2016年04月24日

追記:「絵画」と「イラストレーション」と安田靫彦

 結局、東近美の靫彦展は二回行った。展示替えの最前期と最後期に充てたので、ほぼ全作品を見られたはずである。しかしそれにしても酷いキュレーションだ。二回目は展示に煩わされないよう作品を見ることだけに集中しようと思っていたのだが、それでも流れを掴むためにはどうしても全体にも目が行かざるをえなくなる。展示替えが多いことも理由しているのだろうが、ここまでなんのセンスもなく意味もない絵の並べ方をしている展覧会も珍しいのではないか。せめて制作年順の並びに徹してくれているのならばまだしも、作品に内容に関係なく無意味にシャッフルされている部分が多々あり、見ていて非常にストレスが溜まる。絵の解説などもあきらかに足りておらず、作品の魅力を伝えようという努力に著しく欠けた近年見たうちでもかなり劣った部類に入る展覧会である。
 それでも二回見に行けたことはとても良かった。一回目には気付かなかったことも多く発見でき、前回書いたことへの再考を迫られる事項も見付かった。ちゃんとまとめている暇がないので、とりあえず今回気付いた点だけをメモとして記しておく。


○安田靫彦の画歴に見る「絵画」の変遷

 今回の展覧会の出品作品から「絵画」をキーワードにして靫彦の作品の変遷を辿ると、きわめて大まかにだがだいたい以下のようになると思われる。
 まず画家を志した当初、十代半ばの頃の作品は「イラストレーション=物語絵を描くこと」にのみ専心していて絵としては平板である。大画面、絹本着色、軸装など「絵画」としてのフォーマットは備えているものの、絵の種類としてはまだ挿絵の延長線上にあると言える。
 それが最初の師である小堀鞆音のもとから足が遠ざかるようになって眠草の画号で描いた作品《遣唐使》(1900年)あたりから徐々に画面に「絵画」的な深さを求め出してくる。「イラストレーション」として主題を描きだすことだけではなく、画面中に通う空気感の描写などにも関心が向いてくるのだ。おそらくこの時期の作品は、作者である靫彦の意識としては例えてみれば2D画面から3D画面へと進化していくような感覚だったのではないだろうか。画面の持つ空間自体がどんどんダイナミックに深まっていくのである。その深化は靫彦二十二歳の作である《松風》(1906年)あたりを頂点とする。
 その後靫彦の関心は画面空間自体の深化から、より表面的な画風や描法へと移っていく。大型の代表作だけを取り上げても《夢殿》(1912年)、《羅浮仙》(1915‐16頃)、《天台仙境》(1917年)、《御夢》(1918年)、《日食》(1925年)、《居醒泉》(1928年)、《風神雷神図》(1929年)と、すべて異なる画風、技法で描かれている。展示替えされた前期の作品をここに含めれば、その作風の幅はさらに広がる。
 この様々な技法や画風を実験的に転じていく時代はだいたい四十代の半ばあたりまで続いていく。推測であるがこの時代の靫彦は、その制作においてかなり明確に「絵画」ということを意識していたのではないだろうか。古典の造形に学びながらも自身の絵を同時代的な「絵画」たりうるものにしようと果敢にチャレンジし続ける姿勢を、自分はこの作風の変遷のなかから感じる。
 技法の実験の振れ幅は二十代から四十代にかけて徐々に狭まっていき、四十代の終わりから五十代に入る頃あたりで靫彦の画風は確立されたのだと自分は考える。そしてこの時期の作品からは、それまであった「絵画」たらんとする意志が少なくとも表面的には感じられなくなってくるのだ。年齢的に言っても、もはやことさらに「絵画」を指向しなくとも自分の絵は成り立つという自信を靫彦はこの時期に獲得したのではないだろうか。
 ではそのとき靫彦の絵において「絵画」に代わって前景化したものはなにかと言えば、それは「工芸」なのである。言うまでもなく「工芸」は近代の日本において「絵画」の概念が確立される過程において、そこから排除される形で新たに形成された概念であるが、前回書いた記事ではそこまでは考えが及んでいなかった。しかし今回あらためて靫彦の絵をじっくり見た結果、「イラストレーション」と並び、「工芸」は彼の作品について考える際にきわめて重要なキーワードになりうると確信するに到ったのだ。
