2016年04月24日

追記:「絵画」と「イラストレーション」と安田靫彦

 結局、東近美の靫彦展は二回行った。展示替えの最前期と最後期に充てたので、ほぼ全作品を見られたはずである。しかしそれにしても酷いキュレーションだ。二回目は展示に煩わされないよう作品を見ることだけに集中しようと思っていたのだが、それでも流れを掴むためにはどうしても全体にも目が行かざるをえなくなる。展示替えが多いことも理由しているのだろうが、ここまでなんのセンスもなく意味もない絵の並べ方をしている展覧会も珍しいのではないか。せめて制作年順の並びに徹してくれているのならばまだしも、作品に内容に関係なく無意味にシャッフルされている部分が多々あり、見ていて非常にストレスが溜まる。絵の解説などもあきらかに足りておらず、作品の魅力を伝えようという努力に著しく欠けた近年見たうちでもかなり劣った部類に入る展覧会である。
 それでも二回見に行けたことはとても良かった。一回目には気付かなかったことも多く発見でき、前回書いたことへの再考を迫られる事項も見付かった。ちゃんとまとめている暇がないので、とりあえず今回気付いた点だけをメモとして記しておく。


○安田靫彦の画歴に見る「絵画」の変遷

 今回の展覧会の出品作品から「絵画」をキーワードにして靫彦の作品の変遷を辿ると、きわめて大まかにだがだいたい以下のようになると思われる。
 まず画家を志した当初、十代半ばの頃の作品は「イラストレーション=物語絵を描くこと」にのみ専心していて絵としては平板である。大画面、絹本着色、軸装など「絵画」としてのフォーマットは備えているものの、絵の種類としてはまだ挿絵の延長線上にあると言える。
 それが最初の師である小堀鞆音のもとから足が遠ざかるようになって眠草の画号で描いた作品《遣唐使》(1900年)あたりから徐々に画面に「絵画」的な深さを求め出してくる。「イラストレーション」として主題を描きだすことだけではなく、画面中に通う空気感の描写などにも関心が向いてくるのだ。おそらくこの時期の作品は、作者である靫彦の意識としては例えてみれば2D画面から3D画面へと進化していくような感覚だったのではないだろうか。画面の持つ空間自体がどんどんダイナミックに深まっていくのである。その深化は靫彦二十二歳の作である《松風》(1906年)あたりを頂点とする。
 その後靫彦の関心は画面空間自体の深化から、より表面的な画風や描法へと移っていく。大型の代表作だけを取り上げても《夢殿》(1912年)、《羅浮仙》(1915‐16頃)、《天台仙境》(1917年)、《御夢》(1918年)、《日食》(1925年)、《居醒泉》(1928年)、《風神雷神図》(1929年)と、すべて異なる画風、技法で描かれている。展示替えされた前期の作品をここに含めれば、その作風の幅はさらに広がる。
 この様々な技法や画風を実験的に転じていく時代はだいたい四十代の半ばあたりまで続いていく。推測であるがこの時代の靫彦は、その制作においてかなり明確に「絵画」ということを意識していたのではないだろうか。古典の造形に学びながらも自身の絵を同時代的な「絵画」たりうるものにしようと果敢にチャレンジし続ける姿勢を、自分はこの作風の変遷のなかから感じる。
 技法の実験の振れ幅は二十代から四十代にかけて徐々に狭まっていき、四十代の終わりから五十代に入る頃あたりで靫彦の画風は確立されたのだと自分は考える。そしてこの時期の作品からは、それまであった「絵画」たらんとする意志が少なくとも表面的には感じられなくなってくるのだ。年齢的に言っても、もはやことさらに「絵画」を指向しなくとも自分の絵は成り立つという自信を靫彦はこの時期に獲得したのではないだろうか。
 ではそのとき靫彦の絵において「絵画」に代わって前景化したものはなにかと言えば、それは「工芸」なのである。言うまでもなく「工芸」は近代の日本において「絵画」の概念が確立される過程において、そこから排除される形で新たに形成された概念であるが、前回書いた記事ではそこまでは考えが及んでいなかった。しかし今回あらためて靫彦の絵をじっくり見た結果、「イラストレーション」と並び、「工芸」は彼の作品について考える際にきわめて重要なキーワードになりうると確信するに到ったのだ。
 前回自分は靫彦の絵の特長である「美しい線」や「澄んだ色彩」について、彼の絵における「イラストレーション」の要素と対立する「絵画」的要素に当たるとして記述したが、これはかなり雑な解釈であった。むしろ靫彦の絵におけるそれらの要素は「工芸」的なものとして「絵画」性と相反するものとして捉えるのが妥当だろう。
 では靫彦の絵における「工芸」的な要素とはどのようなものか? たとえば線。画風が確立して以降の靫彦の絵の線はもはや絵画の線ではない。その鉄線描は工芸におけるそれに近いのではないか。あるいは着彩。1940年代あたりの作品から見られる輪郭内で薄く濃淡を付けて塗りつぶす技法は、どこか陶器の染付を連想させる。具体的な作品名を挙げれば《孫子勅姫兵》(1938年)や《天之八衢》(1939年)など。細かい部分に対する体験を記しておけば《花づと》(1937年)や《小鏡子》(1947年)における女性の髪の毛の部分の描写に「キュンっ」とする感覚が、工芸作品に「キュンっ」とする感覚とよく似ていた(漆っぽく見えるからか?)。あとこの時期の作品は、紙本着色と絹本着色の違い(前者は軸装か額装かの違いも)に敏感に気付かされることも、工芸作品に対する感覚を想起させる。
 靫彦の絵における「工芸」的な要素の由来は疑いなく彼が学んだ古典の造形作品にこそあるのだろう。前回書いた彼の超時代的な「絵画」観こそがそれを実現しているのだと考えられる。しかしそれがこの時期に至って殊に前景化した理由は、彼の意識から「絵画」への意識が後退したためではないだろうか。つまり三十歳前後で書いた画論のなかで見られた彼の超時代的な「絵画」観が、それから約二十年ほどの試行錯誤を経て、ついに実制作においても実現されたのだと考えることも出来るのである。
 しかしこのとき興味深いのは、そうした「絵画」への指向が後退し「工芸」性を高めた靫彦の絵を、たとえば陶器への染付として描かれた「工芸作品」だと想像しながら見てみると、途端にあまり面白くは感じられなくなってしまうのである。もちろんその分類が「絵画」であろうと「工芸」であろうと、そこで実現されている絵の内容や技術の高さは変わりがないのだが、しかし「工芸」の作品としてそれを見てしまうと、その技術に感心こそはすれど、ただ「それだけのもの」で終わってしまうような感覚も同時に抱くのだ。
 つまりそこから得られる結論としては、靫彦の絵は「絵画」として見ないと面白くないということなのである。前回指摘した「イラストレーション」性の高さといい、今回新たに気付いた「工芸」的な要素といい、靫彦の絵ほど「絵画」らしくない絵もそうはないのかもしれない。しかしそれと同時に靫彦の絵ほど「絵画」という概念を必要とする絵もまたないのではないか。
 前回書いた記事で靫彦と有原友一の絵の結び付け方がいささか強引過ぎたのではないかと反省していたのだが、しかしこの二者に関連するものを見出した直感自体は正しかったかもしれない。ただ共通するポイントとして指摘すべきものは、むしろこのことだったのかもしれない。つまり「絵画」っぽさからもっとも遠い場所に位置するように見える靫彦の絵と、それとは逆にものすごくステレオタイプな「絵画」に見えてしまいがちな有原の絵が、どちらも「“絵画”という概念がこの世になかったらこの絵は成り立たなくなってしまうのではないか?」と思わせる点において共通しているのである。靫彦の絵は「絵画」的要素を画面から消しつつもなお「絵画」に留まることによってその魅力を発揮し、有原の絵はステレオタイプな「絵画」のイメージに近付きつつも限りなくそこから逃れ続けることで逆に「絵画」性を獲得する。どちらも「絵画」という概念そのものの境界線上を辛うじて進むことでその命脈を保ち、同時に「絵画」という概念自体の姿も顕わにするのだ。


