2016年12月25日

名付けられなかったもの

 名前を付けるという行為には呪術性がある。創世記にしろ、古事記にしろ、世界の始まりを書いた古代の書が「名前の由来の話」に溢れているのを見れば、「名前を付ける」という行為自体が我々の文明や世界認識の始点にあろうことは容易に想像がつく。
 名前を付けることと名付けられる対象の関係は「鶏と卵」の関係にも似ている。名付けられる対象があるから我々はそれに名前を付けるのか、それとも名前を付けるから名付けられる対象が生まれる(見出される、認識される)のか。

 美術の世界でもさまざまな「名前を付ける」という行為が行われる。もっとも頻繁に行われるのは制作者が自分の作品に題を付ける行為だろうが、もっとも影響力を持つ(人目を引く)ものは様式やムーブメントへの「名付け」だろう。
 美術史を見回すとたくさんの様式やムーブメントの名前が見出せる。そのなかには「印象派」のように批判者によって揶揄的に付けられた名前もあれば、「未来派」や「シュルレアリスム」のように当事者が戦略的に名乗ったものもある。
 それらの名前がそれぞれの様式やムーブメントに対して果たした役割は様々だ。たとえば「印象派」という名前が与えられなくとも、印象派の画家たちは彼らの革新的な作品を制作していたに違いない。しかし、彼らの絵に「印象派」という名前が与えられなかったら、その後の美術史は違ったものになっていたかもしれないと想像することはできる。名前の呪力はなかなかに侮れないのだ。

 さて、この忙しい年末になぜこんなことを考えているかと言えば、実はある展覧会を見たからなのである。それは埼玉県立近代美術館で開催中の「日本におけるキュビスム―ピカソ・インパクト」だ。


 「1950年代の日本になんか妙に面白い絵がある」と気付いたのはいつ頃だっただろう。通説では当時の二大潮流は抽象絵画とシュルレアリスムだとされているが、その両者を合体させたような「有機的な抽象体」が怪物のように跋扈する作品が、その時期の前衛絵画の中に多く見られるのである。それらの絵には乱舞する抽象形態と共に、60年代以降の現代美術が失っていた具象性と、突き抜けた想像力と、そしてなによりも爆発的な生命力が満ち溢れている。コレハイッタイナンナンダ? なぜこの作風の作品はこの限られた時代にだけあらわれるのか? そしてなぜ断ち切られたかのようにこれ以降の時代からは消えてしまうのか? イッタイこれらの絵はどこからやって来て、どこへ去って行ったのか?
 もともと《浴室》や《物置小屋の出来事》などに代表される河原温の初期作品に興味があり、それらの作品が生み出されたバックグラウンドに対するぼんやりとした興味も持っていたのだが、「1953年ライトアップ展」(目黒区美術館 1996年)あたりから、どうも1950年代前半〜半ば頃に「その作風」に類する作品を描いていた若い画家たちが多く生息していたことに気付き始める。その「〈具体〉とは違う1950年代の別の動向」に対する興味は「戦後美術を読み直す 吉仲太造」(渋谷区松涛美術館 1999-2000年)で見た吉仲の初期作品にハマって決定的なものになった。
 折に触れて自分でも調べてみた結果、「その作風」の絵を描いていた画家たちがグループを組んだり展覧会を共にしたりして活発に交流しあっていたことや、当時の前衛画壇の旗振り役だった岡本太郎の影響なども大きそうなことなどがポツポツと見えてはきた。しかしそれだけでは美術史の流れのなかで孤絶して見える「それ」の充分な説明にはなりそうもない。
 近年では「勅使河原宏展」(埼玉県立近代美術館 2007年)、「芥川紗織展」(横須賀美術館 2008年)、「池田龍雄―アヴァンギャルドの軌跡」(川崎市岡本太郎美術館 2010年)と当時「その作風」の作品を発表していた作家の回顧展も続き、2012年には待望の50年代をテーマにした展覧会「実験場1950s」が東京国立近代美術館で開催された。しかし結局そのいずれでも「解答」を見出すことはできなかったのだ。

 ところが、ここに来てその「解答」を高らかに謳う展覧会が現れたのである。なんと「それ」は「キュビスム」だったというのだ! 確かに以前から1950年代と同様に1920年代あたりにもなんとなく惹かれるものはあったのだが、まさか両者を繋ぐものが「キュビスム」だったとは!! 目からウロコとはまさにこのことである。
 展覧会のポスターを飾るのは他でもない吉仲太造の初期作である。ついに二十年越しの謎が解けるかと、見に出かける前から既に興奮はMAX状態だった。

