2015年04月29日

マグリットのタイトル〜「マグリット展」を見ての覚え書き

 先日国立新美術館で見たマグリット展は、自分にとっては生涯三度目の「マグリット展」だったのだが(一度目は1988年の東京国立近代美術館、二度目は2002年にBunkamuraザ・ミュージアムで。1994年の巡回展は見逃している)、そこで受けた感銘の大きさは過去の二回を遥かに超え、衝撃と形容できるほどのものだった。
 もちろん単純に展示内容が素晴らしかったということもあるのだが、それに加えて個人的なタイミングもそこには関係していたのだと思う。というのも、最近(というかここ何年かずっと)自分は「絵」と「言葉」の関係について考え続けているのだが、およそマグリットほどこの問題について深く考え抜いた画家も他にいないように思われるからである。

 今回の展示を見ていて思ったのは「マグリットの作品は“詩”なのではないか?」ということだった。それは何の根拠にも基づかない単なる「直感」だったのだが、基本的に自分は直感を無視しないよう日ごろから努めている。もちろんそこには「“詩”とはなにか?」いう大問題が潜んでいるわけだが、とりあえずそれは棚上げにしたまま、ここでは「詩」をキーワードに、その直感について検証してみたいと思う。


 以前「世界で一番タイトルを付けるのが上手い画家は誰だろう?」といったことを戯れに考えてみたことがある。頭の片隅でボンヤリと幾人かの巨匠の名前を思い浮かべた結果、「とりあえずクレーがダントツかな〜」と結論付けようとしたとき、「そーいえばアイツがいた!」と思い出した作家がいる。他でもないマグリットだ。
 しかし、いざ「タイトルを付けるのが一番上手い画家選手権」の王座を巡ってこの二人を決勝の場で対峙させてみると、なんだかどうも落ち着きが悪いのだ。クレーのタイトルの絶妙さは別次元のものだが、しかしタイトルの付け方や上手い下手の基準は一般の画家とそれほど変わらない気がする。それに対してマグリットの場合は、「ルール」が異なるというか、そもそも構造的に作品における絵とタイトルの関係が他の作家たちとは違っているような気がするのである。
 たとえばクレーの絵のタイトルの場合、完成された絵に対して無数の選択肢のなかから一番「ぴったり」なものが選ばれた、という感覚がある。だからもしその絵に別のタイトルを付けても、オリジナルのタイトルが「もっといいタイトル」として潜在的にその絵のなかに存在し続けるように思える。つまりどんなタイトルが付けられても、作品自体の本質は変わらないのである。この場合の「タイトル付け」のポイントは、その最上の選択肢をいかに上手く「言い当てる」かどうかにかかっている。クレーはそれが世界チャンピオン級に巧みなのである。
 しかしマグリットの場合、絵とタイトルの関係はもっと不安定だ。もちろんマグリットの作品もクレーの作品と同様に「もっとも相応しいタイトル」が付けられているという感覚はある。しかしクレーと異なるのは、マグリットの絵の場合は、別のタイトルが付けられたら、そこで作品の本質自体が変質してしまうような気がするのである。タイトルを付けることによって作品の本質が変質するのならば、タイトルが選択されるまではその作品の本質を射抜く「もっとも相応しいタイトル」はこの世に存在しないことになる。なぞなぞの問いに先行して答えが存在しえないのと同じである。つまり「もっとも相応しいタイトル」がクレーの作品は絵に内在されているように感じるのに対し、マグリットの場合は絵とタイトルの「関係」のなかにこそ「もっとも相応しいタイトル」を決定する条件が存在しているように思うのだ。言い換えれば、「作品」の成立の条件がクレーとマグリットでは異なるのである
 この二人を「タイトル付け選手権」の決勝の場で並べてみたときに「ルール」が違うと感じるのは、そのためだろう。つまりどちらの作品においてもタイトルが非常に重要な意味を持つという点では一致するが、その選択のスキルは異なるように思われるのである。