○「絵画」と「ずれ」

 今回、再度展示を見るにあたって注目すべきポイントとして事前に考えていたもののひとつに、靫彦の絵と文字との関係があった。基本的に靫彦の絵には画賛は入らないのだが、彼の絵の古典指向や「イラストレーション」性の高さを考えればむしろ賛がある方が自然のようにも思われるのだ。それがないのはまさに靫彦の絵が近代以降の「絵画」であることの証左に他ならないのだが、しかし例外的にいくつかの作品には署名以外の文字が書き入れられている。今回の出品作で言えば《観世音菩薩》(1924年)、《豊公裂冊》(1926年)、《良寛和尚》(1947年)の三作がそれに当たる。
 この三作を見て思うのは、字の入れ方がいまひとつ「嵌ってない」ように感じられることなのである。たとえば《観世音菩薩》では般若心経が画面左側に五行に渡って書き入れられているのだが、画面上部の空白部分に横いっぱい使って楷書で書いたほうがむしろ「それっぽい感じ」で安定的な構図になるように思われる。現状の文字の入れ方だとむしろ上部の空白部分が目立ち、「文字を入れなかった場合の画面の緊張感」のほうが想像されてしまうのだ。それは《豊公裂冊》と《良寛和尚》においても同じで、なにか書き入れられた文字が浮いて見えるのである。そしてその反動として文字がない状態での絵の空白部分の虚空性の高さが思いやられてしまう。
 実際、《太子孝養像》(1921年 )のように、本来ならば画賛が入るべき部分を空白にした縦長の軸装の絵もあり、入るべき文字の不在から画面内に虚の空間を現出させることこそが、おそらく靫彦の絵としては本来の在り方なのだろう。例外的に文字が書き入れられた上記の三作品は、敢えて文字を画面に完全に馴染ませずに「ずれ」を作ることにおいて、その虚空性を担保しているようにも感じられる。
 文字との関係における絵の空白部の虚空性ということで言えば、その最たる成功例が《六歌仙》(1933年)だろう。色紙の左側に六歌仙の絵(正方形に近いやや縦長の画面)が、その右側に金地の紙に良寛風の字体で書かれた和歌が貼られている。和歌が書かれた紙は絵よりだいぶ小サイズなのだが、面白いのはそれが色紙の中央ではなくやや右上に貼られていることなのだ。つまり左側の色紙に貼られた歌仙の絵からは離されるようなかたちになっているのである。六歌仙の色紙はすべて繋がっているので、右上方に貼られた和歌は距離的に言えばむしろその隣の歌仙の絵により近接していることになる。この対象となるべき絵と文字の微妙な距離な開け方は、この作品においてきわめて有効に効果しているように思われる。その距離感こそが歌仙の背景の何も描かれていない絵の空白部分の虚空性を際立たせているように感じられるからだ。靫彦自身の手による書の流麗な自体との相性も完璧であるこの絵はきわめて「イラストレーション」性の高い作品であるが、それが単なる「高品質なイラストレーション」で終わっていないのも、この歌仙の背景に広がる「虚空」にこそあると考える。つまりそこにこの作品の「絵画」性があるのだ。
 しかしこの靫彦の絵における「本来ならば賛が書き入れられるべき部分の空白」が「絵画」的な深さ(虚空性)に繋がるという構図は、画風を確立させた五十代以降の作品では次第に見られなくなり、代わって《豊太閤》(1944年)、《欄》(1963年)、《女楽の人々》(1965年)のように背景を金地で塗りつぶす処置が目立つようになる。その極端な例が《紅白梅》(1968年)であるが、あきらかにこれは「工芸」的なものへの近似だろう。つまり「ずれ」の対象となるステレオタイプが賛が書き入れられるべき「書画」から「工芸」へと移ったということではないだろうか。しかしそのどちらにしても範となる既存のイメージからの「ずれ」が「絵画」性の獲得に繋がるという構図においては共通している。

 話が靫彦からは逸れるが、「絵画」性が範となるイメージ(ステレオタイプ)からの「ずれ」にこそ拠っているというこの自分の主張は、実は最近見た別の展覧会によって裏付けられることになった。それは他でもない東京国立博物館で開催中の「生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」展(2016年3月23日〜5月15日)なのである。黒田の画業の全貌を展観するこの凄まじい展覧会で思い知ったのは、黒田の絵とは(というか黒田自身が)まさに「ずれ」のみによって成り立っていたという事実なのであった。
 そもそもラファエル・コラン に師事してしまう時点でどこかズレているのだが、とにかくこの黒田という男は、ことごとく目指すものと結果がズレれまくっている画家なのだ。そもそもの目指す目的自体がズレている場合も多々あるのだが、実力の不足で結果的にズレてしまっているものもさらに多い。あきらかに間違った時代の間違った場所に居合わせてしまった画家であり、もう少し後の時代に生れていれば、モダニズムのなかでもっと普通に幸せな画家人生が送れたのではないかと思ってしまったくらいだ。
 しかし結果的にこの「ずれ」こそが黒田の絵の最大の魅力であり、そして日本における「絵画」観の形成に重大な影響を与えたものだと思うのである。つまり黒田以上に巧みな画家ならば同時代にいくらでも他にいたわけだが、結局時代が求めていたのは西洋の絵画を小器用にそのまま再現するものではなかったということなのだろう。黒田の絵画は目指すもの自体が間違っていたり技術が足りなかったりして常にズレているのだが、その「ずれ」自体が当時は「新しさ」として映ったのではないだろうか。つまり黒田は単なる「西洋から最新モードを持ち帰った紹介者」には留まらない存在だったのである。彼自身の絵が孕む「ずれ」こそが、同時代の表現者たちに新たな時代における新たな表現の「可能性」を感じさせたからこそ、彼の絵はその影響力を獲得できたのではないだろうか。黒田とはまただいぶタイプが異なるが、日本画の側から近代における「絵画」を先導した横山大観も決してアカデミックな意味での巧みな画家ではなかった。つまり単なる技巧的な巧みさで最新の西洋美術のコピーや伝統美術の現代版を拵えてみても、それだけでは多くの人々を引きつけるものにはなりえなかったということなのである。そこには新たな可能性を見出す余地を孕んだ範からの「ずれ」こそがなによりも必要となるのであり、黒田の場合は意図せずに天然でその時代が求めていた「ずれ」を体現してしまったということなのだろう。そしてそこにこそ自分は「絵画」の概念と範的なイメージからの「ずれ」の関係の始源を見た気がしたのである。

 ちなみにその意味で言うと、靫彦は職人的な高い技術力を持つ画家であり、彼の絵における「ずれ」は、黒田の絵の「ずれ」のようなワカリヤスイものではない。世代的に言っても黒田や大観のように靫彦の絵が日本における「絵画」観に広く影響を与えたといった事実もないだろう。
 とはいえ自分は靫彦の絵を「日本独自の美」や「品格」といった言葉だけで片付けて安直にワカッタ気になってしまうのはあまりにも惜しいと思われるのである。近代日本における「絵画」の概念の形成とも並走してきた靫彦の絵には、我々がいま持つ「絵画」観にも接続する要素がふんだんに隠されてると自分は考える。なによりもこんなに素晴らしく高度にヘンテコで面白い絵もそうはないのだ。はからずしも今回(展覧会の出来が悪かったこともあり)靫彦についていろいろと資料を調べ、短い期間ではあるがその絵について集中して考えることで、想像していた以上にいろいろと見えてくるものがあった。とはいえまだまだ謎な部分がほとんどで、この「絵」や「絵画」自体の謎とシンクロするように解けない謎であり続けることこそが靫彦の絵の最大の魅力ではないかと考えるのである。


○その他、今回見た靫彦作品についてのメモ

 前回の記事で靫彦の《風神雷神図》(1929年)における「ずれ」を、宗達の《風神雷神図》とのズレとしたが、これは片手落ちな見方だった。この絵は外部に対象を求めずとも、その内部に充分「ずれ」の要素を孕んだ傑作であることを今回展示を再見して確認できたからである。たとえば《居醒泉》(1928年)のように靫彦の絵はその「イラストレーション」性の高さにより、ときとして動きの瞬間を切り取ったような高い動的要素をその画面より感じさせるのだが、この《風神雷神図》における左隻の雷神がまさにその「動性」において突出しているのだ。画面の前に立ったときのこちら側に迫ってくるような迫力はかなりのものだ。
 しかしそれと同時にこの作品は靫彦の絵の「工芸」性が前景化してくる最初期の時期にあたり、既にその描線や着彩は「絵画」よりも「工芸」により近づいている。この動性と静性の一画面内での激しいギャップこそがこの作品の要なのであると考える。正直言って前回見たときはこの作品の魅力にいまひとつ気付けないでいたのだが、今回あらためて見て靫彦の傑作の一つに数えられることにも大いに納得がいった次第である。今回あらためて見て、この作品は靫彦の絵のなかでも特に好きなものの一つになった。

 それと対照的に《黄瀬川陣》(1940年)はやはり今回もその魅力にいまひとつ気付けなかった。この作品は靫彦の絵の「工芸」性が極まり始めた時期の作品なのだが、やはり「絵画」を感じさせるための「ずれ」の要素が見出しにくいのだ。「ずれ」の要素を孕む靫彦の絵は画面のなかにもっと呼吸が通う感じがして動きの感覚があるのだが、《黄瀬川陣》はどうも硬く固まってしまっているように感じられるのである。

 同じく靫彦の代表作とされる《飛鳥の春の額田王》(1964年)も自分はそれほど惹かれなかった。思うにこの作品の「ずれ」のポイントは、そこに描かれている女性像が「額田王」という一点にこそあるのだと思う。しかしこの作品のイメージが流布していることと、他に額田王の図像イメージが存在しないことにより、この作品自体が「額田王」のステレオタイプになってしまっていて「ずれ」が生じにくくなっているのではないだろうか。

 今回の展示作品の中から自分がもっとも好きな作品を挙げるならば、前期に出品されていた《王昭君》(1947年)か《六歌仙》あたりか。「イラストレーション」ではなく「工芸」性のみを「ずれ」として内在させた作品としては《菖蒲》(1931年)や《朝顔》(1931年)なども非常にレベルの高い素晴らしい作品であるし、《花づと》のヘンテコ度も捨てがたい。
posted by 3 at 16:24| 日記

2016年04月12日

「絵画」と「イラストレーション」と安田靫彦

●「絵画」の定義

 かれこれ二カ月ほど前の話になるが、去る二月に両国のART TRACE GALLERYにて開催されたトークイベント「有原友一と高木秀典の作品を巡って」に部外者ながらお声をかけて頂き、そこで主に「絵画」をめぐっていろいろ興味深い話が聞けてそれはそれでヨカッタのだけれど(遅まきながら、関係者の皆様に感謝申し上げます)、しかし同時にそのとき気が付いたのは、自分がいかに「絵画」という言葉をイーカゲンに使っているかということなのだった。
 たしかに「絵画」は自分の作品について考える際も、あるいは他人の作品について考察するときも自分にとって重要なキーワードなのであるが、文脈に応じてあまり深く考えないまま同じ言葉を複数の意味合いにおいて使用している気がする。今回もまた性懲りもなく「絵画」についての話を書こうと思っているのだが、反省して本題に入る前にちょっと整理しておいたほうがいいのかもしれない。

