気のなかで誰もがごく自然に振るまっている。
 そんな穏やかな空気のなか、床に這いつくばるようにして夢中で絵を描き続ける二人の絵描きの姿を見ながら、自分はひとり呆然と立ちつくしていた。
 「イッタイここでなにが起こっているのか?」

 それは先日横浜市民ギャラリーあざみ野で見た展覧会「あざみ野コンテンポラリーvol.4 スーパーピュア展2013―my rule, my style」での一コマである。たまたま自分が訪れたときに公開制作のイベントが行われていて、出品作家のうちの四人が展示室で実際に制作の様子を披露していたのだ。床に這いつくばるよう絵を描いていた二人というのは、やまなみ工房から出品していた井上優さんと田中睦美さんの二人の新人画家である。
 「新人画家」というのは展覧会に出品するのは二人とも初めてで、これがデビュー展だからである。それだけではない。驚くことに二人とも絵を描き始めてまだ一年に満たないというのだ。ちなみに井上さんは今年70歳、田中さんは57歳の超遅咲きデビューである。
 この年齢になるまで芸術的な訓練を受けたことも本格的な制作をしたこともなかった高齢な二人が、周囲の雰囲気に刺激されて突然絵を描き始めた。ここまでは「いい話」だ。

 ところがその描いている絵がトンデモナイのだ。二人とも畳三畳分くらいはある巨大サイズの紙に、井上さんは鉛筆のみを使ったどこか古代の象形芸術のようでもあり現代のグラフィティのようでもある記号的かつ躍動的なモノクロームの絵。田中さんはパステルを使って大胆に描いた華やかで色彩豊かな肉感的な絵。どちらも「今までに見たことのない絵」であり、とても画歴一年未満の絵描きが描く絵ではない。
 公開制作ということだからなのか、井上さんはネクタイを締めた姿での制作。田中さんの服装もなかなかお洒落だ。晴れの舞台で超遅咲き新人画家の二人が向かい合わせになって夢中で絵を描いている姿はとても幸福な光景で、それだけでもなにか胸にこみ上げてくるものがある。
 しかし自分が呆然としていたのは、単に幸福な光景に感激していたからではない。それは「いまここで芸術が立ちあがっている!」という腹の底からわき上がってくるような感動だったのだ。他人の制作の現場に居合わせた経験は過去に何度かあるが、ここまで興奮したのは記憶にないかもしれない。この感覚はいったい何に由来しているのか?

 スーパーピュア展2013は「16名の障がいのあるアーティストたちの作品を展示」する展覧会ということで、正規の美術教育を受けていない作家による制作を指す「アール・ブリュット」や、福祉の現場で作業所や工房のようなかたちで制作を行う「障がい者アート(エイブル・アート)」といったカテゴリーに位置付けられる作家たちの作品を集めた展覧会である。
 アール・ブリュットの定義は難しい。アール・ブリュットと障がい者アートは違うと言う人もいるし、同じだと言う人もいる。前者が作品を受け手(需要)の立場が主の視点であるのに対し、後者には制作する側の立場の視点も入っているところに違いがあると忖度することもできないわけではないのだが、しかし「作品」として受容されるために同じ土俵に上がった瞬間にそれらの事情はリセットされるわけで、それが定義付けをより困難にしているようにも思われる。
 そもそもこの種の作品を表す言葉として「アール・ブリュット」、「アウトサイダー・アート」、「ボーダレス・アート」、「エイブル・アート」、「ワンダー・アート」、「スピリット・アート」、「ポコラート」などと雨後のタケノコのように新たな名称が次々と生み出されるのも、偏にその定義の難しさに由来するためなのではないだろうか。

 ただ言葉で説明できなくても、「見ればわかる」こともある。アール・ブリュットの作品を見ると、理屈を超えてなにか胸に迫って来るものがある。そもそも前世紀半ばにジャン・デュビュッフェがアール・ブリュットの用語と概念を発明したときも、まずなによりも作品から受ける衝撃が先にあったはずだ。
 そしてそのとき重要となるのは「理屈を超えて」の部分なのである。「正規の美術教育を受けていない」といったアール・ブリュットの条件は「理屈を超えている」ことを認識するためのわかりやすい記号のようなものとして解釈することもできるのではないだろうか。

