今年もまた「夏休み子ども科学電話相談(NHKラジオ第1)」の季節になった。去年この番組のなかである子どもが「岐阜は日本のなかにあって、日本は地球のなかにあって、地球は太陽系のなかにあって、太陽系は銀河系のなかにあって、銀河系は宇宙のなかにあるけれど、では、宇宙は何のなかにあるのですか?」と質問したのが印象深くて、このブログでもそのとき考えたことを日記として書いたのだけど、ふたたび夏がめぐり来てまた「宇宙の外側」について想う。
たとえば、いまから百億年くらい前にビッグバンを起こして現在も膨張をつづけているという“それ”のことではなく、“それ”の外側の世界をも含むあらゆるものの上位概念としての「宇宙」といったものがもし存在するならば、それはいったいどんなかたちをしているのだろうか?
「宇宙の外側」や「時間の始原」、あるいは死後の世界も含む「生と死の謎」といった問題は、人間の想像力を超越しているのと同時に、我々がいま、ここにいる「この世界」の存在の秘密でもある。科学も、哲学も、宗教も、芸術も、究極にはその謎を解明するためにあるのではないだろうか?
でもどんなに高倍率の天体望遠鏡が発明されたとしても、自分が生きているあいだに人類が「宇宙の外側」を目にすることはないだろう。宇宙の外はおろか、地球の外にすら行くことはないであろうこの俺は、したがって自分が生きているこの場所のなかで、その「てがかり」を探すしかない。
先日、銀座のギャラリー椿でコイズミアヤの個展を見た。
その作品はとても変わっていて、それは木でできた彫刻なのだけれど、人によっては工芸の細工品と見るかもしれないし、あるいは人によっては建築模型と見まちがうかもしれない。
作品は大きく分けて三つのシリーズがあって、白く塗られた開閉式の箱のなかに小さな景色が封じ込められている作品。筒状の直方体に雨どいや階段を思わせるようなものが組み合わされて建物のようにも見える抽象と具象の中間にあるような作品。そして様々な形態のパーツが取り外し/嵌めこみして直方体から建築模型のようなかたちへと「組み立て」可能な作品。
それぞれに数理模型や建築模型を思わせる厳密さや規則性をもっているようで、その反面、ひとの手のぬくもりを感じさせるあたたかさも感じる。その作りはたいへん緻密で、ひとの手によるぬくもりを感じさせつつも、ひとの手によるものとは思えない厳密さを感じさせる点は、形状だけでなく、その仕上げにもあらわれている。
これらの作品を見ていたとき、なぜか若林奮の彫刻を連想した。
主として鉄を素材として使い、サイズ的にも重量的にも重厚長大なイメージの強い若林奮の彫刻と、片手でも持てる程度の「ミニチュア」なコイズミアヤの木製の作品は、ともすれば相容れないものと思われるかもしれない。
しかし自分は、若林奮の彫刻に感じる物語性や叙情性ときわめて近いものを、コイズミアヤの作品にも感じた。そしてそれは、物語や叙情の「内容」が似ているというだけでなく、それ以上に、その「語られかた」が似ていると思うのだ。
自分にとって若林奮の彫刻ほど、物語性に富んだ彫刻は他にない。その「物語」は、彼の彫刻が表面的に「模しているかたち」ではなく、たとえば鉄に浮いた錆による模様や硫黄の痕といったディティールのなかに「読み取れる」ように感じる。つまり彫刻がなにかの物語に基づいたかたちをしているというのではなく、「物語」は彫刻の内部に存在する。それは特定された物語ではなく、見るものの想像力によって無限の可能性を持つ「物語」だ。
若林の彫刻の持つ強烈な異物感とストイックな佇まいが、見るものの想像力の射程を極限まで拡張するのだと考えられるが、「その感覚」を言語化するのは難しい。蟻のような視点で彫刻のなかに「入って」その表面を巨大都市のように辿り、目の前に置かれた見知らぬ物体によって変貌された空間を「引いて」眺める。ミクロ/マクロの振幅の大きい視点移動のなかで、作者の手による作為なのか、それとも自然による痕跡なのか判別のつかない多彩なディティールを追っていると、「物語」は自然とそこに読み取れてくる。それはやはり「物語」と呼ぶのが一番しっくりとくる感覚で、だから自分にとって若林奮の彫刻は、無限の奥行きをもった景色のようにも見え、汲みつくせぬ書物のようにも見える。
以前「物語の彫刻」と題された展覧会が開催されたとき、「物語=具象」という狭い考えにとらわれた展示内容を見て、ひどくがっかりさせられた記憶がある。「何を象っているか」という表面上のモチーフのレベルで、彫刻や絵画で表現できる世界が留まってしまうなら、なんとつまらないことだろう。「フォトジェニック」でおしまいならば、それは飾り物以上のものにはなるまい。
優れた作品はそれが象っている形象や内容以上に、そのなかに無限の世界を現前させる。無限の可能性をそのなかに秘めている。若林奮の彫刻は、その最たる例だろう。
そして、コイズミアヤの作品にも、それと似たようなものを感じる。
つまりそれらの作品が「なにに見えるか」とか「なにに似ているか」といった表面的なかたち以上に、たとえば風景を模したミニチュアな景色が、ぱたんぱたんと閉じられて、四角い「なにもない」箱へと戻った瞬間に覚えるあの驚き(実物を見たことがないので想像だが、プラド美術館にあるヒエロニムス・ボスの『快楽の園』の両翼が閉じられて、あの天地創造時の地球の絵があらわれたとき、きっと同じような感覚を抱くのではないだろうか?)や、組み立て式の作品が、音もなくすっ、すっと嵌まるべきところに嵌まり、また分解されて取り出されるあの「滑らかさ」のなかに、コイズミアヤの彫刻の「かたち」はあると思うのだ。
それらは目に見えている具体的なモチーフや形態を越えて、言葉にも、形にもできない「かたち」を、そこに現前させている。
そして、もし「宇宙の外側にある宇宙」といったものにかたちがあるとすれば、それはこんなかたちなのではないかと、ミニチュアサイズの小さな彫刻を手にしながら、想った。
コイズミアヤ展「組み立て/Overflow(コップの水があふれる様について)」
ギャラリー椿(2011年7月23日−8月6日)
http://gallery-tsubaki.jp/2011/0723/07023.htm
2011年08月04日
彫刻のかたち
posted by at 21:45| 日記