 というわけで考えてみたのだが、とりあえず一般に使われる(というか自分が使っている)「絵画」の語の意味はおおよそ以下のような階層に分けられるのではないだろうか。

【1】「絵」と同意味
【2】「painting」と同意味。すなわちキャンバスやパネルなどの支持体に油絵具やテンペラ絵具などで描かれた絵の総称
【3】「painting」と概ね同意味だが、ローカライズされて「drawing」にカテゴライズされる水墨画なども含む
【4】ある種の美的価値観、またはその価値観に適う平面作品(平面ではない形態をとるものも例外的に含む)

 『境界の美術史ー「美術」形成史ノート』のなかで北澤憲昭は、日本における「絵画」の制度的成り立ちが明治二十三年(1890年)開催の第三回内国勧業博覧会に端的なかたちで見出せると指摘している。美術部門の細目で、前回までの「書画」の部門が「絵画」と「書」に分割され、「美術」の概念内における制度的な「絵画」の権威付けと純化が計られたのだ。それ以前の回の「書画」の部門には絵画や書ばかりでなく、花瓶や箪笥など絵が描かれているものならばなんでも出品されていたというのだから、上に挙げた【1】の意味に近かったわけである。自分の基本的な認識では「絵画」は「絵」の下位に位置するサブカテゴリーなのだが、現在でも辞書を引けば「絵画」の解説が「絵」と同義であるものも多い。そもそも「絵画」の語は「絵=五彩の糸をあつめて刺繍する→彩色を施して描いたもの」と「画=仕切りを図形上に描く→線を引いて描く」の成語なのだから、painting=「絵」という認識は語源的には正しいのかもしれない。
 しかし「美術」における「絵画」は、上の内国勧業博のエピソードでわかるように【2】をプロトタイプとし、日本の環境に合わせてローカライズされた近代における新しい概念なのである。【2】と【3】は完全に重なるものではなく、その解釈は現在に至っても振れ幅が大きい。たしかに考えてみると、自分のなかでも意外とグレーゾーンはあるかもしれない。水墨の障壁画を「絵画」と呼んでも違和感は覚えないが、では文人画はどうか?とか。あるいは絵馬は「絵画」に含めるべき?などなど。書や花瓶の染付を「絵画」と呼ぶことはさすがにないが、明治が過ぎ去ってから既に百年以上を経た現在でも、未だ「絵画」の概念は形成の途中なのかもしれない。
 そしてこの【2】と【3】の差異、あるいは【3】の解釈の揺らぎ(あるいは【2】自体が孕む揺らぎ?)のなかには、我々が「絵画」的なものとして考えるそのエッセンスが隠されているのである。なぜならば我々が書や染付を「絵画」とは考えず、水墨画を「絵画」と見做すならば、その判断の差のなかにこそ我々が抱く「絵画」のイメージはあるはずだからだ。すなわちそれが【4】なのである。
 このとき「絵画」の語の定義に意味の隙間があること自体が意味を持ち始める。【4】の意味の「絵画」の語は、素材や技法による定義に代わって、その判断の基準が個人の感覚に委ねられる。するとその感覚に長けたもののあいだで「絵画」の語の意味が先鋭化されていくのだ。つまり【4】の意味で「絵画」の語を使用するとき、【2】や【3】のような様式の面で「絵画」の条件を満たしている絵に対して「“絵画”ではない(”絵画”に値しない)」といった言い方も可能になるのである。つまり「絵画」という言葉が、絵画作品の価値(質)を表す言葉として使用されるようになるのだ。そしてさらに踏み込んで言えば、「絵画」という言葉(あるいはその言葉から想起される曖昧で感覚的なイメージ)自体が、絵画の制作の現場においてイデアとして機能しているということも考えられるのではないだろうか。

 ところで、なぜ自分が「絵画」の定義にかくもこだわるかについても一言しておかなければならないだろう。もともと自分は「絵画」が描けないヘッポコ絵描きで、それこそ絵を描き始めたかなり初期の段階で「自分は絵画が描けない!」と自覚して、早々に絵画を描くことはあきらめた人間なのである。その意味では「絵画の制作の現場」には属さない、マッタクの部外者なのだ。
 しかし「自分は絵画が描けない」→「自分が描くものは絵画ではない」→「ではイッタイナンナンダ?」という迂回した経路をたどって、いつしか「絵画」の定義にも興味を抱くようになったのである。つまり「絵画」の外側にいる部外者ではあるのだが、言ってみれば外側から自らの境界線を定めるような意味において「“絵画”とはなにか?」などといった柄にもないことも考えるようになったのだ。
 とは言え、あくまでそれは自分の外側に位置する問題であって、基本的には他人事である。たとえば日常や制作の場において「絵画とはイッタイなんだろう…?」などといった問いが頭を過ぎることはまずない。そこまで「絵画」に憑りつかれているわけではないのだ。
 しかし、そんな他人事の問題に、不可避的に直面させられることが偶にある。それは「なぜ自分はこの作品に“絵画”を感じるのか?」がわからないのに強烈に「絵画」を感じさせる作品に出会ったときだ。
 おそらくそうした作品は、自分のなかにある「絵画」の定義の境界に接触しているのだろう。つまりその作品になぜ自分が「絵画」を感じるかを考えることは、とりもなおさず自分自身の境界を見定めることにも繋がるのである。そのとき、他人事だった問題は「自分の問題」へと変わるのだ。


 前置きが長くなった。そのような意味において今回「“絵画”とはなにか?」という問題を考えるために自分が取り上げたい「境界の画家」は、先日東京国立近代美術館で回顧展を見たばかりの日本画の巨匠、安田靫彦なのである。

(追補:当初はこの記事の中で「絵画」という言葉を使う際、上で定義した【1】〜【4】の数字をいちいち「絵画」の語の後に付けようかとも思っていたのだが、その計画は早々に挫折した。結局「絵画」という言葉の意味の隙間でしか語れないことが多すぎたからである。しかし最低限、分類可能なもので混乱しそうな場所では適宜注記した。)



●「絵画」と「イラストレーション」

 では「絵画」をめぐる問題において、安田靫彦の絵はどのような境界に接しているのか?
 それは「絵画」と「イラストレーション」との境界である。今回の展覧会を見てあらためて気付かされたのは、安田靫彦の絵の「イラストレーション」 度の頭抜けた高さだったのだ。

 しかし、そのことを検証する前に、まずは「イラストレーション」 の語の定義を行わなければならないだろう。
 とはいえこれもなかなかの難題なのだ。なぜかといえば「イラストレーション」 も「絵画」に劣らず多義的な語だからである。そこには「絵画」と同様に、様式と本質の二つの階層が混在しているのだ。そしてその定義付けには「絵画」との比較も深く関係していると思われるである。
 様式の面から言えば、たとえばその絵が置かれるべき媒体(場所)によって我々はある絵を「イラストレーション」 と呼び、ある絵を「絵画」と定義するといった呼び分けをしている。もとより厳密な区分けではないが、印刷媒体などに掲載される絵を「イラストレーション」と呼び、展覧会で鑑賞したり額装して壁に飾ったりする絵を「絵画」と呼ぶ、といった具合である。
 あるいは我々は絵柄によって「イラストレーション」 と「絵画」を呼び分ける。たとえばライトな画風の「イラストレーション」に対して、重厚で深みのある「絵画」、といった具合だ。
 補足するまでもなく、展覧会での発表されるイラストレーションもあれば、ライトな画風の絵画だっていくらでも存在する。あくまでナントナクなイメージなのである。しかしそれが「絵画」との比較で成り立っていることの意味は(少なくとも「絵画」について考える際には)大きい。(ただし現在では「絵画」のように「イラストレーション」 という語自体が自律した価値を持っているとも考えられる。しかしここでは「絵画」を中心に考察を進め、ジャンルとしての「イラストレーション」 の内部の問題には立ち入らない。)

 正直言って、様式による「イラストレーション」の定義には自分はあまり関心がない。それはホントのホントに「他人事」だからだ。
 もちろん様式と本質が根もとで深く結びついているということはありうる。見た目のナントナクなイメージによる判断が、えてして本質を捉えていたりもするのだろう。しかし当面の課題として、「絵画」と「イラストレーション」の両方の語とも定義を曖昧にしたまま考察を進めても、とりあえず生産的なものにはならないと思うのだ。

 したがってここでは様式ではなく、あえて本質としての「イラストレーション」の意味に絞ってこの語を使用したい。すなわちそれはなにかと言えば、「イラストレーション」=「ナニカを絵で説明したもの」という定義である。
 この場合のナニカとは、たとえば機械の構造を図解したような具体的なものから、商品や作品の雰囲気を象徴するような抽象的なものにまで多岐に渡る。重要なのは絵の外部にある対象を「絵で説明する」という機能を有していることである。つまり絵によってillustrateするという意味なので、語源的にもそれほど外れたものではないだろう。

 しかしこのときすぐに気付くのは、いわゆるジャンルとしてのイラストレーションだけではなく、美術の領域における絵の多くにもこの定義はあてはまるということだ。時代を遡れば「イラストレーション」の要素を持たない絵のほうがむしろ稀なくらいなのである。
 そこで本題に入る前にもう少し回り道をして、「イラストレーション」と「絵画」の関係について、超おおまかなイメージではあるが人類の作画史を辿って考えてみることにする。あらかじめ断っておけば、ここで使う「絵画」の語は、概ね先に挙げたリストのうちの【2】の意味に当たるだろう(ただし一部混乱する可能性はある)。