 ここではマグリットの作品を「詩」だと感じた自分の直感を検証しようとしているわけだが、一般的に「詩」のイメージと強く結びついているのは、むしろクレーのほうだろう。「詩情」はクレーの作品を形容する際に使われる月並みなキーワードである。自分もクレーの作品、とくにその絵とタイトルとの結びつきの効果には「詩」を感じるし、そこから受ける感覚を形容するためには「詩情豊か」といった表現を特に深く悩むことなく使うことだろう。
 しかしクレーの作品から感じる「詩」と、マグリットの作品に感じた「詩」が同じものかと問われると、う〜〜んと詰まってしまう。同じ人間が同じ言葉を使って形容しているのだから当然そこには同じ感覚があってしかるべきはずなのだが、しかしなにか根本的な部分で異なるものがあるようにも感じる。その「違い」の感覚は、二人のタイトルの付け方の「絶妙さ」の違いとどこかで結びついている気がする。
 したがって、まずは比較のために、クレーの絵とタイトルの組み合わせから感じる「詩」について考えてみることにする。

 クレーが言葉のセンスにおいて詩的な才能に長けていたことは、作品リストのタイトルだけを眺めていても窺い知ることができる。しかしそれらのタイトルは、絵をそっちのけにしてドヤ顔で自己主張するような仰々しいものではない。もっと自然に絵に寄り添って、それでいて言葉自体からも詩的な響きが感じられるような、さりげないが洗練されたタイトルなのだ。
 しかしクレーの作品における「詩」の発露は、絵とタイトルが組み合わされたときにこそ初めてその真価を発揮するのだと言える。そのことはタイトル単体だけでは直ちには詩情には繋がらないようなごくシンプルな題の作品について見れば理解できる。
 ≪赤い風船≫、≪野いちご≫、≪戸棚≫、≪猫と鳥≫、≪赤と白の丸屋根≫、≪本道と脇道≫、≪征服者≫、≪島≫、≪大聖堂≫、≪大天使≫、いずれもクレーの絵のタイトルだが、これらのタイトルが付けられ、その効果によって「詩」を感じさせる絵は、やはり限定されるだろう。たとえば古典的な技法でリアルに描いた大聖堂や天使の絵が「大聖堂」、「大天使」と題されていても、そのことによって「詩」を感じるようになるといったことはまず起こりえないのだ。なぜならばそれは説明のための「名札」と変わらないからである。
 しかしこれらの単体ではなんでもない言葉も、クレーの絵のタイトルになると、途端に「詩」を感じさせるものへと変化するのだ。つまり絵と言葉が結びつくことによって、そこでナニカが起こるのである。それは単なる詩的なイメージと詩的な言葉の組み合わせによる足し算的な効果ではない、融合と生成を生じさせる激しい化学反応のようなものがそこで生じるのである。

 その「化学反応」が生じる秘密には、クレーの絵の抽象性が深く関係しているように思われる。クレーの絵は19世紀以前の西洋絵画に比べれば格段に抽象性の高いものだが、しかし完全なる抽象画はむしろ少数派で、その多くはなんらかの具象的な形態を画面に残している。
 そしてそれらの絵にタイトルが付けられるとき、色やかたちの連なりのなかに埋没してしまいそうなイメージが、タイトルで示された言葉によって名指しされて像を結び、その存在を明らかにする。赤色の円が風船に見え出し、半弧の描線が寺院の丸屋根となり、画面にちりばめられた記号的なかたちが天使へと変わる。
 完全な抽象画の場合も、クレーの絶妙なタイトルセンスによって、なんとなくその言葉に沿ったものが描かれているように見えてくるから不思議だ。≪いにしえの響き≫や≪花ひらいて≫といった作品は、画面いっぱいに色とりどりの四角形がグリッド状に描かれているに過ぎないのだが、それぞれのタイトルで名指された瞬間から、その言葉通りのものがそこに描かれているように見えてくるのである。