 ところが、なのである。結論を先に言うならば、「謎」は解けたのか、解けなかったのか、いまひとつ微妙だったのだ。得るものがなかったわけではない。確かに得るものはあったのだ。しかしそれは事前に想像していたのとはだいぶ違ったかたちで与えられたのだった。


 本展の展示は二部構成になっている。第一部で1920年代を中心にした日本におけるキュビスムの受容の様相を紹介し、インターバルにキュビスムの始祖であるピカソとブラックの作品展示を挟み、いよいよ続く第二部で1950年代におけるキュビスムの「リヴァイバル」が展開される。

 そのうち第一部はたいへん面白くて、興味深く見たのである。
 集められた画家たちはキュビスムへの理解の程度もバラバラ。受容の場所もバラバラ。現地で直接習得した者もいれば、印刷物などの情報のみから学んだ画家もいる。その結果として作品の質も、素材も、作風も作家ごとに(作家によっては制作時期ごとに)異なる多種多様な作品が並べられている。
 しかしそれら多様な作品のなかには「キュビスム」という語で串刺される共通するナニカが存在することが確かに見て取れるのだ。それは新しい芸術に対する熱気なのかもしれないし、それこそ「キュビスム」という語のもたらした魔法なのかもしれない(ただし「未来派」と混合している部分はあるが)。単独で見たらさほど気に留めなかったかもしれない作品も「キュビスムの受容」という視点を通すと、各々の個性や隠れていた魅力が面白いように浮き出てくるのである。当時のキュビスムへの理解は確かに浅いものでしかなかったかもしれないが、その熱が残した痕跡はそれから百年近くを経た我々の目にも実にさまざまなことを伝えてくれるのである。

 それと対照的なのが第二部だった。「キュビスム」が巻き起こした旋風の余波が未だ感じられるかのようだった第一部に対し、第二部の展示はなんとも捉えどころないぼんやりとした印象しかもたらさないのだ。率直な感想に変換すると、つまり「面白くない」のである。
 しかし個々の作品や作家の顔ぶれを比較するならば、自分の関心的にも第二部は第一部に圧倒的に勝るのだ。「あの作風」の頂点に位置すると自分が考える河原温、吉仲太造を筆頭に、河原らとも近い関係にあった池田龍雄、芥川沙織、「あの作風」の始祖的存在でもある鶴岡正男、阿部展也、岡本太郎、そしてその他にも福沢一郎、小山田二郎、漆原英子、村上善男、飯田善國、難波田龍起、吉原治良、小野木学、三上誠、山田正亮、堂本尚郎、今井俊満、松本竣介、山口薫、高山辰雄、堀内正和…と、とにかくスゴイ顔ぶれなのである。しかも第一部の作家たちの境遇がバラバラだったのに対して、彼らは基本的に同じ場所で、同じ時代の空気を吸って制作していた作家たちなのだ。しかもその空気はあの1950年代の空気なのである。当然集められた作品からは凄まじい熱気が沸き上がっているかと思いきや…あにはからん、このなんともとらえどころのない「ぼんやりした感じ」はなんなのか?

 本展の第二部は、1951年の「ピカソ展」がきっかけとなって当時の画壇にピカソ・ブームが起こり、ピカソを通してキュビスムの日本における第二次受容が広まったという仮説に基づいて構成されている。
 展覧会の図録に寄せられた論稿の中で本展の企画者の一人でもある尾崎信一郎氏が説くところによれば、大正期においてキュビスムは単なるスタイルとして受容され、手段としての意味しか持ちえなかったのに対して、1950年代の第二次受容ではキュビスムが手段ではなく目的として採用されているというのである。つまり当時の日本の美術家たちは、キュビスムの画面におけるファセット構造が空間を閉塞させ画面を硬化させるという特徴(欠点)を、時代の閉塞感と不安の空気を表すことに使用したのではないかと言うのだ。聞いてるだけで胸がワクワクするような興味深い仮説である。
 しかし基となった仮説の面白さのわりには、それをもとに集められた作品は、先にも書いたようにとらえどころのない「ぼんやりした感じ」しかもたらさないのだった。