 「人はなぜ絵を描くのか?」という問いは自分をとらえて離さない永遠の謎なのだが、少なくとも人類の作画の歴史を俯瞰すれば、そこで目にすることの出来るものの大半は、描かれるべき実用的な理由を持った絵である。「なぜ描くのか?」という問いが浮かぶ以前に、既に「描かれるべき理由」が前提として明確に存在するのだ。
 そして「イラストレーション(絵で説明する=図示、図解)」は、絵の果たすべき重要な役割のひとつだったのである。そのほかの機能としては絵によって飾る(装飾)、絵によって記憶を後世に伝える(記録)などが考えられる。このうち記録の機能は「イラストレーション」の範疇にも含められる。そうすると「イラストレーション」と「装飾」こそが、絵の担ってきた二大機能だったということになる。

 「イラストレーション」と「装飾」という二つの機能を一枚の絵が担うことも珍しくない。たとえば教会に飾られる宗教画は、教義を絵でわかりやすく示すという意味において「イラストレーション」の機能を担い、教会の荘厳さを演出する内装として「装飾」の機能を果たしている。日本においてもやまと絵の発祥は屏風絵からだが、それらは絵と和歌が組み合わされるのが常態だった。つまりそこでも「イラストレーション(和歌との補完関係)」と「装飾(内装としての屏風絵)」という二つ機能の併存が認められるのである。
 それに比べると装飾写本や絵巻物などにおいては、絵は「イラストレーション」の役割により専心していると言えるだろう。写本や巻物は、大勢の人に見られる場に置かれる祭壇画や屏風絵に比べると、絵とそれを見るものの関係がより緊密なメディアである。
 そのほかに何の理由もなくただ楽しみとして絵を描くという習慣も存在したかもしれない。しかしそれは極めて私的な場に限られたものだろう。つまり落書きなどのことである。
 以上のように考えてみると、祭壇画や屏風絵→写本や絵巻物→落書きと、公共性が減じるに随って、絵が「描かれるべき理由」の必要性も低下していくことがわかる。
 「描かれるべき理由」の公共性の高さや権威は、当然描かれる絵自体の権威付けにも繋がっただろう。我々が考える美術史や絵画史は「美術」や「絵画」の概念が成立する以前の造形芸術に現代における「美術」や「絵画」の概念を当て嵌めて出来たものであるが、ここで気付くのは「描かれるべき理由」の公共性の高さや権威が、それらに含まれる作品の選定に影響しているのではないかということである。つまり祭壇画や屏風絵、あるいは貴族や為政者の肖像画といったものがまず「美術」や「絵画」の本流であると認定され、その次に写本や絵巻物といった分野にも目が届くようになり、さらにだいぶ下ってから落書きやいわゆるアウトサイダーアートのようなものにも「これも“美術”や“絵画”のうちに入れていいのでは?」といった話が出始めるのである。

 このことは「絵画」の概念の形成を考えるにあたって重要なことであるように思われる。というも「絵画」という概念が形成されたのは、まずは「描かれるべき理由」の権威に裏打ちされた絵がその権威を失うことに端を発していたのではないかと考えるからだ。
 つまりこういうことである。我々の持つ美術史における「美術」の概念が成立する以前に描かれた絵の多くは「描かれるべき理由」を持つ絵だった。しかし時が経つにつれて、だんだんと「絵を見る楽しみ」それ自体が肥大していったであろうことは想像に難くない。すると次第に「描かれるべき理由」は建前化していく。「絵を見ることそれ自体の楽しみ」が「描かれるべき理由」を凌駕し始めるのだ。
 そのとき問題となるのは、それまでは「描かれるべき理由」こそが描かれる絵の価値を担保していたということなのである。「描かれるべき理由」を持たない絵は、公的にはなんの価値も持たないものとされてきたのだ。つまり「描かれるべき理由」が形骸化してきたとき、既存の権威を保ったまま絵が描かれるためには、それまでの「描かれるべき理由(用途)」に代わる新たな「描かれるべき理由(value)」が必要とされるのである。そしてその価値こそがArt(美術)及びその概念のなかにおける「絵画」だったと思うのだ。
 用途としての「描かれるべき理由」をもって絵が描かれていた時代には、優れた芸術を生み出すものは、優れた技術であった。しかし「描かれるべき理由」が形骸化したとき、その技術自体が価値を持つものとして意味付けされたのである。「技術」の意味を持つギリシア語のTechneを語源に持つarsが、純粋芸術の意味を持つ今日のArtへと意味を変化させていった過程は、まさにそのことを端的に示しているだろう。

 そして「美術」や「絵画」が自律した価値として認められるとき、「装飾」や「イラストレーション」といった過去の「描かれるべき理由」は、むしろ積極的に排除されるべきものになるのだ。なぜならば既存の「描かれるべき理由」が無意味化することによって価値を獲得した「絵画」にとって、それら用途に基づいた役割はむしろ自身の価値を濁らすものとして機能するからである。俗に「こんなのはただイラストだ!」とか「装飾的すぎる!」といった言い回しが絵画の質の批判として使われるのはその名残りであろう。
 しかしそのいっぽうで「装飾」や「イラストレーション」としての絵の需要がこの世から消えたわけではない。折りしもその需要層は教会や寺院などの宗教組織、権力者、貴族階層などから、複製技術の発達により大衆へと移っていった。そのようななかで純粋芸術の「絵画」と区分するかたちで生まれたのが、様式やジャンルとしての「イラストレーション」や「デザイン」の概念なのだろう。つまりかつては「絵」のなかで混在していた機能の分業化が進んだのだ。
 そのことは純粋芸術としての「絵画」が、自身のアイデンティティを明確にするためにより純化する必要をも意味する。用途としての有用性や公共への従属を否定し、芸術としての「絵画」は作者個人の内面を表すものだとされる。あるいは自律性を極め、絵画は「絵画」について描くものだとされるまでに到る。その個人性、純粋性、抽象性によって「描かれるべき理由=用途がある絵」との差別化を図っていくことになるのだ。
 つまり「イラストレーション」は、絵画が「絵画」として自立するために切り捨てられた機能なのである。したがって一枚の絵における「イラストレーション」性と「絵画」性は、基本的には対立関係にあるはずなのだ。


 以上が(きわめて大雑把な)人類の作画史から見た「イラストレーション」と「絵画」の関係のおおまかな見取り図であるが、本題である安田靫彦の絵の説明に入る前に、いま少し日本における「絵画」の歴史(つまり先のリストでいうところの【3】)の面から「イラストレーション」と「絵画」の相対関係について考えてみよう。

 上に見たように「イラストレーション」の度合いが高まれば、「絵画」の自立は脅かされる関係にある。そして美術史が「絵画」の純化へと向かうベクトルに沿う限り、「イラストレーション」はそこから消えてゆく運命を持つ。
 日本における「絵画」の歴史において、そのことを逆説的に証明するのが先の大戦における戦争記録画である。美術史の流れにおいても、あるいはそれを描いた各作家の画歴においても、それらの絵が際立って異様に見えるのは、戦争の翼賛に協力したという道義的な問題だけに原因するものではないだろう。戦争翼賛を目的とした絵画ならば、たとえば当時の日本画家たちが比喩のかたちで盛んに描いた絵なども当てはまるからだ。しかしそれらの広義の「戦争画」が直接的に戦争を描いた戦争記録画ほどには美術史的にも個々の作家の画歴の中でも目立って特殊には見えないのは、偏にそこで採られた比喩という方法が「イラストレーション」としては間接だからなのである。つまりそれはまだ十分「絵画」の領域内にある機能なのだ。
 それに対して戦争記録画は近代的な「絵画」の様式と権威に依拠しながら「イラストレーション」の機能を「描かれるべき理由」として前面に掲げた絵なのである。それは「美術」の形成史のなかで見れば完全な先祖がえりであり、「美術」や「絵画」であることをも否定しかねない自己矛盾をその内部に抱えているのだ。そのことが単なる主題上の問題を越え、美術史の流れのなかでも、各画家の画歴においてもそれらの絵を「異様」として際立たせているのである。

 戦争画は広義の「歴史画」に含まれるが、歴史画はまさに「イラストレーション」と「絵画」のその狭間に跨って存在するジャンルなのだ。
 日本における歴史画の誕生は「絵画」の概念の形成の最初期に重なる。ナショナリズムの高まりという外的な要請と、主題の必要性という「絵画」の形成における内的な必要を要因として歴史画は誕生し、明治二十年代から三十年代にかけてのごく短期間、その一時の繁栄を極めた。外的要因の側から見れば、それはまさに日清戦争から日露戦争にかけての時期であり、先の戦争記録画の問題とともに「美術」における「イラストレーション」性の前景化とナショナリズムの高まりの関係には考察に値するものがあるかもしれない。
 しかしここではこれまで同様、内的要因にのみ焦点を絞って草創期の歴史画における「絵画」と「イラストレーション」の関係を見てみよう。