 このタイトルが付くことによって「そう見えてくる」という意識の動きこそが重要であると考える。つまりそのとき絵は、見る者の意識のなかで「動いている」。
 そのダイナミズムの大きさは、クレーの絵の「言われて見ると、そう見える」くらいの抽象度と、いったん名指された後はもう他の見え方ができなくなる絶妙な言葉のセンスに因っている。その結果としてクレーの絵は、言葉が付与されることよる絵の見え方の変化がメチャクチャ大きいのだ。
 その変化は躍動感に満ちている。言葉の力によって今まで見えていたイメージがまったく新たな相貌をあらわし、絵のなかで想像力のさざ波が広がる。その波動は言葉の側にもこだまし、その言葉自体に秘められていた余情や含意の可能性が画面内の色やかたちと共鳴して、こちらもまた動き始める。この「動き」の連鎖への驚きを、我々は「詩情あふれる」といった言葉で表現しているのではないか。

 つまり絵と言葉が組み合わされるとき、絵の見え方にも、言葉の響きにも、何の変化も起こらないとしたら、そこに「詩」は生まれない。そこで起こる変化こそが重要なのだ。クレーの作品は、その変化のダイナミズムの躍動感とハーモニーが、見るものに「詩」を感じさせるのだろう。


 では翻って、マグリットの場合はどうか。クレーとマグリットの作品を比較したとき、次の二つの大きな差異に気づく。
 まず第一点は、絵柄の違いである。クレーの抽象性の高い絵に対し、マグリットの絵はそれとは真逆に抽象性を徹底的に排除した描法で描かれている。クレーの絵では、描かれたものは色の面にも、線の連なりにも、抽象的な図形にも、あるいは具体的なモチーフにも見える。その境界はあいまいで、見るものの視覚のなかでフラジャイルにその相貌を変化させる。それがクレーの絵画の「豊かさ」を生むのだが、マグリットの採る描画法では、そうした「絵画的な豊かさ」を生み出すような要素はむしろ積極的に排除されているのだ。マグリットの絵では個々のモチーフが、それが何であるかを「見紛うことのないように」描かれている。
 違いの第二点は、タイトルと描かれたイメージとの関係である。マグリットのタイトルは描かれたイメージと容易に結びつかないような突飛なものがほとんどだ。クレーのタイトルが描かれた対象を名指しして見ているものに「自分が何を見ているか」を明確にする効果をあげるのに対し、マグリットのタイトルはむしろ見るものに混乱を与え、「自分が何を見ているか」をわからなくする方向へと機能する。
 おそらくこの二点は関連している。まずはマグリットの描写について考えてみよう。

 自分の知り合いには「マグリットは面白いと思うけど、あの描写がなぁ〜」と看板絵のように深みのないマグリットの絵の描写を馬鹿にしている者が何人かいる。どうも自分の少ない知己を基準にする限り、「絵画」の深みがわかる者ほどマグリットの描写の「深みのなさ」を見下す傾向があるようなのだ。
 しかし言うまでもなく、あの描写は意図的に選択されたものである。そして自分は、マグリットの作品において何をおいても重要なのは、あの描写だと思うのだ(第二次世界大戦前後に一時的に描法が変化する時期があるが、その頃の作品はマグリットにおける描写の重要性を逆説的に証明しているように思える。)
 マグリットの描写から排除されているものは、クレーの絵のような抽象性や「絵画的な豊かさ」だけではない。対象に肉薄するリアリズムや、あるいは画家の超絶技巧的な技量の誇示のようなものも、そこでは目指されていない。それは古典的な具象絵画の描写ともまた違うものなのだ。つまり抽象性を排除して「何が描いてあるか」が明確にされる一方、描かれる対象ないし描き手の個性や情感がそこに入り込む余地がないような「匿名的」な描写こそが目指されているのである。
 マグリットがリンゴを描くとき、彼は目の前にある「このリンゴ」を描こうとはしない。彼が描くのは一般概念としての「リンゴ」の像なのだ。それを実現するためにマグリットの絵からは、抽象性も、対象を特定できる個性も、そして画家自身の感情や性格すらも追放されるのである。あの「深み」の感じられない「匿名的」な描写は、そのためにこそ選択されているのだ。
 マグリットは自作への精神分析的な解釈を嫌ったと言うが当然だろう。描かれた対象から読み取れる作者の内面などは、対象の「概念化」のためには阻害要因にしかないからである。マグリットは生涯を平凡な一市民のように暮らしたというが、それも自身の絵の描写の「純粋性」を保つためだったのではないだろうか。同じシュルレアリスムのスターであるダリが、奇矯な振る舞いを売り物とした「天才」を生涯演じ続け、その結果としてアノ高々と口ひげを捩り上げた戯け顔抜きには彼の作品を見られなくなってしまったのと対照的に、マグリットの場合は生涯匿名的な小市民を「演じ続ける」ことによって、自身の描くモチーフの匿名性を守ろうとしたのではないのか。自分はそこに、≪日付絵画≫の「日付」の匿名性を担保するために自らの存在を公的な場から一切掻き消そうとした河原温の試みをも重ねて見てしまう。(しかしマグリットにしろ、河原にしろ、それでもなお我々は、彼らの作品に、あるいは匿名性を守ろうとする彼らの努力それ自体にも、彼らの「内面」や「人生」や「人間」を見てしまうのだが、そのことはまた別の大きな問題となるので今回は踏み込まない。)