 前回自分は靫彦の絵の特長である「美しい線」や「澄んだ色彩」について、彼の絵における「イラストレーション」の要素と対立する「絵画」的要素に当たるとして記述したが、これはかなり雑な解釈であった。むしろ靫彦の絵におけるそれらの要素は「工芸」的なものとして「絵画」性と相反するものとして捉えるのが妥当だろう。
 では靫彦の絵における「工芸」的な要素とはどのようなものか? たとえば線。画風が確立して以降の靫彦の絵の線はもはや絵画の線ではない。その鉄線描は工芸におけるそれに近いのではないか。あるいは着彩。1940年代あたりの作品から見られる輪郭内で薄く濃淡を付けて塗りつぶす技法は、どこか陶器の染付を連想させる。具体的な作品名を挙げれば《孫子勅姫兵》(1938年)や《天之八衢》(1939年)など。細かい部分に対する体験を記しておけば《花づと》(1937年)や《小鏡子》(1947年)における女性の髪の毛の部分の描写に「キュンっ」とする感覚が、工芸作品に「キュンっ」とする感覚とよく似ていた(漆っぽく見えるからか?)。あとこの時期の作品は、紙本着色と絹本着色の違い(前者は軸装か額装かの違いも)に敏感に気付かされることも、工芸作品に対する感覚を想起させる。
 靫彦の絵における「工芸」的な要素の由来は疑いなく彼が学んだ古典の造形作品にこそあるのだろう。前回書いた彼の超時代的な「絵画」観こそがそれを実現しているのだと考えられる。しかしそれがこの時期に至って殊に前景化した理由は、彼の意識から「絵画」への意識が後退したためではないだろうか。つまり三十歳前後で書いた画論のなかで見られた彼の超時代的な「絵画」観が、それから約二十年ほどの試行錯誤を経て、ついに実制作においても実現されたのだと考えることも出来るのである。
 しかしこのとき興味深いのは、そうした「絵画」への指向が後退し「工芸」性を高めた靫彦の絵を、たとえば陶器への染付として描かれた「工芸作品」だと想像しながら見てみると、途端にあまり面白くは感じられなくなってしまうのである。もちろんその分類が「絵画」であろうと「工芸」であろうと、そこで実現されている絵の内容や技術の高さは変わりがないのだが、しかし「工芸」の作品としてそれを見てしまうと、その技術に感心こそはすれど、ただ「それだけのもの」で終わってしまうような感覚も同時に抱くのだ。
 つまりそこから得られる結論としては、靫彦の絵は「絵画」として見ないと面白くないということなのである。前回指摘した「イラストレーション」性の高さといい、今回新たに気付いた「工芸」的な要素といい、靫彦の絵ほど「絵画」らしくない絵もそうはないのかもしれない。しかしそれと同時に靫彦の絵ほど「絵画」という概念を必要とする絵もまたないのではないか。
 前回書いた記事で靫彦と有原友一の絵の結び付け方がいささか強引過ぎたのではないかと反省していたのだが、しかしこの二者に関連するものを見出した直感自体は正しかったかもしれない。ただ共通するポイントとして指摘すべきものは、むしろこのことだったのかもしれない。つまり「絵画」っぽさからもっとも遠い場所に位置するように見える靫彦の絵と、それとは逆にものすごくステレオタイプな「絵画」に見えてしまいがちな有原の絵が、どちらも「“絵画”という概念がこの世になかったらこの絵は成り立たなくなってしまうのではないか?」と思わせる点において共通しているのである。靫彦の絵は「絵画」的要素を画面から消しつつもなお「絵画」に留まることによってその魅力を発揮し、有原の絵はステレオタイプな「絵画」のイメージに近付きつつも限りなくそこから逃れ続けることで逆に「絵画」性を獲得する。どちらも「絵画」という概念そのものの境界線上を辛うじて進むことでその命脈を保ち、同時に「絵画」という概念自体の姿も顕わにするのだ。


