2009年06月30日

藤本なほ子「遺跡」

高層ビルの最上階に位置する企業系の広大な美術館では高い入場料払って見た展覧会のあまりの内容空疎なさまに心が冷め、最近できたばかりの話題のコマーシャルギャラリーでは青田買いブームの副産物の見本のような稚拙な売り絵に辟易し、梅雨の間の猛暑のなかせっかくの貴重な週末を費やして歩きまわった成果がこれかと帰途に付く途中、たまたまその前を通りかかったからという理由で入ったギャラリーで見たのがこの展覧会だった。

展示室に入ってすぐ脇の壁面には、子どもが描いたと思しき落書きが壁一面に貼ってある。画用紙に色とりどりのクレヨンで殴り描かれたそれらのほとんどが「絵」になる以前の形象の定まらぬ「筆跡」の段階に留まっている。まだ言葉も覚えぬ低年齢児の描いたものなのだろうか。筆触は激しくとも、その表現へと託された「自我」の臭いはほとんど感じられない。
その他の壁にはB5〜A4サイズほどの紙が横一列に貼ってあり、それらのすべてには手書きの文章が書いてある。その内容は、プライベートな内容の手紙、日本文学の講義録と思しきノート、面接の心得、図解付きストレッチの方法など、バラバラかつ存在理由(展示理由)が皆目見当の付かぬものばかりである。
クレヨンによる色彩の乱舞は目に鮮やかで空間を彩っているし、手書きのメモの存在は一見情報の豊富さを保障しているようにも思える。しかしその内実は、観客に与えられた情報の極めて少ない「難解」な展示である。耳の奥で低く鳴り響く正体不明の重低音のように、なにか気にかかって仕方のないものが確かにそこにあるのだが、そのナニカの正体はなかなか掴めない。錯覚と紙一重の違和感に満ちた空間のなかで、観客に与えられた唯一の手掛かりは、さりげなく(ほんとうにさりげなく)壁に貼られたDMのその裏面に記された一行の説明文「他人の筆跡を写した紙、その他のインスタレーション」だけだった。

そう、これらの手書きの文章はすべて、作者が作者以外の他人が書いた文章をトレースしたものなのだ。子どもの落書きのように見えた絵も、実際に子どもの描いた落書きを作者がトレースし再現したものらしい(トレース方法は確認していないので不明)。
確かによくよく見てみるといわゆる「子どもの描いた絵」とはどこか違う。そこにはなにか目には見えない「ズレ」がある。それは「子どもが描いた絵のように大人が描いた絵」とも異なる。あらゆる属性のニッチに嵌り込んでしまったような「どこにも属していない感」がそこには漂っている。(昨年銀座芸術研究所で見た中原浩大のスケッチブックとどことなく既視感があるようにも感じた。)
手書きの文字も、固有の文脈から引き剥がされて場違いの場所に連れて来られた違和感だけではなく、その「筆跡」そのもののなかにもなにか「ズレ」が含有されているように感じる。それは思い込みや錯覚の狭間に消えてしまいそうなほど微細な違和なのである。展示における独りよがりや不親切さと紙一重のストイックさは、この微細な「ズレ」を掻き消してしまわぬための配慮なのだろう(展示室にDMを貼り出したのも試行錯誤の末、会期の途中の途中から始めたのだと作者が他の客に説明しているのを小耳に挟んだ)。

正直この展示の面白さを言葉で伝えるのは大変むずかしい。なぜならばその言葉にできない「かそけき違和」にこそ、この作品の面白さはあるからだ。微かな亀裂から空間が徐々に蝕まれ歪みが拡大していくように、気付くか気付かぬかその紙一重の線上にある繊細な違和感が、やがては展示室全体を「この世界」から隔絶した見知らぬ異世界へと異化していく。
おそらく「その感覚」こそがすべてなのだ。この展示に注ぎ込まれたすべての労力は「それ」を実現するために費やされていると言っていいのではないだろうか。そしてその「亀裂」に気付いた瞬間、世界は反転しているのだ。
しかしそれは気付くか気付かぬかわからぬほどの「微かな亀裂」だからこそ起こり得るマジックなのである。そのフラジャイルさを維持するためにこそ、作者は作品と「それをめぐる言葉」を扱う手捌きを、極限までソフィティスケートさせる必要があったのだろう。

ところで、先に書いた「企業系の美術館で見た内容空疎な展覧会」というのは他でもない森美術館で開催中の『万華鏡の視覚』のことなのだが、そこで一番俺の心を冷やしたのは空疎な内容の作品群よりも、むしろそれら中身のカラッポの作品をさも中身があるかのごとく取り繕う解説文のほうだった。
それらの文章が論旨が乱れて意味不明であったとか、極端な悪文であったとか、そういった問題ではない。むしろこうした現代美術作品に付される解説文としては質的にも形式的にもごくスタンダードなものだったと言えるだろう。
しかしそれは「作品」に付される文章としては、おそらく最悪の部類に入るものなのだ。そして問題は、それが例外的なものではなく、現代の美術界では「スタンダード」であるという事実にこそある。