 では、なぜそこまでしてマグリットは自身の描写を匿名性へと純化させようとしたのか?
 思うに彼は、自身の絵に描かれるモチーフを「言葉」のレベルにまで還元しようとしたのではないだろうか。つまりマグリットが描くリンゴは、最終的には「リンゴ」というカタカナ三文字でできた単語以上の意味を持たない境地をこそが目指されているように思えるのである。イメージと言葉(単語)が限りなく近づく地点、マグリットの描写が目指しているものはそれなのではないか。

 絵と言葉が組み合わされるとき、それを単純な「絵=視覚的イメージ」と「言葉=言語的要素」の掛け合わせであると峻別して考えるのは浅薄に過ぎよう。文字の起源に絵があるように絵のなかにも言葉の要素が潜んでいるし、言葉によって視覚的なイメージを記述することもできる。
 たとえばクレーの絵のなかに我々が「具象的な要素」として認める鳥や魚や動物や人や建物などは、限りなく象形文字に近い。クレーの絵の神髄は色彩や線描による非言語領域の表現にこそあるが、そのなかに辛うじて残る言語的な要素が、それら「言葉では表現できないもの」とタイトル(言葉による表現)を架橋しているのである。
 クレーの絵における具象的な要素と違って、マグリットの絵の描写は、視覚的には象形文字とはかけ離れているように見える。しかしその実質は、記号的な表象という意味において象形文字にきわめて近いのである。つまりマグリットの描写は、物象の「絵」としての視覚的なイメージを保ったまま、そのdescriptionを言葉(単語)と等しいものにしようとしているのだと考えられるのである。
 その上でマグリットは「言葉」に等しくなった「絵」を使って、言語的な構成による表現(つまり「詩」だ!)を試みようとしているのではないだろうか。象形文字のようにその外観を記号のように単純化することなく視覚的には「絵」としてのイメージの強度を保ったまま、言語的な構成に類する表現、つまり「詩」的な表現を画面上で実現することを目指したと考えることはできないか。

 そう考えると、マグリットの絵のタイトルが「突飛なもの」ばかりであることも頷けるのだ。「リンゴ」という文字に等しいような描写で描かれたリンゴに「リンゴ」というタイトル付けても、まさに屋上屋を架す以外のなにものでもないからである。当然そこではなんの「変化」も起こらない。
 つまりマグリットの絵において「描かれたモチーフとは何の関係もなさそうな突飛な言葉」がタイトルとして選ばれるのは必然なのである。専門用語を使うのが好きな手合いならば、そのことをマグリットの絵の基本技法でもある「デペイズマン」という言葉を使って説明するだろう。
 しかしデペイズマンは通常、「文脈の異なる意外なものの組み合わせ(ミシンと蝙蝠傘との解剖台の上での偶然の出会い、のように)」として説明される手法だが、単に文脈の違う意外なタイトルを付けたという“だけ”ならば、それはあまりに記号的な所作である。少なくともそれだけでは「詩」は生まれそうもない(と自分は思う)。