 その原因となっているものを二つ指摘できる。
 一つ目の問題は、確かに集められた作品には皆ピカソからの影響やキュビスム的な要素が認められるのだが、「ピカソ・インパクト」と銘打つほどにはそれらの影響が塊として感じられないということである。なんというか作品ごとにその表現の内にある「ピカソ的なもの」や「キュビスム的な要素」をひとつひとつ見つけ出していくような、そんな感じなのだ。
 そもそもこの時代の作品に広範な「ピカソからの影響」や「キュビスム的な要素」が認められるとしても、その源泉を1951年の「ピカソ展」のみに求めること自体があまり説得力をもたないのではないだろうか。尾崎氏自身も「一九五一年のピカソ」からの影響がかならずしも「キュビスム」であるとは限らないという問題に自ら触れ、それを補うためにピカソ作品のうちでも特に参照された《ゲルニカ》を通じて「ゲルニカ風」のキュビスムが一つの流行として取り入れられたのではないかとしている。
 しかしそうであるならなおのこと「ピカソ・インパクト」の始点を1951年の「ピカソ展」に求める意味が理解できなくなる。《ゲルニカ》日本への紹介は1951年を遥かに遡るし、岡本太郎などは「絶え間なく宣伝した」とも言われている。現に発表当時から「あまりにも《ゲルニカ》でありすぎる」と批判されていたという山本敬輔の大作《ヒロシマ》(1948年)が本展には出品されているのだ。「ピカソ風」の作品が40年代末頃から散見されることについても右に同じである。もしかしたら1951年の「ピカソ展」を機にその数や幅が飛躍的に拡大したという事実があるのかもしれないが、少なくともそれは本展の展示からは伝わってこない。

 さらに言えばこれらの作品に見られる「キュビスム的な要素」の直接の源泉を、ピカソや《ゲルニカ》のみに求めるのも無理があるのではないか。確かにキュビスムの根を辿っていけばピカソに辿り着かざるをえないのだが、しかしピカソがキュビスムの始点となる《アビニヨンの娘たち》を描き上げてからこの時点で既に四十年以上の時が経っているのである。《ゲルニカ》の発表でさえ十四年前である。つまり当時の作品に「ピカソ的なもの」や「キュビスム的な要素」が認められるとしても、それがピカソの作品から直接影響されたものとは限らないのだ。
 現に尾崎氏は河原温の《浴室》を「キュビスムの日本的な受容と変容の極点」として位置付けているが、その河原や、あるいは自分が河原と並んで最も高く評価する吉仲太造などは、本展の出品者の中でもとりわけピカソからの影響の痕跡が見えにくい作家なのである。彼らの作品の中に「ピカソ的なもの」や「キュビスム的な要素」を見出したとしても、それは1951年の「ピカソ展」の余波というよりも、たとえば岡本太郎の作品などを通した間接的なものである方が可能性は高いのではないだろうか。少なくともその受容のきっかけを一つの展覧会に求めるよりも、二次的、三次的なものを含め複数の源泉を想定するほうが妥当であるように思えるのである。

 おそらく1950年代の作品に広範に見られる「ピカソ的なもの」や「キュビスム的な要素」は、一つの展覧会を契機として爆発的に広まったようなものではなく、もっと時間をかけて、様々な方法で、静かに根深く伝わっていたものが、たとえば「時代の空気を描く」という目的を見付け地中から一斉に頭をもたげるような、そんなかたちで表れたのではないのだろうか。大正期のキュビスムが単なるスタイルとしての受容されたのに対して1950年代のキュビスムは目的として採用されたという本展の仮説と照らし合わせても、一つの展覧会をきっかけに爆発的に広まるというかたちはむしろそぐわないように思われる。
 どうも自分には、日本における第二次キュビスム受容を「ピカソ・インパクト」と銘打って、その起点を1951年の「ピカソ展」に置こうとする本展企画者の姿勢の裏に、それを1956年の「世界・今日の美術展」を起点に日本の美術界を席巻した「アンフォルメル旋風」と比較し、重ねようとする意図が透けて見えるような気がしてならないのだが、そもそもその両者の伝播の実態はまったくの別物だったとしか思えないのである。

 つぎに本展の第二部を覆う「ぼんやりした感じ」の二番目の理由として挙げられるのは、「キュビスム」を共通要素として作品を集めた結果、あの時代の作品にのみあった特異性や時代の空気感が薄まってしまったことだ。
 たしかにこれまで時代背景や社会運動との関連にのみ特化して語られてきたこの時代の作品を、主題ではなく形式的な側面から分析することは有用であるには違いない。しかし結果的にリアリズム的なものやシュルレアリスム的な要素を削ぎ落してキュビスム的(モダニズム的)な部分のみをピックアップしたことが、この「ぼんやりとした感じ」へと繋がっているように思われるのである。つまり先に見たように本展企画者はキュビスムの様式が画面を閉塞させ硬化させるという特徴を、1950年代の日本の画家たちは時代の閉塞感と不安の空気を表わすことに使用したと仮説しているわけだが、しかしキュビスムだけを共通項に作品を集めるとその肝心の「時代の閉塞感と不安の空気」が消えてしまうのだ。あの時代特有の「熱さ」や「息苦しさ」といった特徴が薄まってしまい、別にどの時代のどの場所にあってもいいものであるようにさえ見えてしまったのである。