あきらかに誰が見ても内容空疎な胡乱な作品にも、まるで「アリバイ作り」のようにそれがそこ(美術館)にあることを弁明する文章がもれなくセットで付いてくる。それが、現在「アート」と呼ばれるもののスタンダードな形態である。誰もそれを疑問に思わないし、むしろその形態を取らぬものは「アート」として認識されにくい。いや「その形態」こそが「アート」であると定義されているのかと錯覚してしまいそうになるほどだ。
しかしそこでおこなわれていることは、結局は「言葉」に対する冒涜なのだ。冒涜はそこで語られる内容の粗雑さというよりも、むしろ言葉の扱いの粗雑さによってこそおこなわれている。本来ならば作品自体を破壊してしまいかねない「作品に対して言葉を重ねる」という細心の上にも細心を重ねておこなわれるべき行為は、作品を「アート」として成立させるための「必要条件」として、まるでオートメーション化された作業の一環のようになんの躊躇いも疑いもなく無造作かつ無神経におこなわれる。それは「伝えよう」とする行為であるというよりは、むしろ「言いくるめよう」とする強弁に近い。詭弁によって「アート」が生成され、死んだ言葉で語られるカラッポの作品が「アート」という概念を腐らせていく。

藤本なほ子の今回の作品を『万華鏡の視覚』的な(つまり現代のスタンダードな「アート」の文脈における)文章で「説明」するとしたら、きっと他人の筆跡をトレースするという「行為」の意味へとスポットを当てたものとなるだろう。それが一番ワカリヤスイからだ。しかし実際は、むしろそうした安直な言葉による「理解」を拒む繊細さにこそ、彼女の作品の本質は隠れている。
他人の筆跡をトレースする「行為」も、「アート」であることのアリバイ作りのような胡乱な理由付けからではなく、むしろ「そこに山があるから登る」という登山家心理のような純粋でフィジカルな欲求をも作品からは感じ取ることが出来る。理に先走ってコンセプチュアルであること自体が唯一の存在意義になっているような作品とは、彼女の作品はあきらかに一線を画している。

現在の「アート」の文脈においては、「○○をしているから面白い」「○○をしているから意味がある」とその行為自体の「意味」の価値付けによって作品全体を判断してしまうような貧弱な批評や価値観がまかり通っている。しかしある意味それは「見る」というもっとも基本的な作業をサボタージュした怠慢な批評家や作者や観客による児戯に過ぎないのだ。だいたいそんな単純な「読み解き」だったら猿でもできる。
もし藤本の今回の作品を、単純に彼女の「他人の筆跡をトレースする」という「行為」だけを取りだして、それを現代思想の文脈で味付けして「批評」として文章化したらどうだろう? いかにもありそうな「アートレビュー」や「作品解説」のかたちだが、おそらくそれは彼女の作品の本質からはもっとも遠ざかったものとなるだろう。今回彼女が全力を挙げて作り出したのであろう「かそけき違和」は、型通りの「意味」の「解釈」のなかでは掻き消されてしまう。一見もっともらしい論理のなかで、本来もっとも重要なはずである「見る」という行為から導き出されるものが、そこでは欠落している。
いや「一見もっともらしい論理」こそを疑うべきなのだ! 彼女の展示が示して見せていたのは、まさにそのことなのかもしれないのだ。にも関わらず、『万華鏡の視覚』展の解説プレートやその他あらゆる現代のアートについて語られる場所では、その種の「見ないでも書ける」ような文章ばかりにお目にかかる。
俺に言わせればそんなものは「批評」でもなんでもないし、「自分の目で見る」ことをサボっているだけでなく「自分の頭で考える」ことも停止した人間の戯言にしか思えない。しかし現在「批評」の名のもとにおいて、「アート」の名のもとにおいて為されている「見ること」と「語ること」とは、せいぜいそんなレベルのものばかりなのだ。いい加減我々はそろそろ目を覚ます必要があるのではないか?

藤本なほ子の今回の展示の「面白さ」を理解するためには、当然言語化が不能なレベルにおける感知が必要となる。そしてそれは言葉で「説明」してしまった瞬間壊れてしまうような危うい均衡によって保たれている。だからその「面白さ」を言葉によって伝えようとするこの文章のような試みは、ある意味無謀なのかもしれない。しかし俺もまた、これを「登山家心理的な欲求」に基づいて書いているのである。言葉では表現できない対象であるからこそ言葉によってその閾値に近付こうと試みる。本来作品と言葉をめぐる関係とは、その到達不能な一点をめぐっての鬩ぎ合いとしてしか展開され得ぬ種のものなのではないだろうか?
言葉による「説明」こそが作品の成立条件であるかのごとく無批判に前提化されている現在の「アート」は、おそらく本来のアートの姿とはもっとも遠い場所にある。ほんとうに優れた作品だけが、我々がいかに「間違った場所」にいるかを再認識させてくれる。

地道な画廊廻りなど滅多にしない俺にとっては稀なことではあるのだが、それでも偶然こうした展覧会に巡り逢えると、日々氾濫する粗雑な言葉やアブクのような「アートもどき」に疲弊しきった心がリセットされ、ふたたび勇気がわいてくるのを感じる。
唯一悔やまれるのは「ほんとうは見なくちゃわからない」この展示を、最終日の終了時間間際に見たが故に誰にもその情報を伝えることのできなかったことだ。



藤本なほ子「遺跡」
MUSEE F(2009年6月22日〜27日)
http://omotesando-garo.com/museef/MF.html

posted by   at 20:55| 日記