 たとえば今回の展覧会の出品作のなかに、壁紙の図柄ように深みのない絵柄で描かれた青空の絵に≪呪い≫というタイトルが付けられた作品がある。もちろん見るものは「呪い」というタイトルを知って仰天する。「なぜ“青空(以外のいかなる要素もそこには存在しない)”を描いた絵が“呪い”なんだろう?」と、そう疑問に思う。一般的なデペイズマンの効果の説明では、この「仰天」や「疑問を持って絵を違った目で見る」などの行為を以ってして、その効果とするのだろう。しかし自分はそれだけではまだ不十分だと考える。その程度のダイナミズムでは「詩」は生じないのだ。
 自分がマグリットの絵に「詩」を感じるのは、この≪呪い≫というタイトルが、「青空」に含まれるなんらかの「呪い」性を言い当てているように感じるからなのだ。この「言い当てているように感じる」という感覚こそが決定的に重要である。
 クレーの絵の場合は、タイトルによって名指されることで抽象的な図柄が像を結ぶ「言われてみると、そう見えてくる」という意識の動きだったのに対し、マグリットの場合は、まったく無関係に思われた二つの事象間に存在する関連性が「言われてみると、見えてくる」というかたちで意識の変化が起こるのだ。つまり「言い当てかた」や「見えてくるもの」こそ異なるものの、「言われてみると、見えてくる」という意識の動き自体は双方ともに共通するのである。
 マグリットの絵においてもその二つの事象が、ただちには連想が結びつかない距離を隔てたものであることが重要だ。その飛距離の大きさこそが、意識の変化のダイナミズムを生むからである。すぐに連想が働くもの同士のあいだでは、この「動き」は起こらない。青空を描いた絵に「夏」とか「夢」とか「青春」といったタイトルが付いていても、「いままで見えていなかったものが、突然見えてくる」ような意識の変化は生じ難いのだ。
 ちなみに今回の展覧会には≪呪い≫と同じ描写で青空を描いた絵がもう一点出品されていて、その作品のタイトルが他でもない≪夏≫なのである。しかしこの絵は≪呪い≫と違って青空だけが全面に描かれているのではない。窓の並んだ石造りの建物の前に掲げられた旗の部分の空間が刳り貫かれたようにして青空が描かれているのだ。この場合、タイトルの≪夏≫は、旗の内側の青空だけに共鳴する。というのも、背景に描かれている建物は並んだどの窓からも僅かに開いたカーテン越しに暗黒の室内を覗かせているだけで人の気配を感じさせず、旗を掲げる鉄製のポールも強い陰影の垂直線が無造作に画面の中央を分割するかたちで描かれていて、そのどちらもおよそ「夏」のイメージとは程遠い不穏な空気を漂わせているからである。もしこの刳り貫かれたような旗の内側の「青空」がなければ、この絵と≪夏≫というタイトルとを架橋する何らかの共通項を見つけ出すのは困難になるだろう。その場合は当然「言われてみると、見えてくる」という意識の動きは働かないのである。
 つまり超現実的に旗の内側に刳り貫かれた青空が、「夏」の持つ二面性を見るものに気付かせるための架け橋としての役割を担っているのだ。そして背後の陰鬱な建物や鉄製のポールによる不自然な画面構成が、漂白されたようにクリアーな「夏」や「青空」の、その裏側に潜む「不吉さ」を見るものに暗示させるのである。人によっては、そこから過去の夏に起こった個人的な、あるいは歴史的な暗い出来事が思い起こされるかもしれない。