 結局当時の作品のうちに認められる「あの作風」とか「それ」と自分が呼んでいるものは、キュビスム的なものに表れるモダニズムによる造形意識と、シュルレアリスム的な想像力の奔放な飛躍と、リアリズムや社会運動との関わりに見られるような時代の空気の熱がごちゃまぜになり、ミックスジュースのような状態になって初めて生まれるものなのかもしれない。「ピカソ」や「キュビスム」はいわばそのミックスジュースの材料のひとつのような存在だったのではないだろうか。それ自体はジュースの味を決定するのに不可欠な材料で、これまで顧みられてこなかったその材料に注目するのは有用なことかもしれないが、しかしそれだけを抽出して取り出せば、元のジュースが持っていた味わいは当然消えてしまうのである。


 思うに、本展においてもっとも見るべきものは第一部と第二部の「落差」にこそあるのではないだろうか。そして、その落差のなかにこそ第二部の展示を覆う「ぼんやりした感じ」の最大の正体も隠されているように思うのだ。
 つまりあまりにもあきらか過ぎる問題の根幹は、第二次受容の当時「それ」を指す名前として「キュビスム」という語が使われていなかったという事実に尽きるのではないだろうか。
 第一部に展示される受容の場所も、理解の程度も、作家の資質や関心もバラバラな多種多様な作品が、「キュビスム」という語によって串刺されて輝いて見えるのは、まさにそれらの作品が皆「キュビスム」という語の呪力によって生まれたからに他ならないだろう。「キュビスムの理論」によって、ではない。「キュビスム」という名前によってなのだ。それは当時の日本においてフォーヴィスムとキュビスムといったまったく違った芸術様式が、なんの矛盾もなく一人の作家に受容されている様を見れば一目瞭然である。彼らの制作を突き動かしたのはそれらのモードの「内容」よりも、それが本場ヨーロッパから輸入された最新の芸術様式であるという事実自体、つまりその「名前」の呪力によってなのだ。だからこそその名前を共通項にそれらの作品を一堂に集めたとき、我々はその名の熾した熱の痕跡を明確に認めることができるのである(村上知義のように「ダダ」や「構成主義」といった他のモードの名前が先に立つ作家が、この展示のなかでは若干「ぼんやりとして」見えるのはその証だろう)。
 翻って第二部に展示される作品における「キュビスム的なもの」は、「キュビスム」という名前の呪力によって広まったものではない。本展で仮説されるように、ピカソ・ブームによって再度受容されたそれが時代の空気を表現するという目的のために採用されたものだったとしても、そこに「キュビスム」というその動向を串刺すための言葉がなかったという事実はあまりに大きいのだ。つまりキュビスムをスタイルとしてのみ受容し、その名前自体が作者たちを創作に向かわせるエネルギー源でもあった大正期と違い、内的必然性によって無言のうちに採用された1950年代の「キュビスム的なもの」は名付けの必然性に乏しいのである。そして六十年以上を経てからの「名指し」は、結果的に当時の「名前の欠如」を浮き上がらせるだけだったのだ。

 論稿のなかで尾崎氏は日本のキュビスム受容における当時の美術批評の「無残な失敗」を言うが、確かに本展でなされているような指摘が当時からされ、そしてなによりも「キュビスム」の語を含む呪術性のある名前がそれらに付けられていたならば、本展第二部に並ぶ作品の見え方はまったく違ったものになっていたに違いない。 
 しかし現実は「ルポルタージュ絵画」や「密室の絵画」といった一部の動向をのみ指す名前や無数のグループ名こそあったものの、動向全体を串刺すような名前は当時存在しなかったのである。「キュビスム的なもの」をも含む「それ」は、「名付けられないもの」としてそこに存在していたのだ。
 そして名付けられることのないままその場に渦巻いていた巨大なエネルギーは、フランスから山師的才能に満ちた評論家ミシェル・タピエが携えてきた「アンフォルメル」という名前(呪文)によって、いっせいに一方向へと向かって流されていくに至る。その激流のなかでモダニズムも、リアリズムも、シュルレアリスムも、すべて過去の遺物として否定され、時代は「非定形」からさらに「非造形」へと一気になだれ落ちていくのである。名付けられなかった「それ」は、歴史の場からも、個々の作家の作風からも消え去り、そして忘れられていったのだ。