○「絵画」と「ずれ」

 今回、再度展示を見るにあたって注目すべきポイントとして事前に考えていたもののひとつに、靫彦の絵と文字との関係があった。基本的に靫彦の絵には画賛は入らないのだが、彼の絵の古典指向や「イラストレーション」性の高さを考えればむしろ賛がある方が自然のようにも思われるのだ。それがないのはまさに靫彦の絵が近代以降の「絵画」であることの証左に他ならないのだが、しかし例外的にいくつかの作品には署名以外の文字が書き入れられている。今回の出品作で言えば《観世音菩薩》(1924年)、《豊公裂冊》(1926年)、《良寛和尚》(1947年)の三作がそれに当たる。
 この三作を見て思うのは、字の入れ方がいまひとつ「嵌ってない」ように感じられることなのである。たとえば《観世音菩薩》では般若心経が画面左側に五行に渡って書き入れられているのだが、画面上部の空白部分に横いっぱい使って楷書で書いたほうがむしろ「それっぽい感じ」で安定的な構図になるように思われる。現状の文字の入れ方だとむしろ上部の空白部分が目立ち、「文字を入れなかった場合の画面の緊張感」のほうが想像されてしまうのだ。それは《豊公裂冊》と《良寛和尚》においても同じで、なにか書き入れられた文字が浮いて見えるのである。そしてその反動として文字がない状態での絵の空白部分の虚空性の高さが思いやられてしまう。
 実際、《太子孝養像》(1921年 )のように、本来ならば画賛が入るべき部分を空白にした縦長の軸装の絵もあり、入るべき文字の不在から画面内に虚の空間を現出させることこそが、おそらく靫彦の絵としては本来の在り方なのだろう。例外的に文字が書き入れられた上記の三作品は、敢えて文字を画面に完全に馴染ませずに「ずれ」を作ることにおいて、その虚空性を担保しているようにも感じられる。
 文字との関係における絵の空白部の虚空性ということで言えば、その最たる成功例が《六歌仙》(1933年)だろう。色紙の左側に六歌仙の絵(正方形に近いやや縦長の画面)が、その右側に金地の紙に良寛風の字体で書かれた和歌が貼られている。和歌が書かれた紙は絵よりだいぶ小サイズなのだが、面白いのはそれが色紙の中央ではなくやや右上に貼られていることなのだ。つまり左側の色紙に貼られた歌仙の絵からは離されるようなかたちになっているのである。六歌仙の色紙はすべて繋がっているので、右上方に貼られた和歌は距離的に言えばむしろその隣の歌仙の絵により近接していることになる。この対象となるべき絵と文字の微妙な距離な開け方は、この作品においてきわめて有効に効果しているように思われる。その距離感こそが歌仙の背景の何も描かれていない絵の空白部分の虚空性を際立たせているように感じられるからだ。靫彦自身の手による書の流麗な自体との相性も完璧であるこの絵はきわめて「イラストレーション」性の高い作品であるが、それが単なる「高品質なイラストレーション」で終わっていないのも、この歌仙の背景に広がる「虚空」にこそあると考える。つまりそこにこの作品の「絵画」性があるのだ。
 しかしこの靫彦の絵における「本来ならば賛が書き入れられるべき部分の空白」が「絵画」的な深さ(虚空性)に繋がるという構図は、画風を確立させた五十代以降の作品では次第に見られなくなり、代わって《豊太閤》(1944年)、《欄》(1963年)、《女楽の人々》(1965年)のように背景を金地で塗りつぶす処置が目立つようになる。その極端な例が《紅白梅》(1968年)であるが、あきらかにこれは「工芸」的なものへの近似だろう。つまり「ずれ」の対象となるステレオタイプが賛が書き入れられるべき「書画」から「工芸」へと移ったということではないだろうか。しかしそのどちらにしても範となる既存のイメージからの「ずれ」が「絵画」性の獲得に繋がるという構図においては共通している。

 話が靫彦からは逸れるが、「絵画」性が範となるイメージ(ステレオタイプ)からの「ずれ」にこそ拠っているというこの自分の主張は、実は最近見た別の展覧会によって裏付けられることになった。それは他でもない東京国立博物館で開催中の「生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」展(2016年3月23日〜5月15日)なのである。黒田の画業の全貌を展観するこの凄まじい展覧会で思い知ったのは、黒田の絵とは(というか黒田自身が)まさに「ずれ」のみによって成り立っていたという事実なのであった。
 そもそもラファエル・コラン に師事してしまう時点でどこかズレているのだが、とにかくこの黒田という男は、ことごとく目指すものと結果がズレれまくっている画家なのだ。そもそもの目指す目的自体がズレている場合も多々あるのだが、実力の不足で結果的にズレてしまっているものもさらに多い。あきらかに間違った時代の間違った場所に居合わせてしまった画家であり、もう少し後の時代に生れていれば、モダニズムのなかでもっと普通に幸せな画家人生が送れたのではないかと思ってしまったくらいだ。
 しかし結果的にこの「ずれ」こそが黒田の絵の最大の魅力であり、そして日本における「絵画」観の形成に重大な影響を与えたものだと思うのである。つまり黒田以上に巧みな画家ならば同時代にいくらでも他にいたわけだが、結局時代が求めていたのは西洋の絵画を小器用にそのまま再現するものではなかったということなのだろう。黒田の絵画は目指すもの自体が間違っていたり技術が足りなかったりして常にズレているのだが、その「ずれ」自体が当時は「新しさ」として映ったのではないだろうか。つまり黒田は単なる「西洋から最新モードを持ち帰った紹介者」には留まらない存在だったのである。彼自身の絵が孕む「ずれ」こそが、同時代の表現者たちに新たな時代における新たな表現の「可能性」を感じさせたからこそ、彼の絵はその影響力を獲得できたのではないだろうか。黒田とはまただいぶタイプが異なるが、日本画の側から近代における「絵画」を先導した横山大観も決してアカデミックな意味での巧みな画家ではなかった。つまり単なる技巧的な巧みさで最新の西洋美術のコピーや伝統美術の現代版を拵えてみても、それだけでは多くの人々を引きつけるものにはなりえなかったということなのである。そこには新たな可能性を見出す余地を孕んだ範からの「ずれ」こそがなによりも必要となるのであり、黒田の場合は意図せずに天然でその時代が求めていた「ずれ」を体現してしまったということなのだろう。そしてそこにこそ自分は「絵画」の概念と範的なイメージからの「ずれ」の関係の始源を見た気がしたのである。