 歴史画の定義は難しいが、「イラストレーション」性の強さによってその内実を区分けすると以下のようなグラデーションが認められる。

〔1〕主題(歴史、物語、戦争)自体を描くための絵
〔2〕主題を何かの比喩のために描く絵
〔3〕主題を表現のための建前とする絵

 この場合、後になるほど「イラストレーション」度は低く、「絵画」の自律性が高まることになる。たとえば戦争記録画は総じて〔1〕に当たるが、その悲惨な描写から発表前は〔2〕の効果すら疑われたという藤田嗣治 の《アッツ島玉砕》の実際は〔3〕であり、故にその「絵画」性の高さによって後になっても評価されたのではないだろうか…などといったふうに区分けして考えることができる。
 では草創期の歴史画は〔1〕〜〔3〕のどれだったかと言えば、どうも混沌とした状況だったようなのである。それも無理もない話で、先に見たように第三回内国勧業博覧会で「書画」の部門が「絵画」と「書」に分けられたのが明治二十三年である。つまり「絵画」の概念自体がまだできたてのホヤホヤで腰が定まっていなかった時期であり、その形成の過程で浮かび上がった「絵画は何を描くべきか?」という疑問への解答として、そもそも歴史画は描かれるようになったという経緯もあるのだ。しかもその時点で手本となるべき本家の西欧では、既に歴史画は絵画のヒエラルキーの最上位から転落し、斜陽の道の途上にあったのである。ゆるやかに絵画の概念が形成された本家と違い、近代化とともにそれを一気に輸入した日本では、その過程が時系列を無視して同時に現れたのだろう。その混乱のなかで歴史画の価値をどこに定めるかをめぐって「歴史画論争」なども起ったが、結局全体の動向を決定づけるような指針にはなりえなかったという。

 つまり歴史画が流行したと言っても、そこでは上に挙げた〔1〕〜〔3〕の絵が指針もないまま同時期に混在していたのである。各作家のなかでもグラデーションはあるだろうが、それでも作家別に大まかに分けるならば、安田靫彦が最初に師事した小堀鞆音は〔1〕を代表する画家だったと言えるだろうし、靫彦の日本美術院での先輩にあたる横山大観、下村観山、菱田春草らが描く歴史画は同時代のうちでももっとも〔3〕に近かったと言える。
 そして靫彦がその八十年にも及ぶ画業をスタートさせたのが、まさにこの混沌とした歴史画の流行の真っただ中だったのである。


 さて、ようやく本題である安田靫彦に辿り着いた。では肝心の靫彦の絵は、上の〔1〕〜〔3〕のどこに位置したか?
 これがなかなか難しい。〔2〕の要素はほとんど感じないが、〔1〕と〔3〕が同時に存在しているような印象を受ける。つまり「絵画」性と「イラストレーション」性を一つの画面でどちらも同じ強さで感じるのである。
 「絵画」性のほうはさしあたり措くとして、靫彦の絵における「イラストレーション」性が実際にどのようなものなのかをまずは説明しよう。都合がよいことに、今回の靫彦展に合わせて東近美の収蔵品展では靫彦と関連のある同時代の日本画家の作品が多く展示されている。靫彦の絵と比較して見てみることにする。

 たとえば靫彦の盟友でもある今村紫紅の《時宗》(1908年)という絵が展示されている。解説には、鎌倉幕府第八代執権北条時宗が円覚寺開祖祖元に教えを乞う場面、とある。しかしそこに描かれているのが時宗と祖元であることを知らずとも鑑賞にとくに支障はないし、また知ったところでとくに大きく見え方が変わる絵でもない。
 それに対してその同年に描かれた靫彦の《守屋大連》はどうだろう。靫彦が自己の画風を確立させる以前の作品ではあるが、そこに描かれている人物が物部守屋であると知ったとき、なにか絵の見え方が変化しないだろうか。発表時から「此画の価値は専ら守屋の顔面の表情にあり」と評判になった絵であるが、単に表情に人間味や深みがあるということを超えて、自分が抱く故事の中の「物部守屋」のイメージにシンクロし、なにか絵のなかで物語が“ふくらむ”ような感覚を覚えるのである。紫紅の《時宗》が歴史上の有名な逸話の一シーンを描いたということに留まっているのに対し、靫彦の《守屋大連》は特定のエピソードを描いた絵ではないにも関わらず、タイトルに付された歴史上の人物の名とともに見るものの想像力の飛翔を促すのだ。これは靫彦の最初期の作品であるが、その後に靫彦が描く歴史上の人物すべてが、その名前から連想されるキャラクターや物語との緊密な結び付きを感じさせるのである。
 あるいは制作年代に差はあるものの同じ主題を描いているということで菱田春草の《王昭君》(1902年)を取り上げてみよう。この作品で目を引くのはなによりも没線描法の描写やパステル調の色彩である。しかしそうした造型的な要素と比較すると、主題である「王昭君」はこの大作の絵画を成立させるための建前として機能するに留まっていると言ってしまっていいのではないだろうか。春草が描きたかったのは、なによりも中国服を着た女たちによる群像図であり、同じような構図が実現できる主題が別にあるならば、他のものでも代替可能であるように思えてしまうのだ。
 それに対して靫彦の《王昭君》(1947年)はどうか。春草が匈奴のもとへと送られる王昭君の送別の場面を描いたのに対して、靫彦の絵は腰かけた王昭君を描いたポートレートである。解説には「ひとり迎えを待つ姿」とあるが、それが迎えを待っている場面であることを示すものは画面上には見当たらない。むしろ典型的な肖像画の構図によって描くことで、故事のなかの「絵師に賄賂を贈らなかったことによって醜く描かれた肖像画」をも想起させる。その場合の靫彦の絵は、本来描かれるべきであった真の姿の王昭君の肖像画ということになるだろう。つまり典型的な物語の一場面を描いた春草の《王昭君》よりも、はるかに物語を想起させる、すなわち典拠となる故実に対して「イラストレーション」 としての役割を強く果たしている絵なのである。もしこの作品のタイトルが「王昭君」ではなく別のもの(たとえば「楊貴妃」とか)だったら、絵の見え方は驚くほど変貌してしまうだろう。

 つまり言ってしまえば、靫彦の絵は「イラストレーション」としてムチャクチャ優秀なのである。歴史画だけではない。たとえば肖像画も、靫彦が描く絵は「肖像画」と呼ぶのが躊躇われるほど、描かれた対象のキャラクターを感じさせるものなのである。その意味では「絵画」の概念下にある「肖像画」よりも、「似絵」や「似顔絵」にむしろ近いのかもしれない。
 では靫彦の絵は「絵画」ではないのかというと、そんなことは全然なく、自分は「絵画」の要素も大いに彼の絵のなかに感じるのである。この相反するべき二つの要素が、互いの強さを減じることなく一つの画面に共存している不思議こそが、靫彦の絵の最大の特徴(特殊性)なのだ。

 ではそうした靫彦の絵の特徴は、なにに由来しているのだろうか? 次項では安田靫彦がどのような「絵画」観を持っていたかを軸にして、そのことを検証してみたい。



●安田靫彦の「絵画」観

 「およそ絵画の研究は黙識すべくして、言説するは難事である」という、まるで今の俺の心境を代弁するかのような出だしで始まる「古画の研究に就て」という長文のエッセイを、靫彦は大正四年(1915年)ころ日本美術学院の『通信美術講座』という雑誌(?)に書いている。画家を志す初学者に向けて古典美術から学ぶ際の心構えと実践の方法を説く内容だが、靫彦の芸術観をよく示していてたいへん興味深い。
 靫彦の古典作品から学ぶ姿勢は次の一文に端的に表れている。


古画を観察するには、先ず全く純粋な自分の感情を以て対する事である。伝来や因襲に囚われずに偽らざる心を以て観る事である。
 

 知識や先入観にとらわれずに自分の感覚、感情を重視して深く見ること。靫彦の学習(鑑賞)態度はそこから一歩もぶれない。そしてこの姿勢は自国の古典美術だけでなく、西洋美術や、自然の観察(写生)にも適用されるのである。
 靫彦と言えば「日本の美」の遵奉者というイメージが強い。古典美術の研究に重きを置いた日本画の巨匠にして歴史画の大家。描く題材は日本武尊、卑弥呼、聖徳太子、万葉集、富士山。さぞかしゴリゴリに保守的な国粋主義者なのだろうとイメージするが、しかしこと絵に関しては靫彦の態度はすこぶるリベラルなのである。「絵画に東西の別はない」が彼の基本姿勢であり、画面内の構図が三角形の節奏で成り立っているという分析において雪舟とセザンヌに共通点を見出したりもしている。

 このリベラルな芸術観には世代的なものも関係しているのかもしれない。明治十七年(1884年)生まれの靫彦は、五浦の日本美術院に学び天心の薫陶を受けたとはいえ、先輩である大観(1868年生)、観山(1973年生)、春草(1874年生)らと比べれば一つ下の世代である。彼ら第一世代の近代日本画の先駆者たちに比べて、西洋美術ないし国内の西洋画への対抗、あるいは日本の伝統美術対する正統の証明といったプレッシャーは靫彦には希薄だったのではないだろうか。
 博物館で古代の仏教美術を見て感動し、展覧会で観山や春草の絵を見て画家になることを決意した靫彦はバリバリの近代人であり、「美術」の制度が整い始めたその恩恵をものごころつく頃から受けることのできた最初の世代である。洋行体験のある大観らに比べ、体の弱い靫彦の唯一の留学先は国内の奈良だったが、しかし結果的にそのことも彼のリベラルな芸術観の形成に繋がったのではないだろうか。文字通りタイムスリップにも思われたであろう古都への旅は、東京生まれで東京育ちの靫彦にとって洋行に等しい体験だったと推察されるからである。つまり靫彦の目には、自国の古典美術も、西洋の美術も、もちろん中国の美術も、学ぶべき対象として同一の地平に同じ距離感で存在する差別なきものとして映っていたのではないか。彼の「絵」全般に対する際立って公平な態度からはそう感じられてならないのだ。