 もし当時「それ」に時代の動向を串刺すような呪術的な名称が与えられていたら、歴史は変わっていただろうか? たしかに「それ」が適切に名付けられていれば、その後の日本の美術は違ったものになっていたかもしれない。
 しかしこういう考え方もできるのではないだろうか。すなわち「それ」は、名付けられなかったからこそ可能だったのではないか、と。

 言うまでもなく日本の近代美術は西洋の様式を倣うことによって生まれた。倣ったのは作品の様式だけではない。それにまつわる制度や、「美術」という概念自体も西洋の様式に倣って作り変えられていったのだ。
 重要なのはそこで「モードの名前」で作品を見て判断する方法も同時に学んだことではないだろうか。近代以前の土佐派、巨勢派、狩野派…など「流派の名前」によって絵師や作品を分類するやり方に慣れた目には、「モードの名前」で作品を判別して美術史に位置付けていく方法は新鮮に映ったに違いない。それ自体が「美術」の本質だとして取り違えられたとしてもおかしくないだろう。近代以降の欧米の美術史を見る限り、その理解はあながち間違っていないとも言えるのだが、やみくもに新しいモード(の名前)の輸入に躍起となったこの地において、その傾向がより先鋭化されたとしても不思議ではない。
 たしかに名前の呪力は凄まじく、それ自体が物事を動かすエネルギー源にもなる。内実が伴っていなくとも「新しいモードの名前」の威力だけでシーンが形成されてしまうほどの影響力を持つことは、大正期におけるキュビスムの受容の実態を見ればあきらかだろう。
 しかしその結果として美術史が、いや「美術」それ自体が「モードの名前の連なり」として受け止められ、作品の評価軸が「名付け」と「モードの名前の連なり」への紐付けだけになってしまったのではないだろうか。曰く、「これは物を扱っているから『もの派』だ!」、「いやもの派の本質はむしろ『シュルレアリスム』だ!」、「いやいや物との関係が主だから『リレーショナル・アート』の先駆だ!」…といったような具合である。
 当然ながら「名付けられなかったもの」や「モードの名前の連なり」に紐付けされないものは見えなくなり、歴史から消え、なかったことになってしまう。

 1950年代の日本に見られる「それ」としか名付けられない一連の作風は、大正期のキュビスムのような「モードの名前」の呪力ではなく、様々な要因が化学合成して自然発生的に生まれたものだったに違いない。新しい時代の多様な芸術理論や様式、時代の空気、異ジャンルも含めた盛んな交流、社会運動への目覚め、その他その他がごちゃ混ぜになって場に溜まったエネルギーとなり、恣意的な方向付けをされないまま吹き出すようにして生まれたものだったからこそ、多様な要素を持ちつつも、そのなかに時代の空気を確実に孕んだ共通性も認められるのだろう。
 その意味では「それ」の独自性は、「名付け」や「モードの名前の連なり」への紐づけによってその方向性を一元化されなかったからこそ生まれえたのだとも考えられる。つまり当時もし「それ」に名前が与えられ「モード化」されていたならば、今我々がそれらの作品に見る独自の輝きは失われてしまっていたのではないだろうか。歴史から掻き消されることを代償に、「それ」は「名付けられなかったもの」だけが放ちうる輝きを現代の我々に伝えているのかもしれない。

 おそらく美術の歴史の広大な平野のなかには、名付けられないまま不可視の存在として潜む膨大な数の群れが存在するのだろう。それらを可視化し、正しく評価するためにはどうすればいいのだろうか?
 本展のように現代から遡って新たに名前を与え「モードの名前の連なり」に紐付けて再評価するという方法も、確かに一定の有用性はあるに違いない。しかし本展がはからずしも示していたのは、そのやり方の限界でもあったのではないか。
 むしろ我々がしなければならないのは「モードの名前」のみで物を見る美術史観から脱却して、「名付けられないもの」や「名付けられなかったもの」をも評価しうる新たな視座を手に入れることではないだろうか。
 もちろんそれは容易なことではないだろう。たとえば個々の作家単位、作品単位の評価あっても、やはりそこには基準となる評価軸が必要となるからである。「モードの名前の連なり」ではないまったく別の新たな評価軸こそが構築されるべきなのかもしれない。

 とは言え、その評価軸が確立されたら確立されたで、それに基づいて「名付け」が始まり、結局また別の「名前の連なり」が作られるだけなのかもしれないが。
 かくも「名前」の呪力は侮れないのである。


「日本におけるキュビスム―ピカソ・インパクト」
埼玉県立近代美術館(2016年11月23日〜2017年1月29日)
http://www.pref.spec.ed.jp/momas/?page_id=335
posted by 3 at 17:24| 日記