 つまり重要なのはズレと合致(言い当て)が同時に起こることなのである。ズレがないところには「言い当てている」という感覚は起こりえない。ズレから合致への「飛躍」こそが肝要なのだ。
 ミシェル・フーコーが論稿のネタにしたことでも有名な「これはパイプではない」の絵(≪イメージの裏切り≫:今回の展覧会では同じシリーズの1952年のドローングが出品されている)も、「パイプ」以外の何物にも見えないパイプの絵に「これはパイプではない」という文字が書き加えられることによって大いなるズレ(矛盾)が生じる。しかし「これは“パイプの絵”であって、本物のパイプではない(すなわちイメージと言葉は一致している)」というそれまで見えていなかった事実に気付くことで、意識が大きく動くのである。
 ≪イメージの裏切り≫はマグリットがイメージと言葉の問題に直截的に取り組んでいた時期の作品で、ややもすると他の代表作に比べ観念的すぎる気もするが、しかしそこで起こる意識の変化のダイナミズムが作品構造の「理屈っぽさ」を凌駕してイメージの広がりを生むのだろう。(ちなみにこの「これはパイプではない」は、自分には磔刑図でキリストの頭上に掲げられた罪状書きの「ユダヤの王」の文字を思い起こさせる。すなわち言葉とイメージが単純な合致の関係ではなく捩じれた位相にあるさまが、千年以上に渡る西洋絵画の歴史のなかでおそらくもっとも多く描かれてきたであろうモチーフのなかで示され続けてきたという事実をも、この絵が示しているように感じてしまうのである。)

 では、異なる事象間に潜む関連性を「言い当てている」という感覚が、マグリットの絵においては具体的に「詩」とどう結び付いているのか?
 自分の感覚を精査してみるに、マグリットの作品の多くでは、絵とタイトルの結合によって起こる意識の変化のなかで「物語的なもの」の発動が起こっているような気がする。たとえば刳り貫かれた旗の内側に青空を描いた≪夏≫では、「夏」という言葉と背景に描かれている陰鬱な建物や旗のポールによる不穏な垂直線が醸しだす「不吉さ」が結びついたとき、自分の意識のなかでは戦時下や独裁政権のもとで抑圧された街を舞台にした物語のようなものが展開し始めるのである。
 このとき重要なのは、モチーフとして超現実的な光景が描かれているから物語的なものが読み取れるということではないということだ。あくまでそれは異質な要素のぶつかり合いを経てそれまで見えていなかった関連性が「見えてくる」という意識の動きを契機に発動するものなのである。そしてそれは自分にとって、詩を読む際に感じる言葉と言葉の意外な結びつきが、それまでの文脈上は見えていなかったその言葉の新たな意味や予想外のイメージの広がりを展開をしていくさまに酷似しているように思えるのだ。
 マグリットの絵といえばその鮮烈なイメージこそが誰もが思い浮かべる最大の特徴であるが、作品から得られるイメージの広がりは、実は最初のビジュアル的なインパクトに直接続いていくものではない。タイトルによる混乱を経たのちに、始めは見えていなかったものがゆっくりと見え出し、第一印象で受けた衝撃とはまた別な世界が想像力によって見るものの意識のなかでじわじわと広がっていく。それは「ビジュアル的」というよりはむしろ「文学的」なものであり、さらに言えば「詩」的なものなのだ。そこで展開されるイメージの内容が詩的なのではなく、そのイメージを発動させる構造が「詩」的なのである。


 以上、マグリットの作品を「詩」であると感じた自分の直感を検証してきたわけだが、最後にマグリットの描写についてもう少し触れておきたい。
 マグリットの描写が、「絵」としての視覚的イメージを保ったまま、そのdescriptionを「言葉(単語)」のレベルにまで近付けて、言語的な構成による実験(「詩」的な表現)を画面上で実現するための術となっていることはこれまで述べてきたとおりだ。
 しかし自分は、ことマグリットの描写に関しては、それだけの役割では終わらないとも思っているのである。

 見るものを一瞬で引きつける卓越したビジュアルを持つマグリットの絵は、その複製イメージがあらゆるメディアを通して世に流通しまくっている。そして絵画的な「深み」をイメージ性の強さが凌駕するその絵は、絵画作品としては他のどの画家の絵よりも実作と複製の垣根が低いようにも見える。実作を見ないでも十分「わかった気」になれる絵の代表例だと言ってもいいかもしれない。事実ここまでしてきた説明も、そのことを裏付ける方向で機能するだろう。マグリットの描写が描かれたモチーフの「概念化」を果たす機能だけを担っているならば、作品理解のためにはあとはその概念化された事象の組み合わせが把握できればいいわけで、それは複製図版で十分事足りるからだ。つまりは印字された文字の連なりから「詩」を感じ取ることができるのと同じ理屈である。
 ところがマグリット展の会場から家に戻り、買ってきたカタログの図版を見ていると、なんだか少し物足らない気がするのだ。会場で見たはずのナニカが、そこには欠けているのである。思い起こしてみれば、過去にマグリットの実作を見たときはいつも同じような感慨を抱いていた気がする。十分「わかってる」と思っていたはずのマグリットの絵が、実物を見ると意外にもその印象を大きく更新される(そしてしばらく経つと、また氾濫する既存のイメージに浸食されて忘れる)といったことを繰り返してきたのだった。
 つまり深みのない描画と概念化されたモチーフによる構成が主と思われているマグリットの絵画は、意外と一次的にしか得られない情報が多い絵なのである。そして、その多くはあの描写にこそ因っているのだ。