 その靫彦の「絵画」観の一端を示す以下のような一節がある。


絵画は構図―線ー色彩ー形の四つの要素から成立って居る。そして各要素の中に各節奏と調和とがある。即ち線の節奏、色の調和と云う如きものである。そして其の各要素が又節奏と調和によって結びつけられて居る。それが微妙に織り成されたものが即ち名画である。
 

 素っ気ないほど客観的かつ分析的な説明である。ここに入り込む余地のないものはイデオロギーや信仰による偏見だろう。この科学的とも形容したくなるほどの客観性をもって、このエッセイでは古今東西の膨大な美術作品を構図、線、色彩、形のそれぞれの面から分析し、批評しているのである。
 とはいえ靫彦の「絵画」観は客観性のみで成り立っているわけではない。彼にとってなによりも重要なことは作品に「自分の感情を以て対する事」だからだ。「絵画」を「図案」と比較して説明する箇所を引用する。


図案の法則には、均衡、分量、節奏、調和等の要素があって、絵画にも亦共通である。けれども絵画には其の外に生きた意味が含まれていて、其の法則以上に超越するものを要するのである。
 

 つまり「節奏と調和」だけでは図案も同じであって、それだけでは「絵画」たりえないということなのだろう。この場合の「生きた意味」は意味の広く取れる言葉だが、なかなか興味深い、気になる表現だ。というのも「均衡、分量、節奏、調和等の要素」だけならば、靫彦の作品を見ればその画面より容易に見出すことができるからである。しかしそれを超えて彼の絵に「絵画」を感じるとすれば、それはここで靫彦が言う「生きた意味」に関係しているのではないかとも考えられる。

 そしてさらに読み進めていくと、今度はそれまでのリベラルで進歩的な態度とは相容れないような記述に行き当たる。


芸術は人格の表現である。幾多の伝記よりも一個の遺作が能く其の全人格を表白する。
 


品位は絵画の各要素の調和の完美にあるとも云えるが、背後に存在する作家の人格と感情の高さによって霊妙な力を現わし得るのである。
 

 科学をも思わせる客観的な態度で作品を評してきたこれまでの靫彦の姿勢に比べると、この保守的な精神論をも思わせる時代がかった「作家の人格」の強調は意外なものに感じられ、戸惑いを禁じ得ない。
 この言をそのまま靫彦自身の絵に投げ返し、彼の人格や品位の高さをもってその作品の魅力の説明とする向きも靫彦作品の批評にはまま見受けられるが、それはただ言葉の表面的な意味のみをとって解った気になるだけの安直であろう。それでは何も言っていないに等しいのである。

 むしろここで気付くべきは、この時代錯誤とも思える「作家の人格」の強調こそが、靫彦の造形芸術を見る目の超時代性を表しているということではないだろうか。
 つまりこういう事である。先に見た偏見なく古今東西の「絵」全般に平等に接し、構成要素ごとに客観的に論じていく靫彦のリベラルな姿勢は、たしかに大観ら一世代前の日本画家と比べると格段に進歩的な態度に見える。しかし「絵画」の概念の成立の歴史を考えたとき、それは絵画が「絵画」として自立する以前の時代における、工人の「技術」に対する態度とも重なるのだ。仮名書の流麗にやまと絵の描線と同種のニュアンスを見て取り、書と絵を同列に語る靫彦のリベラルな姿勢は、近代的な「絵画」の形成を逆行しているとも言えるのである。
 それとは逆に、芸術作品に「作家の人格」を見て取り、そこにこそ芸術作品の価値を見出す態度は、一見すると非科学的な前時代のものであるように思える。しかしそれはあきらかに絵が単なる工人の技術の産物でしかなかった時代にはなかった「絵の見方」なのだ。
 もちろん古代にも書に人格や感情を見て取る視線はあったかもしれない。しかし造形芸術全般にその視線は適用されただろうか? 『源氏物語』の絵合の巻には、数々の壮麗な絵が提出されたあと、最後に光源氏が配流中に描いた須磨の絵日記が出され「かゝるいみじきものの上手の、心のかぎり思ひすましてしづかに書き給へるは、たとふべきかたなし」と一同感動して涙するという場面がある。一見これなどは王朝人たちが絵に作者の人格や感情を見ている証拠であるようにも思えるが、しかしやはりこれは光源氏の地位の高さと境遇、そしてなによりも描かれた題材に拠るものだろう。絵合の巻でいえば前半部にある宮廷女房たちによる物語絵合せにおいて、絵に対する批評はそっちのけでもっぱら描かれた主題の優劣の議論にのみに終始している態度こそが、当時の「絵の見方」の標準だったのではないだろうか。

 つまり古典の造形に「作家の人格」や「感情の高さ」を見て取る靫彦の視線には、あきらかにそれらが作られた当時には存在しなかった近代の「絵画」観や「美術」観を経た痕跡が認められるのである。それと同時に彼の視線は近代的な「絵画」の境界を超越し、「絵」全般を平等にまなざす超時代性も有している。それは時代を超えて、「絵画」が成立する以前の技工たちの視線にもシンクロするのだ。
 そして、この「絵画」をめぐる近代と前近代の混交は、靫彦自身の制作に強くも反映していると思われるのである。なぜならば、古典美術と近代以降の「美術」が、汎的な「絵」と「絵画」が混ざり合って節奏と調和を演じているものこそが靫彦の絵だからだ。


 ところで、ここまで見てきたのは絵の構成要素(構図、線、色彩、形)や絵を鑑賞・制作する際の姿勢についてだった。つまりは絵を「どう描くか」の問題である。
 では靫彦は「なにを描くか」、すなわち画題についてはこのエッセイのなかでどのように語っているのだろうか。以下に引用する。


凡そ芸術の高さは扱う人、扱い方にあって画題の如何には係らない。宗教画も信仰衰え内容が空疎になった時のものは全く採るに足らぬ工人の技と少しも択ぶ所がない。古来から釈迦、孔子、達磨、阿修羅の如き画題を描いた作品は数限りもない程であるが、其の過半はそれ等の高い人物を現すどころではなく、異相を描かんとして乞食、狂人の如き怪悪な姿態を描いて居るが、俗衆は多数のかかる画に久しく馴致されて敢えて怪しまずに居たのである。そうしてかかる画を床の間に掲げ、浮世絵の如きは鄙俗なりと擯けて居たがここぞ知らん春信等の美人画の如きは気格高く到底彼の道釈画や、足利以後衰残の土佐画などと伍する能わざるものである。ミレーの描いた百姓や貧しい労働者には幽渺たる気韻があふれて居て、普通に見る多くの聖像や天使よりも遥かに高い調子を持って居る。ミレーは「犢の死」や「豚殺し」を描いても矢張り品位を失っては居ぬ。
 

 つまり一言で言ってしまえば「画題なんて(芸術の価値には)カンケーネー!」ということである。ここにも時代を超えた靫彦の「絵画」観が発現されている。
 もしこれが意外に聞こえるとすれば、それは偏に靫彦が歴史画の主題を生涯を通して描き続けたからに他ならないだろう。しかし上の発言からはっきりと気付かなければならないことは、靫彦にとっての歴史画という主題は、西欧絵画のヒエラルキーによる権威はもちろん、愛国的なナショナリズムなどを理由に選ばれたものではないということなのである。今回の展覧会では靫彦の書簡にあったという「昭和聖代を表象するに足るべき芸術を培ふ事を忘れてはならない」という言葉を先の大戦中に制作された作品を並べたセクションの章題としているが、しかし上の理屈から言えば「昭和聖代を表象するに足るべき芸術」を生み出すには、描かれる主題は源頼朝であろうと、山本五十六であろうと、豚殺しであろうと変わりはないのだ。
 ちなみに展覧会では上の言葉を引いて「靫彦は、画家が自身の創意を尽くすことが真の報国だと考えていた」などと解説されているが、これはマッタクの誤読だろう。戦時中に書かれた体制翼賛色の強いエッセイ「古画雑感ー日本画とは何かー」(昭和十四年)などを読んでもわかるが、靫彦の「国家」観は「芸術」や「いい作品」に常に後続するものなのである。彼は古典美術の研究から得た「優れた芸術は、芸術が正しく愛された時代にこそ生まれる」という考えに基いて、国家がその環境を用意するからこそ「国家の力が充実し国民の精神感情が高い時代」を評価し、切望するのだ。つまり靫彦の発想では「いい作品」が生まれることこそが第一義であって、「報国」どころか、むしろ「国家」はいい作品を生み出す環境を提供するためにこそ存在するものなのである。靫彦は一貫してイデオロギーを作品に先行させるタイプの画家ではなく、このことは靫彦の作品について考える際の重要なポイントとなるだろう。

 では、なぜ靫彦は「歴史画」の主題に拘ったのか?
 その理由は意外と単純なものかもしれない。後のものだが「私の読書」(昭和二十七年)というエッセイのなかで靫彦は次のような言葉を残している。


それから私は歴史が好きで、歴史画を多く描きましたので、画題を探す意味でその方の関係のものに親しみ、有職故実や、風俗史、文化史に没頭したこともあります。しかしこれは、とかく、道楽に陥りやすく、知識欲の追及は際限がなく、やがて、肝心の画の修業がおそろそかになるのに気づいたので、骨を折って集めた本を売り払って写生に精進したことがありました。
 