 ちなみにその意味で言うと、靫彦は職人的な高い技術力を持つ画家であり、彼の絵における「ずれ」は、黒田の絵の「ずれ」のようなワカリヤスイものではない。世代的に言っても黒田や大観のように靫彦の絵が日本における「絵画」観に広く影響を与えたといった事実もないだろう。
 とはいえ自分は靫彦の絵を「日本独自の美」や「品格」といった言葉だけで片付けて安直にワカッタ気になってしまうのはあまりにも惜しいと思われるのである。近代日本における「絵画」の概念の形成とも並走してきた靫彦の絵には、我々がいま持つ「絵画」観にも接続する要素がふんだんに隠されてると自分は考える。なによりもこんなに素晴らしく高度にヘンテコで面白い絵もそうはないのだ。はからずしも今回(展覧会の出来が悪かったこともあり)靫彦についていろいろと資料を調べ、短い期間ではあるがその絵について集中して考えることで、想像していた以上にいろいろと見えてくるものがあった。とはいえまだまだ謎な部分がほとんどで、この「絵」や「絵画」自体の謎とシンクロするように解けない謎であり続けることこそが靫彦の絵の最大の魅力ではないかと考えるのである。


○その他、今回見た靫彦作品についてのメモ

 前回の記事で靫彦の《風神雷神図》(1929年)における「ずれ」を、宗達の《風神雷神図》とのズレとしたが、これは片手落ちな見方だった。この絵は外部に対象を求めずとも、その内部に充分「ずれ」の要素を孕んだ傑作であることを今回展示を再見して確認できたからである。たとえば《居醒泉》(1928年)のように靫彦の絵はその「イラストレーション」性の高さにより、ときとして動きの瞬間を切り取ったような高い動的要素をその画面より感じさせるのだが、この《風神雷神図》における左隻の雷神がまさにその「動性」において突出しているのだ。画面の前に立ったときのこちら側に迫ってくるような迫力はかなりのものだ。
 しかしそれと同時にこの作品は靫彦の絵の「工芸」性が前景化してくる最初期の時期にあたり、既にその描線や着彩は「絵画」よりも「工芸」により近づいている。この動性と静性の一画面内での激しいギャップこそがこの作品の要なのであると考える。正直言って前回見たときはこの作品の魅力にいまひとつ気付けないでいたのだが、今回あらためて見て靫彦の傑作の一つに数えられることにも大いに納得がいった次第である。今回あらためて見て、この作品は靫彦の絵のなかでも特に好きなものの一つになった。

 それと対照的に《黄瀬川陣》(1940年)はやはり今回もその魅力にいまひとつ気付けなかった。この作品は靫彦の絵の「工芸」性が極まり始めた時期の作品なのだが、やはり「絵画」を感じさせるための「ずれ」の要素が見出しにくいのだ。「ずれ」の要素を孕む靫彦の絵は画面のなかにもっと呼吸が通う感じがして動きの感覚があるのだが、《黄瀬川陣》はどうも硬く固まってしまっているように感じられるのである。

 同じく靫彦の代表作とされる《飛鳥の春の額田王》(1964年)も自分はそれほど惹かれなかった。思うにこの作品の「ずれ」のポイントは、そこに描かれている女性像が「額田王」という一点にこそあるのだと思う。しかしこの作品のイメージが流布していることと、他に額田王の図像イメージが存在しないことにより、この作品自体が「額田王」のステレオタイプになってしまっていて「ずれ」が生じにくくなっているのではないだろうか。

 今回の展示作品の中から自分がもっとも好きな作品を挙げるならば、前期に出品されていた《王昭君》(1947年)か《六歌仙》あたりか。「イラストレーション」ではなく「工芸」性のみを「ずれ」として内在させた作品としては《菖蒲》(1931年)や《朝顔》(1931年)なども非常にレベルの高い素晴らしい作品であるし、《花づと》のヘンテコ度も捨てがたい。
posted by 3 at 16:24| 日記