 たしかにマグリットは、描写から特定の人格の想起や曖昧な解釈の可能性を排除するために、あの平板な描法を採用したのだろう。つまり理屈から言えば、それは人間性を排除した冷たい描写になってしかるべきなのだ。ところが実際に作品を見てみると、意外とそこからは人の血が通った「あたたかみ」のようなものが感じられるのである。余計な感情を削ぎ落とした無機的な描写をこそが目指されているはずなのだが、案外作者は楽しんで描いているのではないかと思うような、そんな感覚さえ抱かされるのだ。
 マグリットの油彩画の描画法は、古典絵画のように人の手の痕跡を消した、素人にはどうやって描いたのか見当もつかないような技巧的な複雑さはなく、むしろ最短距離で最終イメージに辿り着こうとする簡易さこそが特徴である。しかしその簡易的な描写のなかに、描くことによってイメージがそこに生まれていくことへの驚きが見出せるように感じるのだ。「絵」というものが生まれるその瞬間への驚きと喜びが、その「どう描いているのかわかる」描写によって見るものに伝わるのである。このニュアンスは実作を前にしないとなかなかわからない。
 そしてそのことは、マグリットの絵に描かれるモチーフが個別的な要素を削ぎ落とされ概念のレベルにまで純化されるのと同じように、マグリットの絵を「絵」や「イメージ」へと還元するのである。一見「だまし絵」のように見えるマグリットの絵が、実際は「だまし絵についての絵」であるように、マグリットの作品の本質はその自己言及性にある。つまりマグリットは絵を描くのと同時に、「絵というもの」をも描いているのだ。
 そのためマグリットの絵画は、画面内に描かれたイメージだけではなく、フレームの外側の世界における作品本体の存在自体も、どこか「普通の絵画」としてこの世界に収まるにはそぐわないような居心地の悪さがある。その感覚は描かれた超現実的なモチーフへのめまいに由来するのではなく、我々が個別の作品としてのマグリットの絵を見るのと同時に、「イメージというもの」や「絵画というもの」の不思議をそこに見てしまうめまいから来るのだろう。

 ≪呪い≫の作品の青空が「呪い」という言葉と結びつくのは、壁紙の図柄のように単純化されて描かれたあの絵の青空自体に「呪い」を感じさせる何かが潜んでいるからである。それは紛れもなく「絵画」的な効果なのだ。つまり我々は「青空」と「呪い」の意外な関連性と同時に、絵画という表現の不思議さ(奥深さ)もまたそこで目にしているのである。それは他の作品にも言えることだろう。
 つまりマグリットの作品は、やはりどうしようもなく「絵画」なのである。絵画であることを抜きにしてマグリットの絵は語れないのだ。まぁ、当たり前といえば当たり前すぎる結論ではあるが。

 しかしそのことを十分承知した上で、多彩な額縁(今回の展覧会ではいろいろな額縁が見られたが、そのどれもがマグリットの絵に合っていて面白かった)に収められた紛れもない「絵画」が並んだマグリット展の会場風景に、自分は敢えて「“詩”の展覧会」というタイトルを付けてみたくなったのだ。
 そしてそれは「マグリットのタイトル」的な意味においては、それほど的外れなものでもないのではないかと思うのである。



「マグリット展」
国立新美術館(2015年3月25日〜6月29日)
http://magritte2015.jp/
posted by 3 at 18:09| 日記