 つまりは「歴史が好きだったから」なのではないだろうか。それほど難しい話ではあるまい。
 先に触れたように靫彦が画家としてスタートしたときは、歴史画の流行の絶頂期であった。その時点では歴史画を画題に選ぶことは普通のことだっただろう。ましてや自己の芸術の範となった古典の巻物絵なども、遡って定義すれば「歴史画」の範疇なのである。さらに古典美術のほとんどが歴史画を描く際にそのモチーフとなりうるのものなのだ。画題に重きを置かないならばなおさら歴史画を“描かない”という選択のほうが、むしろ靫彦にとっては必然性が薄いものだったのではないだろうか。

 それと同じ理由で、靫彦にとって「イラストレーション」の機能を絵から捨て去ることも、その理由の見出せないものだったに違いない。造形表現を鑑賞する際にイデオロギーによる価値判断をしない靫彦は、色彩が本義で線は従だとか、古来から続く画法だから正統だとか、そうしたヒエラルキー的な見方は一切しない。ただ「全く純粋な自分の感情」をもって絵を見て判断したときに、優れたものと、つまらないものがあるだけなのである。故に新しい時代の「絵画」を指向したとしても、古い時代の表現にそれを超える魅力的な要素があるならば、それを放棄する理由自体がなかったのだろう。かのごとくして靫彦の例外的に「イラストレーション」性と「絵画」性が同じ力で同居する「特殊な絵」は生まれるに到ったのではないだろうか。

 とはいえ実際のところ、なぜ靫彦が歴史画の主題に拘ったかとか、なぜ彼が「イラストレーション」性を棄てなかったかなどは、それほど重要ではないのである。なぜならばそれは靫彦の問題であって、それを見る「俺の問題」ではないからだ。
 では「俺の問題」はなにかと言えば、そのようにして生まれた「イラストレーション」と「絵画」が同居している画面内でなにが起こっているかであり、それが自分にどのような感銘を与えているかということなのである。
 次項では再び「絵画」の定義を核としながら、そのことについて考えてみたい。



●「絵画」と「動的な状態」

 冒頭で触れた二月のトークイベントでは有原友一氏の制作方法がたいへん話題になった。というのも彼は作品を「延々と描き続ける」のだと言うのだ。イベントが開催された個展会場に展示されていた絵も本人いわく「まだ描き続けると思う」と言うのである。
 このことは居合わせた画家たちを驚かせ、そして呆れさせた。というのも一般の認識では絵画とは安田靫彦が言うところ画面内の各要素の「節奏と調和」のこそが命であり、まして有原氏の描くような筆致だけで構成された純抽象絵画に至っては「画面に寸分の隙なく一寸を割いても全画面に影響を来たす程に洗練充実」して初めて「絵」として成立するというのが常識だからである。つまりそれは完成してこそ初めて「見えてくる」ものであって、描きかけの絵を世に出すくらいなら死んだ方がましだくらいに思っている画家だって決して珍しいものではないだろう。
 もちろん世の中には八割がたの完成が八割の価値を意味するような絵もなくはない。しかしたいがいは八割と十割の出来の差がそのまま絵の価値の8:10になることは稀で、もうこれ以上筆を入れる余地のないという完成の地点に到って初めて作品としての価値を持ちうるというのが「絵画」としての本来の在り方なのである。ましてや有原氏のような作風の絵ならば、九割九分九厘までは届いていても、十割の地点に達していならば「絵画」としての価値はゼロに等しいといったことさえまま起こりうるのだ。本人はしきりに「(延々と続く制作期間のなかで、完成作として持っていかれてもいいポイントに到達するような)波はある」ということを強調されていたのだが「(まだ続きを描くかもしれないのに)持ってかれちゃってもいいの!?」という他の画家たちの驚きは、絵描きの心理としてはまことにもって当然すぎるほど当然なものなのであった。
 しかし話が進むうちに、まさにそのことこそが彼の作品の魅力に繋がっているのではないかということが次第に見えてきたのである。つまり「画面に寸分の隙なく一寸を割いても全画面に影響を来たす程に洗練充実されている状態」というのは絵として完成された状態ですなわち「十割」な状態のことであるが、同時にそれは「止まってしまっている状態」でもあるのだ。通常はそのもう一寸も動かせないという緊張感は、その緊張感自体がまさに「絵画」の価値として機能するのであるが、有原氏の絵の場合は、その作風からして完成した瞬間にそれが類型の絵の「完成」の型に嵌っただけのように見えてしまう危険性もあるのではないかということがだんだん見えてきたのである。
 つまり「十割」の状態に達しても、単なる「それっぽくイイ感じにまとまった絵」に見えるだけで終わってしまうのではないかということなのだ。言ってみれば九割九分の段階でもまだゼロ割の価値しか持たない絵が、十割の「完成」に達しても、その価値は六〜七割しか届かない、といったところだろうか。そしてその場合に十割の価値を目指すには「止まってしまっている状態」に近づきつつも、そこに嵌ってしまわずに動き続けること、すなわち限りなく十割に近いがそこに到っていない九割九分九厘九毛九九九九九九九九九…というミクロの地点を目指すか、さもなければ十割とゼロ割がひとつの画面に同時に存在しているような矛盾の状態を目指すか、そのどちらかしかないのである。
 そしてたしかにそうして話を聞いてみると、ついさっきまで「一寸を割いても全画面に影響を来たす程に洗練充実されている状態」に見えていた画面が、次の瞬間にはまったくのゼロ割、つまり「絵」にすら見えなくなるということが有原氏の作品を見ているときには起こっていることに気が付いたのである。そしてその一定の地点で停止してしまわない「動的な状態」を保っていることこそが、自分が有原氏の作品に魅かれるポイントであり、彼の絵の最大の魅力なのではないかと結論付けたのだった。

 しかしここで一つ疑問が発生する。なぜ我々は完成度十割の地点に達成した「それっぽくイイ感じにまとまった絵」よりも、十割とゼロ割がひとつの画面に同時に存在しているような不安定な状態にある有原氏の絵の状態をより「魅力的」として捉えるのだろうか。言葉の混乱のを承知でさらに言えば、なぜ自分はその後者により強く「絵画」を感じるのか?


 ここで再び安田靫彦に話を戻すのは、自分が彼の絵にもこれと似た「絵画」の境界を見るからなのである。

 靫彦の絵を評する言葉としての定番は「美しい」、「品のある」、「澄んだ」、「華やか」などであろうか。なるほど、彼が古典研究や自然観察から得た成果であろう「美しい線や形」、「品のある画面」、「澄んで華やかな色彩」などは誰の目にもあきらかな靫彦作品のトレードマークである。
 しかし愛好者は別として、靫彦の絵に対する一般の観客が抱く感想は、もしかしたら「ヘンテコ」が一番なのではないだろうか。初めて靫彦の絵を目にしたものならば、美しい線や澄んだ色彩に目が留まる以前に「なんかマンガみたいでヘンテコな絵だな〜」と思うのが典型的な第一印象であるようにも思えるのだ。かくいう自分自身が、美術館の日本画のセクションで靫彦の絵にいきなり出くわすと、思わず笑ってしまうことも度々なのである。確かに各要素はすこぶる上等だし、上品でもある。でも上等で品もあるのにヘンテコなところがヘンテコなのだ。

 このヘンテコ感が生じる原因としてまず考えられるのは、彼の絵の最大の特長である「絵画」と「イラストレーション」の要素の同居だろう。その本来ならば「あり得ない状態」にあることが、既存の見慣れた絵画の「型」からズレた違和感を感じさせ、それが「ヘンテコ」と感じる要因になっていると考えられるからである。
 いくつか指摘するが、ここで使う「絵画」の語はいくつかの階層にまたがっているので、混乱しないようにあらかじめことわっておく。
 まずは様式(フォーマット)としての「絵画」と「イラストレーション」がバッティングしている場合である。ここで言う様式は絵の内部(画風、画質)ではなく、物理的な大きさや額装といった外側の様式と捉えてもらいたい。靫彦の歴史画における「イラストレーション」性に類似するものは、古典の絵巻絵にならば見出せる。しかし絵巻のサイズが「イラストレーション」の目的に適しているのに対し、靫彦の歴史画は絵巻絵と同じように物語を感じさせる「イラストレーション」度の高い絵を、会場芸術のための大型の画面の額装絵で描いてしまうのである。するとそこに既存のイメージとのズレ(違和感)が生まれるのだ。
 外的な様式と絵柄のズレによるヘンテコ感の最大は、靫彦の仏画ではないだろうか。軸装や構図自体は伝統的な仏画と変わりがないのだが、靫彦はそのフォーマットで既存の図案的な仏画のイメージからは大きく逸脱するやまと絵的な柔らかい描写をもって表情豊かな仏像を描いてしまうのだ。そのため、なにかまるでマンガの一コマを抜いてきたような、滑稽なまでに動きを感じさせる仏画になってしまっているのである。 
 あるいは絵の内部の様式としてのズレもある。靫彦の絵の売りであり古典研究の成果でもある洗練された美しい線、セザンヌからも影響を受けたという計算され切った緊張感のある構図、近代日本画家の中でも抜き出ている澄んで深みのある色彩などの絵を構成する諸要素が、「イラストレーション」の目的のためには無意味に高品質すぎるのである。つまりそこにズレが生じるのだ。