 自分がスーパーピュア展2013の公開制作を見て感動したのも、それが「理屈を超えた」光景だったからだ。言ってしまえば、それは「奇跡」を目の当たりにした感動だったのである。
 そのとき彼らが高齢であったり障がい者であったりすることが、自分がその光景を「理屈を超えている」と認識するための大きな要因となっていたことは確かだろう。
 しかしそれは本質ではないのだ。言ってしまえば、それが奇跡であることを我々に気付かせるためのタグのようなものに過ぎない。
 奇跡の本体は、彼らが描く絵にこそある。その創造そのものにある。
 それを一番理解しているのは、当の本人たちだったのではないだろうか。体調を心配したスタッフに休憩を促されても意に介さずに夢中になって絵を描き続ける二人からは、「自分のなかにこんな能力があったとは!」と今まさに自分が為している奇跡に驚き、創造の喜びに浸っている様が見ているこちら側にも伝わってきた。
 つまりそこで起こっている奇跡は、本来すべての創造行為に可能性として含まれているものなのである。いや我々の生そのものに含まれるものだと言ってよい。

 そもそもなぜ我々は奇跡を必要とするのか? 奇跡を目の当たりにすると、なぜこんなにも感動するのか?
 おそらくそれは我々が「知りながらも、信じられない」からではないだろうか。つまりいま自分が目にしているものが、いま自分がここにいることが、既に「奇跡」であることをだ。
 我々が目にするものには全て言葉による「意味」が付与されている。そのことによって我々は世界を理解し、日々の生活を可能にしているのだが、しかしそれだけではこの世界が存在することの不思議、我々がいまここにいることの謎を理解することはできない。
 この世界には我々の理解を超えるものが存在することを、「目に見えるもの」がこの世界のすべてではないことを“実感”するためには、なによりも「理屈を超える」ことが必要となる。奇跡はそのために必要とされるのだ。

 奇跡を目の当たりにすると、我々は世界に対する認識を一新する。自分がいた場所はこんなにも広大で未知の可能性に満ちた場所だったのかと気付かされる。
 奇跡は万人に向けて開かれている。なぜならばそれは「この世界」そのものの成り立ちへの認識を変えるからだ。もしこの世に奇跡が存在するならば、それは自分自身の存在の意味も大きく変えるのである。どんな小さな奇跡に対しても我々がそれを見ることによって勇気付けられるのはそのためだろう。奇跡は我々の生に対して希望を与えるものなのである。

 昔、大学受験のために美術予備校に通っていたとき、指導をしていた講師が言っていた言葉でいまでも忘れられないものがある。それは「絵は徐々に上手くなるものではなく、ある日突然いきなり上手くなるものだ」というものだった。その講師がどのような意味合いでその言葉を言ったのかは定かではないが、当時なかなか思ったように絵が描けず悩んでいた自分にとって、それは天啓のように響いた。そうか! 絵は突然上手くなるものなのか! だったらいまはこんなにグダグダでも、次に描く絵は自分でも信じられないくらいの傑作になるかもしれない! そう単純に思い込んだのが、実に現在にまで続いているのだ。
 つまり自分が二十年以上もひたすら次の作品、次の作品と「次」を追い求めてきたのも、次に描く絵こそ今までに誰も見たことがないようなトンデモナイものが現れるかもしれないと期待するからなのであろう。次の絵でこそきっと奇跡は起こるに違いないと信じているからこそ、自分は今でも「次の絵」を描き続けるのだ。

 自分がアール・ブリュットの、いやあらゆる種類の表現のなかに潜む「理屈を越えたもの」に感動するのは、そこになにかの「サイン」を認めるからなのだろう。それはこの世界に奇跡が存在するという証なのである。
 そこに奇跡が存在するならば、世界は無限の可能性に満ちているのだ。



「あざみ野コンテンポラリーvol.4 スーパーピュア展2013―my rule, my style」
横浜市民ギャラリーあざみ野(2013年10月26日〜11月17日)
http://artazamino.jp/event/contemporary2013
posted by 3 at 20:51| 日記