 そうした意味では今回の展覧会の看板作品であり、靫彦の代表作ともされる《黄瀬川陣》(1940年)は、自分のなかではややズレが見えにくい作品なのである。つまりヘンテコ度が低いのだ。
 その原因として考えられるのは、六曲一双の屏風絵というフォーマットが絵の内容とイメージのズレを呼んでいないこと、そして靫彦のなかの作品では「イラストレーション」度が低いように感じることなどが考えられる。
 『義経記』に取材して黄瀬川に陣を張る頼朝と、そのもとに駆け付けた義経を描いたこの作品は、二人の心理がよく描き分けられた近代歴史画の傑作とされている。確かに義経の表情には若干それが感じられないでもないのだが、しかし他の靫彦作品から比べると物語性を喚起させる度合いが低くないだろうか。それ以上にこの作品で目立つのは、なんと言っても画面の張りつめた構成と細部の描き込みの精緻さであり、ややもするとそれは窮屈にも感じるほどなのだ。つまり「イラストレーション」性が「絵画」性に押されて見えるのである。発表当時この絵は、時節がら「国難に馳せ参じる国民の比喩」と捉えられ称賛されたそうだが、裏を返せばそういった比喩的な読みを許してしまうほどに靫彦の絵としては「イラストレーション」としての機能が減じているということではないだろうか。つまり質の高さはともかくとして、言ってしまえば「普通の日本画」にも見えてしまうのである。
 とは言えこの作品が凡作かと言えばそんなことはなく、よくよく観察すれば靫彦ならではヘンテコ感も感じられなくもない。とりもなおさず自分にとっての靫彦の絵の評価が「ヘンテコ感」にこそかかっていることが確認できる絵である。

 同じ屏風絵というフォーマットでも《風神雷神図》(1929年)の笑撃度は靫彦の絵のなかでも際立っている。ちょっとヘンテコが過ぎるくらいだ。《黄瀬川陣》をヘンテコな絵と形容する人は少ないかもしれないが、この絵の飛び抜けたヘンテコ感は誰もが共有するのではないだろうか。
 この作品のヘンテコの一番の原因は、「絵画」と「イラストレーション」のズレよりも、オリジナルの宗達(もしくは光琳)の《風神雷神図》とのズレだろう。しかしそれが単なる受け狙いのパロディ的なズレではないことこそが重要なのである。宗達を誰よりも尊敬して目標とし、そこから学び新しい表現を生み出すべく研究と研鑽を重ねて出来た「真面目な帰結」としてこれがあって、全体のヘンテコ感に比して線描など各要素は不必要なまでに上等なところなどが、むしろヘンテコの要なのである。単にヘンテコなだけでいいだけならば近代日本画(もちろん洋画も)など、ヘンテコな絵の巣窟なのだ。靫彦は物の表面だけを忠実に写し取る意味での写実を「卑近な写実」と呼び、彼が重んじた物の本質を捉えることこそを目的とした「高度な写実」と呼び分けをおこなっているのだが、それに倣って言えば、「卑近なヘンテコ」ではなく「高度なヘンテコ」であることこそがなによりも重要なのである。


 ところで、靫彦自身は自分の絵のヘンテコ感をどう思っていたのだろうか? もちろん「ヘンテコ」とは思っていなかったに違いない。しかし靫彦ほどの客観性に富み本質を見抜く鑑賞眼を持つ画家ならば、自作を見る際もその眼が曇らされることはなかっただろう。範とした古典作品には見当たらず、自らの作品のみに存在するこの感覚に気付かないはずがないのだ。問題はそれを何だと思っていたかである。

 思うに、靫彦は自分の作品の「ヘンテコ」感を、「古きに学び、新しきを生む」の「新しき」に当たると考えていたのではないだろうか。つまり新機軸である。そしてその意味において、この「ヘンテコ」感こそが靫彦の絵における近代性を最もよく示している部分だとも言えるのだ。
 靫彦の芸術論のなかでもっともわかりやく「近代」を感じさせるなものはフェノロサ、天心、大観らにも直結する進歩主義的な価値観である。「古画の研究に就て」より引く。


曾て我が祖先は唐宋の文明芸術を日本化して大なる芸術を造った、我々は新しい且つ深い眼を以て古今東西を観照し、古人以上の仕事を為さなければならない立場に居るのである。
 


故に古人の仕事を研究し、最高の芸術を理解するだけの力を養わなければ、自然に接しても其の真に触れる事が出来ず、前人の踏まなかった道を拓いて行くことも出来ぬ。
 


芸術上の新しい運動は古い芸術の研究から出立するのである。
 

 ただしこの芸術は先人に学びつつも常に新しくなければならないという近代的な芸術観は、フェノロサ、天心の思想に起源するだけのものではなかったかもしれない。というのも靫彦の評価に基づき美術史の地図を描けば「自然や古典より本質を掴み、新しい表現を生み出すこと」と「型や模倣に終始しすること」の二者により、その盛衰の構図を綺麗に分けることが明白だからだ。いくら古き良き芸術に学んでも、単なる模倣で終わったり、型にはまって発展を止めたりすれば、堕落、没落していった多くの流派や模倣者と同じ運命を辿る。そのことを靫彦は、古人たちの作品の研究を通じて学んだのではないだろうか。

 そもそも靫彦ほどの実力があるならば、「やたら上等なイラストレーション」や「とても日本画らしい日本画」や「ひじょうに忠実な古画の再現」などを描くことは造作もないことであるはずなのだ。しかしそれは型であり、模倣なのである。つまり停滞と堕落の入り口なのだ。そこから逃れるためには、常に芸術は新しい表現の創出に励まなければならない。古典の中から、あるいはまた自然の中から、新しい美を発見してこれを高く示さなければならない。そのためには前人の踏まなかった道を拓いて行く必要がある。靫彦の絵の「ヘンテコ」感は、その「新しい芸術」を生み出そうとしたその努力の成果としてあるのではないか。つまりそれこそが範とした古典にはない、彼の同時代的な「絵画」だったのではないか。

 靫彦は芸術の特性を以下のように語っている。


古来のいい作品は、完成しきっていてそれで発展性に富んでいる。常識的に考えられるこの矛盾が、少しも矛盾でないところに芸術の偉大な特殊性がある。(「速水御舟君の足跡」昭和十年)
 

 「完成しきっていてそれで発展性に富んでいる」というその「矛盾」。この言葉は、先に見た有原氏の絵において十割とゼロ割がひとつの画面に同時に存在している状態の不思議と重ならないだろうか? そしてそれは「絵画」と「イラストレーション」が互いに力を削ぐことなく同じ強さで併存することで生まれる靫彦の絵の「高度なヘンテコ感」の説明にもなっているのである。
 この二つの状態に共通するのは、どちらも「絵画」のイメージに向かいつつ、そこから限りなくズレ続ける「動的な状態」にあることだ。そして考えてみれば、「絵画」は常に既存の「絵画」のイメージからズレ続けることで「絵画」たりえてきたのではないだろうか。
 たとえば現代絵画の不必要に巨大なサイズ。あれは既存の「絵画」のイメージからズレ続けるため、常に「不必要な大きさ」であり続けたことの結果としてあの馬鹿みたいなサイズまでに到ったのではないか。あるいはそうした既存の「絵画」のイメージからズレ続けることの帰結として(たとえば高木秀典氏の作品のような)既に「絵」のカテゴリーにすら入らない作品までが強烈に「絵画」を感じさせるといった事態をも引き起こしているのではないか。

 ここで冒頭の「絵画」の語の定義、いやその定義の混乱に話が戻る。つまり二月のトークイベントより自分が抱き続けてきた疑問は、その「絵画」というイデアに向かって既存の「絵画」のイメージからズレ続ける「動的な状態」自体を、「絵画」と呼ぶことは可能か?ということなのだった。
 さすがに言葉の混乱が過ぎるかもしれない。しかし有原友一と安田靫彦という時代も作風も立ち位置も遠く隔たった二人の画家の絵から受けるこのよく似た二つの感覚を言い当てる言葉は、やはり自分には「絵画」しか思い当たらないのだ。
 つまりそこにこそ(少なくとも自分にとっての)「絵画」の境界は存在するのである。

*

 最後に開催中の展覧会のことについても少し触れておく。そもそも自分が安田靫彦に興味を持つようになったのは2010年にニューオータニ美術館で開催された展覧会がきっかけで、そこで見た写生画の巧みさとそれに向かう画家の態度には、自分が同じ絵描きを名乗ることが恥ずかしくなり身の縮こまる思いがしたほどであった。今回もそれらの写生画が見ることができるかと楽しみにしていたのだが、「本制作ばかり一〇八点」を売り物にしてるためか出品されてはいない。
 というかこの展覧会、イマドキこんなんでいーのか?と疑問に思うまでに、芸もなくただ年代順に作品を並べただけの凡庸な内容なのである。靫彦の絵画の魅力を伝えようとする工夫(または愛)や、その新たな側面を見出そうとする気概も感じられない。「じっくりふんだんに作品を見てもらう」といったコンセプトなのかもしれないが、なにか「本制作ばかり一〇八点」の豪華さや「東京国立近代美術館」の看板、そして既存の靫彦評価に胡坐をかいているかのような印象すら受けてしまった。
 今回、靫彦自身の言葉を多数引用したのも、展覧会ではあまりに表面的で通り一遍なイメージでしか描かれておらず疑問を解消する手立てとして役に立たなかったので、仕方がなく自分で直接資料に当たってみたことの結果なのである。事前には会期中に何度か通って展示替えの作品も含め全作品を網羅しようかと計画していたほど楽しみにしていた展覧会だっただけに、この点に関してはなんとも残念だった。



「安田靫彦展」
東京国立近代美術館(2016年3月23日〜5月15日)
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/yasudayukihiko/


参考文献:
安田靫彦『画想』(中央公論美術出版)
北澤憲昭『境界の美術史ー「美術」形成史ノート』(ブリュッケ)
山梨俊夫『描かれた歴史ー日本近代と「歴史画」の磁場』(ブリュッケ)
青木茂編『明治日本画史料』(中央公論美術出版)
posted by 3 at 21:03| 日記